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第140章  帳と剣 ― 安土築城決算演習

(1572年1月)石山


旧僧坊を改築した石山屋敷の会議棟。夜の闇が迫る中、雪を交えた風が木戸を叩き、軒下に吊るされた鯨


油灯【1】が、揺れる光を床に落としていた。


壁の影が踊り、帳簿や算盤【2】を前にした五十名の若き才人たちの顔を、その光がかすかに照らす。


「ここは本番前の“舞台”である」と、光そのものが告げているようであった。


秀吉は壇上に立ち、額の汗を一度ぬぐうと声を上げた。


「皆の者、よくぞ集まってくれた。


今日よりそなたらには、安土築城にかかるすべての会計を預ける。これは演習ではあるが、同時に――本


番でもある」


会議棟は静まり返り、帳簿の紙が擦れる音だけが遠くに感じられた。


若者たちは背筋を伸ばし、過去一年間の収支明細が並ぶ表を見つめている。


戦の費用、寺社への対応、民政の整備、水路の補修、山崩れの補強など、細部まで漏れなく記されてい


た。


秀吉は予算案の表を広げる。そこには具体的な費目と予算額が記されていた。


■ 建築予算の具体的内訳

| 費目 | 予算(貫【3】) | 備考 |

| 地盤改良 | 15,000貫 | 地質調査、排水構造・石垣基礎込み |

| 水路整備 | 12,000貫 | 港湾接続・湖との流水路・排水渠 |

| 宿場・市場設営 | 8,000貫 | 商家・旅籠屋区画と通行路設置 |

| 天守建設 | 20,000貫 | 三層構造の基礎・屋根・装飾含む |

| 人件費 | 18,000貫 | 人足・技師・作事奉行【4】・拘束期間賃金 |

| 資材運搬 | 10,000貫 | 山間からの材木石材の搬入コスト |

| 緊急軍資金 | 7,000貫 | 戦・疫病・災害など緊急支出用の予備 |

| 総計 | 90,000貫 |


この表を見せた秀吉は、少し間を置いて言葉を継いだ。


その時、若者の中から一人の青年が声を発した。石田三成【5】である。


「殿、この予算規模を新たな制度でまかなうのであれば、少なくとも十万貫は調達せねばなりませぬ。


豪商から借りれば年利二分五厘【6】は下らず、担保も要求されましょう。


庶民の預金に頼るのであれば、信用と利回りの保証が不可欠です」


秀吉は鯨油灯の灯を眺めながら穏やかに笑う。


「その通りだ。そこで創設するのが“安土信用金庫”。この九万貫を基本予算とし、残り一万貫を予備とす


る。預金制度は次の通りだ。


預金期間は十年、途中引き出しは認めぬ。


ただし年に一度、年利一分(年10%)の利札【7】を渡す。


預金対象は城下町への出店希望者、資材を提供する領主、南蛮貿易の船主、寺の修繕を願う寺社など。


融資を優先するのは、水路と舟運の整備、宿場市場の設営、緊急の軍資金、そして天守の基礎工事だ」


別の若者が、声を震わせながら尋ねた。


「殿、その制度には大きな危険もございます。利札の支払いを金庫の収入で賄えねば、預金者の反発を招


きます。偽の利札や記録の間違い、税収減や災害などで収入が落ち込めば、制度の信頼そのものが揺らぎ


ましょう」


秀吉はうなずき、灯火の揺らぎを目で追いながら応じた。


「うむ。だからこそ、これを演習とする。皆で各費目を徹底的に調べよ。


地盤改良の人件費を見積もり直し、水路整備の輸送費を削れる区画はないか。


宿場の設営を分割払いにできるか。


税収・関銭・通行料・市場収益の四つを軸に、数年先までの収支を予測せよ。その予測を書き出すのだ」


■ 三成が付け加える。


「殿、預金者に対する保証人制度を設けることをお勧めします。有力な商人や領主が預金額の一定割合を


保証し、その名を記した誠札まことふだという制度を作れば、多くの者が安心して金を預けましよ


う。また、帳簿を公開し、写しを諸国へ配るべきです。監査役を我らの中から選び、不正や誤りを防ぐ体


制も整えねばなりませぬ」


秀吉はその案を受け入れ、顔を引き締めた。


「その通りだ。制度の信頼こそが最大の支柱。これが揺らげば、“帳の城”も剣の城も危うくなる」


会議の終盤、若者たちの間で様々な声が交錯する。ある者は興奮に目を輝かせ、ある者は計算表とにらめ


っこを続ける。


手が震える者もいれば、武家の息子が「剣での手柄も良いが、これほどの財務たからぶみを動かす機


会はまたとない」と囁き合う。


三成はそっと秀吉に近づき、小声で言った。 「殿、この制度が動き出せば、“信用”の波は必ず城の外にも


広がりましょう。


畿内の豪商も、遠国の領主も、固唾をのんで見ておりまする」 秀吉は、鯨油灯の淡い光を胸に映しなが


ら、静かに頷いた。


■ 締めの覚悟と未来展望


夜が深まり、書類の山が築かれる中、秀吉は最後に言葉を締めくくった。


「この石山の夜が明ける頃には、制度の原型が見えるであろう。


失敗もあるやもしれぬ。しかし、それを恐れていては何も始まらぬ。帳と剣――武力が切り拓く道もあれ


ば、帳簿が築く道もある。わしは、その両方を持って天下への道を開く」


若者たちは互いに顔を見合わせ、強く頷きあった。鯨油灯の光が、闇の中で揺らぎながらも、確かに未来


への道を照らしていた。


この夜、安土信用金庫の具体的な数字と懸念が帳簿に刻まれ、秀吉の新たな天下統一に向けた「経済的


実験」が、正式に始動したのである。



注釈

【1】 鯨油灯 (げいゆとう): 鯨の脂肪から採った油を燃料とするランプ。日本では中世から使われ、菜種油などを使った灯りよりも明るかったとされる。

【2】 算盤 (そろばん): 計算に用いる道具、アバカス。室町時代に中国から伝わり、商人などを中心に普及した。

【3】 貫 (かん): 当時の通貨単位である「貫文かんもん」の略。銭千枚を紐で通した「一貫文」を基本単位とする。価値は時代や地域で大きく変動するが、一貫がおおよそ現在の10万円前後に相当するという説もある。

【4】 作事奉行 (さくじぶぎょう): 城や寺社などの建築・土木工事を指揮監督する役職。

【5】 石田三成 (いしだ みつなり): この時まだ十代前半の少年。のちに豊臣秀吉の最も信頼する側近となり、その卓越した算術能力と行政手腕で豊臣政権を支えることになる。

【6】 年利二分五厘 (ねんりにぶごりん): 当時の金利の表現。この時代の金利は非常に高く、慣習も複雑だが、ここでは年利25%程度の高金利を指していると考えられる。

【7】 利札 (りさつ): お金を預けた証明書であり、一年後には利子が上乗せされて戻ってくることを保証する札。現代の債券や定期預金証書に近い金融商品。

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