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第125章 恩賞の沙汰と、国家のかたち

(1571年)正月 三日・二条城


新春の二条城。白い息が畳の上でうすくほどける。


大広間の上段[1]に朱印目録[2]が置かれ、伶人の太鼓が一度だけ鳴った。


信長は盃に手を触れず、ただ目録を開いた。


「――蔵入地[3]。尾張・美濃・近江・山城、合わせて二百万石[4]」


乾いた声が、壁に打たれて返る。


「家中への給付[5]。加賀・能登は柴田に百二十万石。若狭・越前は佐久間に五十万石。丹波は明智に三


十万石。大和は丹羽に二十五万石。伊勢は滝川に四十万石。摂津・河内は羽柴に六十万石」


一拍置き、目録を指で弾いた。


「――家中への給付、計三百二十五万石。織田家の総石高、五百二十五万石」 (あくまで、この時点で


の計算である)


ざわめきは起きない。畳の下に、その数字の重さだけが深く沈んだ。


信長は顔を上げる。


「これは領地を配るのではない。国を組み上げるための布陣だ。――楽市を畿内一円に徹底する。関所は


禁じ、通行税は一定とする。春、検地の縄を入れ、民の数を数える。硝石・木炭は組合を一つに束ね、許


可なき売買を禁ずる。道は個人の物にあらず、国家の血脈であると知れ」


言葉は石。空気がさらに一段と重くなる。


――羽柴秀吉は目を伏せ、胸の内で三つの言葉だけを数えた。 (民・硝石・港。骨格は三つ。二月に認


可証、春に検地――早い。記録係を集め、村々へ“数え”の役人を出す。硝石は黒田。港は宗久の名を借り


て帳場を立てる) (五年で決める。あの日の前に、運命を変えてみせる)


――柴田勝家は眉ひとつ動かさず、掌で指を折った。 (座を解体し、関所をなくせば守りが薄くなる。


ならば番所、木戸、兵糧蔵を増やす。広げてから、締める)


――明智光秀は扇を伏せ、半歩だけ首を垂れた。 (楽市は理に適っている。されど記録と法がなければ


乱れる。法令は簡潔に、罰則は明確に、赦免の道は狭く――文字の力で束ねるのだ)


――竹中半兵衛は視線を上段に置いたまま、心の算盤を弾く。 (地図の余白はまだ広い。それを埋める


のは勘定と道。秀吉様の速さは、秩序を確立する上で牙をむきかねない。先に帳場での管理手順を広げて


おかねば)


信長は目録を畳み、短く継いだ。 「堺・大津・草津。これら港の法を統一する。通行の許可証を改め、


私的な関所は認めぬ。異論あらば、ここで申せ」


誰も盃に触れないまま、言葉だけが各々の胸に沈んでいく。


広間を下がった回廊で、今井宗久が一瞬だけ足を止めた。 閉じた障子の向こうから、短い嘆声が聞こえ


る。旧来の座に属していた者たちの沈んだ視線が、畳の目に吸いこまれていくようだった。 (時の流れ


が、速すぎる)宗久は内心で呟き、歩を進めた。堺の帳場は、もう昨日の帳面では通用しない。


寺社に仕える若い記録係が、袖の中で指を結んだ。 (通行税の統一、検地、人口調査・・)墨の匂いが


恐ろしく感じられる。書くという行為が、力を持つ年が来る。


その夜、秀吉――いや、健一は、薄灯の下で段取り帳に走り書きをした。


民(戸口):一村につき一冊の台帳を作成。戸数・年齢・田の面積を記録。十日で初回の集計を終える。


硝石:買い上げ価格を一定に。灰屋[6]と鍛冶屋を一つの組合にまとめる。窓口は黒田官兵衛。南蛮船[7]


の入港割り当てを朱筆で記す。


港:堺・大津・草津。帳場を設け、通行許可証を統一。宗久から連判[8]をもらう。


(本能寺が起きない未来――そのためには、計画を前倒しするしかない)


その加速は、彼自身をも置き去りにするかのようだった。


ふと、筆が止まる。 (・・急げば急ぐほど、歴史の修正力が牙をむく)


冷たい予感が背を撫でた。だが、筆は再び動く。


「――五年で、決める」 小声で言い切り、その下に線を引いた。


かくして、恩賞は単なる「褒美」ではなく、国家の設計図となった。 織田政権の布陣は、史実の上では


六年か七年後にようやく整うはずの形へ、音もなく前倒しされていく。


時間の歪みは、誰にも見えない。だが、たしかに生じていた。 そして、歪みはやがて代償を求める。


本能寺は、ただ「遅れた」だけなのか。それとも――。




注釈

[1]上段 (じょうだん): 日本建築の座敷で、床を一段高くした場所。身分の高い者が座るための席。


[2]朱印目録 (しゅいんもくろく): 朱色の印鑑(朱印)が押された目録リスト。ここでは信長が家臣に与える領地を記した公式文書を指す。


[3]蔵入地 (くらいりち): 大名や領主の直轄領。ここから上がる年貢などが直接、領主の収入となる。


[4]石 (こく): 日本の古い単位。米の体積を表し、一石は約180リットル。一人の人間が一年間に食べる米の量に相当するとされ、土地の生産力や大名の経済力・軍事力を示す指標として用いられた。


[5]家中への給付 (かちゅうへのきゅうふ): 家臣団に与えられる領地のこと。これを「知行ちぎょう」と呼ぶ。


[6]灰屋 (はいや): 灰を売る商人。灰は染色や陶芸、肥料、そして硝石製造の際の不純物除去(アク抜き)などに使われた。


[7]南蛮船 (なんばんせん): 戦国時代から江戸時代初期にかけて来航したポルトガルやスペインの船のこと。「南蛮」は東南アジア経由でやってきた彼らを指す言葉。


[8] 連判 (れんぱん): 複数の人が一つの文書に署名・捺印すること。ここでは、宗久に協力を取り付け、共同で事業を進める同意を得ることを意味する。

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