第129章 町のざわめきと、前田利家
(1571年1月〜2月)石山
石山の市。湯気、炭の匂い、桶の水音。
「秀吉様が鐘を鳴らさせたって本当か」
「仏を脅しただけだろ」
「口銭[1]が一つになって荷が通りやすくなったぞ」
「でもな、ここだけ燃えなかったんだよな」
噂は湯気のように立ち上っては、また消える。
路地の陰で前田利家が立ち止まる。腰には旅支度。袖には柴田勝家の軍用状[2]。
「利家殿。よく来てくださいました」
「別れを言いに来た」
秀吉の目がわずかに細くなる。
利家は笑うが、声は低い。
「越中[3]へ行く。柴田殿の命だ。一向宗の残り火[4]に上杉[5]が風を送ってる。
『早めに鎮めよ』とのことだ」
「権六殿[6]らしい」
「おう。こっちも腹を決めねばならん」
利家は一歩、近づく。声をさらに落とす。
「昨日の式台[7]でのこと。あれは笑い話じゃない。お前の名前に、敵意が混じっていた」
秀吉は短く息を吐く。 「わかっている。それでも手は止めない」
「それがいちばん敵を増やす。だが、止めたら流れが腐る。お前の得意は流れを作ることだろう」
利家は卓の通行許可証を指で弾く。コトン。
「印を先に、利を先に。口は後だ。それが一番効く」
「肝に銘じる」
利家は軍用状を袖に戻す。
「外の敵より、内の敵が厄介だ。・・それを言いに来た。じゃあな、。次に会うとき、まだ生きていた
ら酒を飲もう」
「ああ、楽しみにしている」
二人は深く頭を下げた。
互いに背は向けない。
戸が閉まり、炭の匂いが残る。
外では市の喧騒が波のように寄せては返す。
〈止まれない〉と秀吉は思う。
机の上には硝石の帳面、口銭の帳、通行許可証。
印が先に動き、利益がその後に続く。それでいい。
――数日後、越中から急使が届いた。封は柴田勝家。
「利家、出陣」 短い一行。嫌な予感が、胸の奥でカチリと音を立てた。
注釈
【1】 口銭 (こうせん): 港や関所などで、人や物資の通行に対して課された税金。通行税。
【2】 軍用状 (ぐんようじょう): 戦陣において、司令官から部隊へ送られる命令書や公式な書状。
【3】 越中 (えっちゅう): 現在の富山県にあたる旧国名。
【4】 一向宗の残り火 (いっこうしゅうののこりび): 「一向宗」は、浄土真宗本願寺派の信徒による強力
な宗教・武装組織「一向一揆」を指す。石山合戦などで織田信長と長年敵対しており、各地にその勢力が
残っていた。
【5】 上杉 (うえすぎ): 当時の越後国(現在の新潟県)を支配していた大名、上杉謙信とその一族のこと。信長の最も強力なライバルの一人。
【6】 権六殿 (ごんろくどの): 柴田勝家の通称である「権六」を用いた呼び方。
【7】 式台 (しきだい): 武家屋敷の玄関に設けられた、来客が当主と対面するための板張りの部屋。ここでは、家臣たちが集まった場を指す。




