第130章 袂を分かつ者
(1571年2月末)石山
顕如【1】は和睦を選び、本願寺【2】はついに石山から退去した。
信仰の砦は崩れたかに見えたが、その炎は、地下へと潜っただけだった。
夜の石山本願寺の跡地。焼け落ちたお堂の残骸の中に、密かに集まる者たちがいた。
その輪の中心に、一人の少年僧が座っている。年は十代半ばで、まだあどけなさが残る顔。
だが、その瞳の奥には、父・顕如とは違う色が宿っていた。
――それが、教如【3】であった。
彼は何も言わず、ただ周囲の視線を黙って受け止めていた。
やがて、一人の老僧がひざまずき、静かに語りかける。
「顕如様は、これ以上戦うことを望まれませんでした・・しかし、我らの信仰の火は・・消えてはおりま
せぬな」
教如は頷き、懐から一枚の布を取り出す。
それは、石山を取り戻すための秘密の会議録だった。
堺の商人、紀伊の一向門徒【4】、雑賀衆【5】、そして――かつての拠点であった山科【6】から集まっ
た僧侶たちの名が並んでいる。
「信長の世など、長くは続きません」
その声には、若者らしいまっすぐさと、抑えきれない純粋な怒りが混じっていた。
それは、信仰を力でねじ伏せられた者たちの、抑えつけられてきた想いそのものだった。
「父が退いたのなら、次は、私が戦います」
その言葉に、周りにいた僧兵たちの目が光った。
教如の言葉にこたえるように、消えかかっていた炎が再び揺らめいたのだ。
「顕如様を追い出しただけで、我らの信仰は消えたりはしない――むしろ、火は地下に潜り、さらに燃え
盛っているのです」 「必ず、石山を奪い返す。そして、仏の御名を辱めた者を討つのだ」
その夜、まだ少年であった教如が初めて、父とは異なる「戦う信仰」の道を選んだ。
それは、のちに本願寺が二つに分かれる「東西分裂【7】」の始まりであり、 そして――織田信長にとっ
て、「第二の火種」となる危険があることを、健一以外誰も知らなかった。
(教如の言葉は、信長が作り上げてきた合理性と効率で支配するやり方が、人々の心に根ざした「神聖な
もの」とは決して交われないという、鋭い予言だった。 信長がどれだけ民を救い、暮らしを豊かにしよ
うとしても、その「力」と「理屈」では、源義経【8】のように「判官びいき【8】」という形で民衆の
共感を得ることはできない。
むしろ、あまりに異質であるために「魔王」として敬遠され、決して人々の心を掴むことはできない
のだ。
教如は、まだ若いその感性で、信長の支配が目に見えない「空気」によって崩れる可能性を、直感してい
たのである。)
注釈
【1】 顕如 (けんにょ): 石山合戦における浄土真宗本願寺派の第11世宗主。織田信長と10年にもわたる戦いを繰り広げたが、最終的に朝廷の仲介を受け入れて和睦し、石山を退去した。
【2】 本願寺 (ほんがんじ): 浄土真宗本願寺派のこと。その本拠地であった石山本願寺は、多数の信徒(一向門徒)を抱える宗教勢力であると同時に、強力な武装要塞でもあった。
【3】 教如 (きょうにょ): 顕如の長男。父の和睦路線に強く反発し、徹底抗戦を主張した強硬派。この対立が、後の本願寺分裂のきっかけとなる。
【4】 紀伊の一向門徒 (きいのいっこうもんと): 紀伊国(現在の和歌山県)にいた浄土真宗の信者のこと。この地域は特に信仰心が厚く、戦闘的な信者が多かった。
【5】 雑賀衆 (さいかしゅう): 紀伊国雑賀荘の地侍たちによる傭兵集団。鉄砲の扱いに非常に長けており、石山合戦では本願寺側について信長を苦しめた。
【6】 山科 (やましな): 現在の京都市山科区。かつて石山以前に本願寺の本拠地(山科本願寺)があった場所。1532年に焼き討ちにあい、拠点を石山に移した経緯がある。
【7】 東西分裂 (とうざいぶんれつ): 教如の強硬路線と、弟の准如が後継者とされたことから、本願寺の内部対立が激化。最終的に徳川家康の時代に、教如を宗主とする「東本願寺」と、准如を宗主とする「西本願寺」の二つに完全に分裂した。
【8】 源義経 (みなもとのよしつね) / 判官びいき (ほうがんびいき): 源義経は平安時代末期の悲劇の武将。兄である源頼朝に追われ、非業の死を遂げたことから、人々は彼に同情し、弱者や敗者に肩入れするようになった。この「弱者に同情する」という日本人的な心情を「判官(義経の官職名)びいき」と呼ぶ。合理的で強大な勝者である秀吉は、この種の共感を得られない、ということを示している。




