第143章 火を孕む雪解け
(1572年4月)越中
立山おろしの風がまだ冷たい。山肌に残る雪が陽光に砕け、谷のせせらぎは日に日に勢いを増していた。
越中【1】の春。雪解け水が野を潤すと同時に、地に潜んでいた火種もまた静かに息を吹き返す。
前年の戦いで退却しきれなかった本願寺の残党と地元の土豪【2】らは、山中に散り、峠と谷筋の要所を
知り尽くした者たちであった。
夜陰に紛れては補給列を襲い、昼は農夫に化けては道の轍を掘り崩す。戦の表向きは静かで
も、その裏側は絶えずざわめいていた。
この北陸方面軍を総べるは、柴田勝家。
その先鋒を担い、魚津平野へと雪解けと共に出陣したのが、前田利家である。勝家の麾下にある
諸隊は分進合撃の態勢をとり、利家は先鋒を率いて要地の確保に走った。
やがて平野の彼方、薄霞の向こうに翻る旗が見える。
“毘”と“龍”【3】――上杉の旗印であった。
敵の陣は三列の縦深陣形をとり、中央に重騎馬隊、両翼に軽装歩兵、背後には魚津城が控える。
退路と補給を兼ね備えた堅実な布陣で、信濃方面からの合流部隊らしき旗も混じっていた。
ただ一つ、利家の目に奇妙な影が映っていた。 ――謙信【4】が見えぬ。
指揮の合図は途切れず、兵にも緩みはない。
しかし、あの“軍神”特有の、陣全体を一つの生き物のように躍らせる気配が薄い。利家は密偵を走らせ
た。
戻った知らせは割れていた――「冬からの病が癒えぬ」「昨年の矢傷が腕に響いている」「出陣は別の将
が代行している」・・いずれも確かな情報ではない。
しかし、旗は“毘”“龍”であっても、采配の癖が違う、という点では諸将の意見が一致していた。
利家は陣幕の地図に指を置いた。 「正面は崩すな。まず背後を揺さぶれ」 命を受けた与力【5】衆が動
く。魚津の地侍へ密かに交渉役を立て、米と塩の流れを探らせる。
峠の補給問題は峠で解決する――山越えの荷車は減らし、荷馬と人足に切り替え、川筋には小舟を浮かべ
た。
早月川・片貝川の浅瀬には筏の仮橋を掛け、谷の狭い道には仮の石畳を敷く。
表の陣は動かず、裏の道だけが静かに組み替えられていった。
されど、敵も指をくわえて見ているわけではない。夜半、峠道で草鞋【6】の音が走ったかと思えば、翌
朝には轍は深く抉られ、荷車の車輪は石に噛み、湿気を吸った木の芯がきしみ、鉄の帯が緩む。
人足は俵を背に担ぎ直し、馬方は荷を均等にするため荷袋を調整し、膝までの泥濘を押して進む。
兵は槍ではなく俵を運び、馬は人を乗せるのではなく米を運ぶ――これは戦の前に、まず道との戦いであ
った。 「殿、山上の荷車五台、車輪が割れまして・・」
「川筋の仮橋が、昨夜の雨で流されました・・」 報告は絶えない。
利家は短くうなずき、手を休めなかった。
「車輪は栗の木に替えよ。幅を二分(約6cm)広げ、湿気に強い締め金で締め直せ。予備の車輪は各隊に
二枚ずつ増やす。
荷のうち楯と工具と石灰は一旦後送し、米と塩と矢を先に通すのだ」 この“非戦闘装備”が荷の半分を占め
ていることを、利家は誰よりも痛感していた。
勝つには城を修めねばならず、城を修めるには楯と工具と石灰がいる。
しかし、道に勝てぬ限り、それらはただの重りでしかなかった。
睨み合いは十日に及んだ。上杉の陣は沈黙し、織田は沈黙で応じる。
正面は動かず、裏だけが熱を帯びる。峠の闇で荷車が転げる音、谷の霧で馬が嘶く声、夜更けの焚火で草
鞋を干す匂い――兵も馬も、戦わずして削られていった。
その夜、利家は短い書状を秀吉へと送った。援軍の要請ではない。
ただ一文、淡くも鋭い観察だけが記されていた。
「謙信、もはや戦に出でずか、あるいは出られぬかと見受け候」 主戦場を動かす言葉ではない。
だが、戦の形を変えるには十分な一文であった。秀吉が経済と兵站で戦を“織りなす”なら、その布目を決
めるのは、敵将の不在という空白なのだから。
翌朝、利家は山中の小さな社に詣で、源流の冷たい水で顔を洗った。
(戦わずして勝とうという気配――こちらは戦わずして痩せ衰えるばかりだ) 彼は諸隊を巡り、声を低
くかける。
「よいか、正面は睨んでおけ。睨みつけながら、裏を食うのだ。城の口を閉じさせ、腹を空かせるのだ」
荷は川を下り、また上る。
浅瀬の筏は二重の縄で結ばれ直し、峠の石畳には村の子供らも並んで石を運んだ。
地侍は米蔵を少しだけ開き、塩の束を一つだけ差し出す。
銭ではなく、道と水で戦う日々が続いた。
陽が高く昇り、雪解け水は大河へと合流していく。
見渡せば、上杉の旗はなお凪いだままである。だが、利家には分かっていた。
凪の下には潮がある。潮が満ちるのを待つ者と、潮の流れを変えようとする者。
春の平野は静かだが、火はその下に孕んでいた。 ――越中の春、まだ始まらぬ戦が、確かに動き出して
いた。
注釈
【1】 越中 (えっちゅう): 現在の富山県にあたる旧国名。当時は一向一揆の勢力が根強く、また隣国の越後を支配する上杉氏との最前線でもあった。
【2】 土豪 (どごう): その土地に根を張り、勢力を持っている一族のこと。地侍などもこれに含まれる。
【3】 “毘”と“龍”: 上杉謙信が用いた軍旗の文字。「毘」は謙信が篤く信仰していた軍神・毘沙門天を表し、「龍」は不動明王の化身を示す草書体の「龍」の文字とされる。
【4】 謙信 (けんしん): 上杉謙信のこと。「軍神」や「越後の龍」と称されるほどの戦上手で、織田信長にとって最大のライバルの一人。
【5】 与力 (よりき): 大名や有力な武将に付属させられた、身分が下の武士のこと。主君の指揮下で、様々な実務を担った。
【6】 草鞋 (わらじ): 藁を編んで作る、日本の伝統的な履物。長距離を歩くとすぐに擦り切れてしまう消耗品だった。




