第145章 輜重の壁
(1572年6月)山陽道
梅雨が山裾にまとわりつき、湿気が道そのものを重くしていた。
山陽道【1】の峠筋――前軍の背後で、荷車の列が鈍い軋みを立てている。
「・・止めろ! 左輪が石に噛んだ!」 前列の一台が石に乗り上げ、車体がゆっくりと傾ぐ。
外縁の鉄帯は雨で緩み、膨れた輪芯が割れて、積荷の俵が泥へと崩れ落ちた。
人足が尻餅をつき、馬が鋭く鼻を鳴らす。 荷の半ばは、槍でも弾でもない。
楯、調合石灰(セメントに似た配合のもの)、鍬・鋤・鋸・鎚といった工具箱、杭木、麻縄、替えの草鞋
(わらじ)【2】、それに馬沓【3】――城を固め、陣を構え、道を繋ぐための「非戦闘装
備」が、戦の歩みを逆に鈍らせていた。
黒鋤隊【4】の指揮官・平八郎が泥を蹴って駆け寄る。
竹笠のつばから滴る雨を払い、割れた車輪を覗き込んだ。
「栗に替えた輪芯が・・水を吸って膨らんだか。締め金が甘い。――締め直しだ! 輪幅を二分(約6c
m)広げろ!
予備の車輪は各隊に二枚ずつ増やすのだ!」 背後から、二つの伝令が重なるように届いた。
「川筋の筏橋、昨夜の増水で一本流失!」
「前進補給所への本日分、一日遅延! 輜重の足は平時の三分の一に!」 平八郎は舌打ちした。
鉄芯の車輪、油布【5】でくるんだ工具箱、締め金の設計変更、杭を打っての排水溝――
手は尽くしている。
だが、道そのものが敵である限り、勝敗は車輪一枚に左右された。
昼過ぎ、羽柴秀吉は後詰の仮本陣で草鞋の紐を解き、帳面を閉じた。
総勢は十一万(信長本隊五万/諸将四万五千/輜重・工兵・雑役一万五千)
この山陽筋に割り当てられた部隊だけでも、米・塩・水・飼葉の流れは川のごとく重い。
「兵は揃った。だが、兵を支える道と火薬が足りぬ」 秀吉は軍監【6】に指を二本立てる。
「一つ、荷の選別。楯と石灰は“前衛最小限”のみを先に送り、残りは現地調達と遅配容認に切り替えよ。」
戦う前に、まず道を通すのだ。
「二つ、舟運の増発。」
浅瀬には筏橋を、河岸には臨時の馬留を設け、舟から馬、馬から人へと荷を中継
する拠点を作れ。倉は分散させよ。
燃えず、腐らず、奪われぬようにな」 「黒鋤隊は?」と問われ、秀吉は頷く。
「道そのものを前線にする。溝を切れ、石を撒け、丸太を敷け。――工兵こそが、我らの先陣じゃ」
雨脚が強まる夕刻、谷が暗く沈む。列の後方で、若い人足が水気を含んだ草鞋を焚き火で乾かしていた。
十三貫(約50kg)の俵を背に四里(約16km)を三往復し、膝は笑い、足の裏はふやけて痛む。
隣で馬方が馬の腹を拭い、擦れて緩んだ馬沓の緒を結び直していた。
「兄さん、まだ行けるか」 「・・行くさ。米が兵の腹に入るまでは、俺らの戦は終わらねえ」
火の粉が夜気に弾けた。伴内と呼ばれる黒鋤隊の若い技術役が、改良車の締め金を叩きな
がら焚き火に背を当てる。目の前を、車ではなく“人と馬”が主役の列が通り過ぎていった。
(車は城下で威張り、山では黙る。――いつか、どんな道でも車を通してみせる) 伴内はそう短く心で
呟くと、濡れた手でまた金具を締めた。
翌朝。峠の霧が薄れると、明智光秀が地形図を広げる。丹羽長秀からの報告書が添えられていた。 ――
舟運便数、日に二十余往復。
――輸送遅延、平均一・八日。
――草鞋の消耗率一・五倍、馬沓の履き替えは晴れで二〜三日/悪路・雨天では半日〜一日。
――荷車破損率、一割。 光秀は眉を寄せた。数字は冷徹である。戦の外縁で起きていることが、刀槍と
同じ重みで勝敗を左右する。
「表は動かさず、裏を動かす。――秀吉殿の策に従おう」 彼は峠下の村に人を走らせ、石小屋を臨時の
食糧庫として改修し、道の蛇行部を短縮するための切通し【7】工事を命じた。
村の子供が石を運び、老婆が藁を縛る。
戦のための仕事が、いつの間にか村の暮らしと交じり合っていた。
それでも、雨はやまず、山は動かず、道は敵であり続けた。
夜半、列の先頭から後方へ、低い命令が伝わっていく。
「車を捨てろ。俵は人で、箱は馬で運べ。石灰は後送だ。
峠は歩け。道を殺すな、道を生かせ」 前線の陣は張れた。包囲の輪も描けた。
だが、その輪を維持するための食糧と火薬が足りなければ、輪は空回りする。
山上では、敵もまた出てこない。
(戦う前に、戦えなくなる) 秀吉はその予感を振り払うように軍令を重ねた。
「倉を手前へ寄せすぎるな。敵の火の手は、兵の腹より先に倉を狙う。 舟と馬の“継ぎ目”だけは、兵で
固く守れ。 非戦闘装備の比率は四割まで落とし、石灰は“現地で焼く”ことを前提に改めよ」
黒鋤隊の槌音が、雨音に混じって峠に響く。
丸太が転がり、石が敷かれ、溝が走る。道そのものが、最前線となっていた。
三日後、雨が一瞬上がった。雲間の光に、列の影が長く伸びる。
新しい締め金を施した車輪が、今度は石を噛まずに回った。
油布に守られた工具箱が乾き、楯は泥をはたかれて立ち上がる。
舟・馬・人の中継点で、俵が素早く手から手へと渡っていく。
「――動いた」 誰かの小さな声が、列の奥で風にほどけた。
動いたのは車ではなく、仕組みであった。道と道具と人の手が噛み合う、戦の歯車が。
だが、峠の向こうには、別の沈黙が待っている。
敵は籠城している。野に出てこなければ刀槍はただの鉄くず。
そして敵が出てこなければ、こちらは道と倉の重さで痩せ衰えていく。
(戦の相手が兵でなく“時間”になる前に、次の手を) 秀吉は空を見上げ、短くうなずいた。
「次は、敵の“口”を閉じる。――そしてこちらは、腹を一つに絞るのだ」 輜重の列がまた動き出す。
雨上がりの匂いと、乾き始めた土の音。
戦は、刀を交える前に、まず道で始まり、道で続くのだと、誰もが知り始めていた。
注釈
【1】 山陽道 (さんようどう): 古代から日本の中心地と九州を結んでいた主要な街道。瀬戸内海沿岸の比較的平坦な地域を通る。
【2】 草鞋 (わらじ): 藁を編んで作る、日本の伝統的な履物。長距離を歩くとすぐに擦り切れてしまう消耗品だった。
【3】 馬沓 (うまぐつ): 馬の蹄を保護するために履かせた、藁製の履物。現代の蹄鉄にあたるが、消耗品であり、長距離の行軍では大量の予備が必要だった。
【4】 黒鋤隊 (くろくわたい): 戦国時代の軍隊において、陣地の設営や道路工事などの土木作業に従事した専門家集団「黒鍬衆」から着想を得た物語上の部隊名。
【5】 油布 (あぶらぬの): 布に荏胡麻油などを塗って防水加工を施したもの。合羽の材料としても使われた。
【6】 軍監 (ぐんかん): 軍隊において、軍紀の監督や作戦の監視などを行う役職。監察官。
【7】 切通し (きりどおし): 山や丘などを切り開いて通した道。




