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第126章 ひそむ声、揺らぐ忠

(1571年)正月三日・二条城 式台の間


年始の評定[1]が終わり、羽柴秀吉の姿だけが広間から消えていた。


式台の間[2]に、主だった面々が残る。障子越しの冬光が畳の目に薄く走り、卓上の盃に冷たい輪ができている。


「・・あの秀吉とか申す男、どこまで出世すれば気が済むのか」 佐久間信盛が吐き捨てる。


誰かが鼻で笑った。 「百姓出の小倅が、いまや石山[3]の主気取りよ」 「父の素性もあやふやだ。猿まね


役者が、いつの間にか興行主[4]に納まっている」


言葉は軽いが、舌の奥は重い。丹羽長秀が盃を指で回し、縁にできた水の輪を拭わずに言う。


「殿は楽市[5]を徹底し、関所[6]を禁ずると仰せられた。座[7]は崩れる。我ら諸家の勘定が変わる。・・


そこへ来て、河内六十万石[8]と都の運営をも秀吉に預けられる。秩序が揺らぐのは道理だ」


「化け物よ」 小声が畳に落ちる。


「人の理屈では測れぬ。妖の術でも使っているのではないか」


笑いは起きなかった。


袖口を握る癖、泳ぐ視線、途中で途切れる言葉――それぞれの沈黙が、同じ形をしていく。


「・・殿も、あやつを信じ過ぎではないか」


「古参の家臣への恩賞が軽くなれば、殿の直轄地からの収入ばかりが増えることになる」


「このままでは、織田家の中身があやつに食われる」


口には出さぬ思いが座を満たす。「排斥」の二文字が、障子紙の裏で薄く脈打つようだった。


その時、襖がすっと開いた。 「おう、皆そろって何の相談だ」 前田利家が姿を見せる。


明るい声。だが目は笑っていない。


一瞬、沈黙。 「まさか新年の盃を前に、愚痴の数々か?」 誰かが取り繕って笑う。


「いやいや、ただの世間話にて」


利家はにやりとしたまま、室内を一巡する。指先で盃を持ち上げ、底の水輪を見せて卓に戻す。


「殿の耳は、このあたりに近い。・・世間話なら、庭で風に当てるとよい。口は凍れば動かぬからな」


軽口に見せて、一刀両断。座の空気がぱきりと割れ、皆の腰が一斉に浮いた。


「そろそろ退出するか」 草履の音が続き、ほどなく式台の間には誰もいなくなった。


残ったのは、冷えた盃の輪と、払われずに残った指跡だけ。言葉にならぬものが、澱のように沈む。


それは、家柄と血統と武功で積み上げた塔の根元を、見えぬ水が崩していく音だった。 ――見えぬ空気


は、まだ名を持たない。だが、確かに生まれつつある。



注釈

[1]評定 (ひょうじょう): 武家政権における最高会議、またはその決定のこと。ここでは織田家の重臣が集まる会議を指す。


[2]式台の間 (しきだいのま): 武家屋敷の玄関に設けられた、来客が当主と対面するための板張りの部屋。


[3]石山 (いしやま): 石山本願寺があった場所。信長と長年敵対し、後に降伏。秀吉は天下統一後にこの地に大坂城を築いた。要衝であるこの地を任されたことへの嫉妬がうかがえる。


[4] 興行主 (こうぎょうぬし): ここでは原文の「座元ざもと」を指す。芝居や見世物などを主催し、取り仕切る中心人物のこと。役者に過ぎなかったはずの秀吉が、織田家という一座の興行主のように振る舞っている、という皮肉。


[5]楽市 (らくいち): 市場の税や規制を緩和・撤廃し、誰もが自由に商売できるようにした経済政策。


[6] 関所 (せきしょ): 交通の要所に設けられ、通行人や物資から税を徴収した施設。


[7] 座 (ざ): 特定の商人や職人が結成した同業者組合。営業を独占する特権を持っていた。


[8] 河内六十万石 (かわちろくじゅうまんごく): 河内国(現在の大阪府東部)に与えられた六十万石の領地のこと。

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