第127章 忠義の影、火種の匂い
(1571年)正月 石山
石山の濠[1]に薄氷が張る。杭を打つ音、縄を引く掛け声、炭焼き小屋から立つ白い煙。 秀吉は帳簿[2]を
片手に、普請[3]の指図を飛ばしていた。通行税の帳面、通行許可証の見本、硝石買上げ状――机の上に
石のように積んである。
門が開き、前田利家が入ってきた。 「利家殿……どうされました」 「ちと、耳に入れておくことがある」
気さくな声の底に、影があった。秀吉は部屋へ通す。二人きりになると、利家は座らずに口を開いた。
「昨日の評定のあとだ。式台の間で――おぬしの名が頻繁に飛び交っていた」 秀吉は眉をひと筋だけ動
かす。「わたくしの名、でございますか」 「百姓出、猿まね役者、化け物、とな。言葉は下品だが、腹
の中はもっとこじれている。楽市にし、関所を禁じ、税を一定にする――諸家の収入が変わるところへ、
河内六十万石と都の運営までおぬしに預けたのだ。古くからの序列が揺れる。理屈のある反発だ」
静かに、しかし真っ直ぐな声だった。 「殿はおぬしを信じておられる。それが逆風にもなる。外の敵よ
り、内の敵の方が始末が悪い。・・わかってはおろうが」
秀吉は息を浅く吐き、口角だけで笑んだ。
「承知しております。されど、やることは変わりませぬ。――日ノ本を、作り直すために来た身ゆえ」
利家は目を細めると、卓上の通行許可証を一つ指で弾いた。
「ならば、印の押された書状を先に走らせろ。
言葉より、許可証によって滞りなく荷が届くという『利』を先に見せるのだ。
どんな説得よりも効果がある。・・敵は表立って刀は抜かぬ。
ただ、物事がおぬしにとって不利な方へ流れるように仕向けてくる」 「肝に銘じます」
短く頭を下げると、利家は踵を返した。戸口で振り向き、いつもの軽さを一枚だけ戻す。
「風邪をひくな。動けなくなると、取り返しがつかなくなる」
戸が閉まる。残ったのは、墨と炭の匂い。 秀吉は筆を取った。
港の帳場に回す書状、硝石の買上げ帳、人口調査[4]の覚書。矢継ぎ早に三枚、印を押す。 (印を先に。
利を先に。言葉は後だ)
外では、小走りの足音。配下の若者が書付[5]を抱えて入る。
「殿、堺からの硝石、今朝の舟にございませんでした。向こうの帳場は『許可証の印判が新しくなってお
り、手続きに日数がかかる』と」
「宗久に書状を。旧い印でもひと月は通すという連判[6]をもらえ。遅れは罪になると、やわらかく伝え
よ」
若者が走り去る。別の記録係が顔を出す。
「大津の通行税の帳面と、差出人不明の届けが一通……」 秀吉は紙を受け取る。
良い紙、良い筆。だが末尾に名がない。
『羽柴殿のやり方は、織田家中の面目を潰すものだ。帳場を増やせば、我らの手柄が薄れる』
紙の端を折り、文箱に差した。 (名を伏せた不満。これが“空気”というものか)
庭先で、二人の職人が秀吉を見て、一拍置いてから浅く頭を下げた。
昔のような笑顔はない。 通りかかった小荷駄[7] の者が、わずかに進路を変えて秀吉から距離を取る。
声をかけない、目を合わせない、薄い壁のような避け方。
(始まったな) 「黒田を呼べ」 秀吉は声を落とし、筆を進めた。
「硝石は買上げ値をそのまま、ただし納期を厳守させる。遅れれば半値で買い叩く。 港は印で通せ。顔
で通すな。人口調査は十日で初回の集計を出す。――利と罰は簡潔に、手順は手厚く」
紙に言葉が定着する音が、外の杭打ちと同じ拍子で続く。
炭焼き小屋から、微かな焦げの匂いが流れてきた。冬の乾いた風に乗って、火種の匂いも混じる。
(内の火は見えぬ。だが、燃え広がる。ならば、火が付く前に湿らせておく)
秀吉は印を押した。小さな朱色が、白い紙の上に確かな通り道を作っていく。 ――忠義の影は、刀を抜
かない。
印と盃と沈黙で、人を刺す。 石山は、今日も音を立てて組み上がっていく。
その足元で、目に見えぬ空気が、静かに形を成していた。
注釈
[1]濠 (ほり): 城や砦の周囲に掘られた水路。防御の役割を果たす。
[2]帳簿 (ちょうぼ): ここでは原文の「簿冊」を指す。金銭や物品の出入りを記録するノートや台帳のこと。
[3]普請 (ふしん): 建築や土木工事のこと。
[4]人口調査 (じんこうちょうさ): ここでは原文の「戸口の数え(こぐちのかぞえ)」を指す。領内の家の数や人口を調べること。
[5] 書付 (かきつけ): 簡単な手紙やメモ、証明書などの文書。
[6]連判 (れんぱん): 複数の人が一つの文書に署名・捺印すること。関係者が同意・連帯していることを示す。
[7]小荷駄 (こにだ): 輸送部隊や、そこで荷物を運ぶ馬、またはその馬を引く人足のこと。




