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第146章  戦わずして、敗れる道

(1572年6月)越前


春の名残りが谷に滲み、白い朝靄がまだ低い。


越前【1】の山あいを、荷車の列がうねりのように進んでいた。


北陸方面軍を総べるは柴田勝家、その先鋒の一角を担うのは前田利家である。


利家は馬上から列の前端を見やり、短く声を放った。


「止めろ――左の車輪が石に噛んだ!」 先頭から三台目が石に乗り上げ、ぎし、ぎし、と不吉に鳴いて


横腹から沈む。


輪芯に使った栗の木が湿りを吸って膨らみ、締め金が緩んで鉄の帯が外れた。


俵が泥へ崩れ、楯と灰色漆喰(セメントに似た配合のもの)の袋が水を吸って黒く鈍った。


「こんなもの、道とは呼べぬ」 利家は嘆息し、馬から下りた。


足首までのぬかるみに草鞋わらじ【2】が沈む。もとよりこの道は、牛に俵を引かせる生活路に過ぎ


ぬ。


そこへ軍馬四十頭、荷車百台、人足と馬方を合わせた千人の縦列を通すのだ。道は脆く、狭く、浅い。


雨の度に、道そのものが敵になった。


「今朝の出水で、谷筋から水が逆流しております!」


「小川の渕、筏橋が一本流されました!」 斥候【3】の報告が畳みかける。


利家は泥を摘み、指先で潰した。――砂利もなければ、排水の仕組みもない。


踏めば崩れ、崩れれば飲み込む、脆い地肌であった。


「輪は幅を二分(約6cm)広げよ。新式の締め金で絞め直せ。俵は人で、箱は馬で運ぶ。


楯・石灰・工具は一旦後送し、米と塩と矢だけを先に通せ」


黒鋤隊【4】の指揮官・平八郎が頷き、油布【5】で工具箱を包み直させる。


路肩には杭を打って排水溝を掘り、曲がり角の内側には石を敷く。


谷の浅瀬には二重の縄で結んだ筏橋。


早月川・片貝川の渡し場には臨時の馬留うまどめを設け、舟から馬、馬から人へと荷を中継する拠点


(ハブ)をこしらえた。


それでも、夜半に誰かが峠の路肩を崩し、翌朝にはわだちがさらに深くなる。


荷車の破損は一割、草鞋の消耗は平時の一・五倍、馬沓うまぐつ【6】の履き替えは晴天で二〜三


日、悪路と雨では半日から一日にまでなった。


明智光秀から上がる数字は、刀槍と同じ重みで利家の胸を冷やした。


昼前、列の中ほどで小さな騒ぎが起きた。


若い人足が膝をつき、草鞋の鼻緒を結び直している。


十三貫(約50kg)の俵を背に四里(約16km)を三往復。


足の裏はふやけ、親指の付け根には水ぶくれが滲んでいた。


隣で馬方が馬の腹を拭い、擦れて緩んだ馬沓の緒を締め直し、藁束を一握り足して補強した。


「兄さん、まだ行けるか」


「・・行く。米が兵の腹に入るまで、俺らの戦は終わらねえ」 焚き火の火の粉が淡く弾ける。伴内(ば


んない)と呼ばれる黒鋤隊の若い技術役が、改良車の締め金を叩きながら火に背を向けた。


目の前を過ぎていくのは、車ではなく人と馬の列だ。


(車は城下で威張り、山では黙る。――いつか、どんな道でも“車”を通してみせる)


伴内はそう呟くと、泥に濡れた手でまた金具を締めた。 午後、雨脚が強まり、谷が色を失う。


利家は短冊のような地図に指を置き、命を飛ばした。


「荷の選別だ。楯・石灰は“前衛最小限”のみ。残りは現地調達に切り替え、遅配は許す。舟を増やせ。


浅瀬には筏橋を、河岸に馬留を置き、舟・馬・人の“継ぎ目”を増やすのだ。倉は分散させよ。燃えず、腐


らず、奪われぬようにな」 柴田勝家の本陣からは、方面の維持を命じる書状が届く。


利家はそれに従いつつ、裏を動かした。


峠の切通し【7】を一間(約1.8m)だけ削って蛇行部を詰め、村から担ぎ出した丸太を敷いて泥を固め


る。


魚津の地侍には米と塩で口を開かせ、城下の米蔵に通じる小道をそっと押さえた。


黄昏時。雲間から一筋の光が落ち、新しい締め金を施した車輪が、今度は石を噛まずに回った。


油布の包みが水を弾き、泥に沈んだ楯がはたかれて立ち上がる。


中継点ハブでは、俵が手から手へ矢のように渡っていく。


「――動いた」 誰かの声が、風にほどけた。動いたのは車ではない。


仕組みだ。道と道具と人の手が、ようやく噛み合いはじめた。


だがその向こう、上杉の旗は凪いだままである。城は沈黙し、門は閉じたまま。


戦わぬという戦法が、こちらの腹をじわじわと細らせていく。


(戦う前に、戦えなくなる――) 利家は胸の底で予感を噛み殺した。


夜、焚き火の灰が白くなる頃、短い書状を羽柴秀吉に送る。援軍の要請ではない。


ただ一文、鋭い観察だけが記されていた。


「謙信、もはや自ら出でずか、あるいは出られぬかと見受け候」 主戦場を動かす一撃ではない。


だが、戦の形を変えるには十分な一文であった。


秀吉が道と火薬と兵糧で戦を織りなすなら、その布目を決めるのは、敵将の不在という空白なのだから。


夜明け前、小さな社で利家は源流の水をすくった。


「信長様は言った――戦うより先に、地を整えよ、と。


秀吉は言った――勝利とは“届ける”ことと“持たせる”ことだ、と・・その通りだ」 彼は空を仰ぎ、低く続


ける。


「だが今、敵は籠城している。我らは、まるで己の兵站に包囲されているかのようだ」 利家は軍扇を閉


じ、決めた。


「黒鋤どもを最前線に回せ。道こそが、我らの前線だ」 列の先頭で槌が鳴り、丸太が転び、石が敷か


れ、溝が走る。道そのものが、戦の口になった。


そしてその口がようやく開いたとき、利家は知る。


向こうは、口を閉じ続けることを選んでいる、と。


越前の山は黙して聳え、谷は濡れて流れる。戦わずして敗れる道が、静かに、しかし確かに、将たちの


胸を締め付けていた。



注釈

【1】 越前 (えちぜん): 現在の福井県東部にあたる旧国名。織田家にとっては、一向一揆や上杉氏との重要な係争地だった。

【2】 草鞋 (わらじ): 藁を編んで作る、日本の伝統的な履物。長距離を歩くとすぐに擦り切れてしまう消耗品だった。

【3】】 斥候 (せっこう): 敵の状況や地形などを探るために、本隊から離れて偵察行動を行う兵士や部隊のこと。

【4】 黒鋤隊 (くろくわたい): 戦国時代の軍隊において、陣地の設営や道路工事などの土木作業に従事した専門家集団「黒鍬衆くろくわしゅう」から着想を得た物語上の部隊名。

【5】 油布 (あぶらぬの): 布に荏胡maえごま油などを塗って防水加工を施したもの。合羽かっぱの材料としても使われた。

【6】 馬沓 (うまぐつ): 馬の蹄を保護するために履かせた、藁製の履物。現代の蹄鉄にあたるが、消耗品であり、長距離の行軍では大量の予備が必要だった。

【7】 切通し (きりどおし): 山や丘などを切り開いて通した道。

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