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第123章  火の中の和

(1570年11月)石山本願寺


蝋燭の灯が、ほのかに揺れる。厚い土壁が吐き出す湿気に、火薬と血の臭いが混ざっていた。


石山本願寺は、織田軍に包囲されていた。


白布に「和」の一字を染めた小旗――下間の使番に導かれ、その旗一本で羽柴秀吉は奥の間へ通された。


堺の今井宗久が橋渡しした“話し合いの口”である、と。


顕如。一向宗の法主は、沈着な眼差しで男を迎えた。


「我が寺に、織田の犬がよくも来たものだ。・・命を惜しむなら、今すぐ立ち去れ」


「拙者、命を賭してまいりました」


汗をそのままに、秀吉は真っ直ぐ顕如を見据える。ゆっくりと刀を抜き、床に伏せ、さらに短刀を掌に置


いた。鼓動が静かに、しかし激しく打つ。――この一歩が、何万の命を左右する。


「討たれるなら、今この場で。・・されど願います。これ以上、血を流さぬよう。顕如様――仏の意志と


は、命を救うことではありませんか」


僧兵たちがざわめく。顕如は眉を動かさず、視線だけで制した。


「貴様らは延暦寺を焼いた。仏の名を口にする資格があるか」


「・・その通りにございます。だからこそ、これ以上の戦いに、どれほどの理がありましょう」


秀吉の声音は水のように静かだが、底に痛みがあった。


救えなかった民の顔が、火の中からこちらを見ている。


顕如は袈裟の端をわずかに握りしめる。


「我らが信じるのは浄土の道。火に焼かれようと、それもまた定め」


「ですが、今ここに生きている者がおります。女子供、老いた者、御堂に避難したままの信徒・・。火薬


ひと壺で一夜にして焼けます。仏の本願は、来世のみならず今生をも捨てぬはず」


顕如の目が細くなる。


「言はわかった。だが、門徒は多し、堺も背にある。出よと言うなら――道と赦しがいる」


秀吉は短刀を押しやり、掌を開いた。


「ここで血判の起請文を書きましょう。織田本陣からは停戦の鐘を打たせます。退去の口は堺の今井宗久


が請け負う。寺は京・七条に新たに起こす。材木・棟梁を付け、十年の年貢免。信徒には赦免状を回す。


――この命にて担保いたす」


顕如は沈黙した。蝋が一滴、畳に落ちる音がした。


「口ばかりなら誰でも申せる」


秀吉は軽く頷き、袖に潜ませた合図筒を指で叩く。外、遠く本陣の方角から、一度だけ、鐘の音が夜を渡


った。包囲の鬨が止み、陣風が変わる。僧兵たちの眼が揺れた。


「これが第一。次は文です」


秀吉は硯を引き寄せ、短刀の刃先で指を裂くと、血を混ぜた墨で起請文を書き連ねた。


『一、信徒一切の罪科を問わず。


 一、退去の道は大和川より堺へ、舟路を安全とする。

 一、兵の入城は退去完了まで堅く禁ず。

 一、七条の新寺造営に材木・棟梁・十年の免。

 一、違えなば、羽柴秀吉、この首を以て贖う――』


紙を押し返すと、深く頭を垂れた。


「これに宗久の連判、織田方の印判を添えさせます。今宵は鐘、明朝には文を。約せぬことは申さぬ」


顕如は紙面を読み、また長く息を吐いた。


「往生は来世の道。・・されど、今生の救いを説いた祖師もおる。門徒には家があり、老いも子もある」


視線が僧兵を巡る。「わしらは武ではない。和を選ぼう」


顕如は頷き、静かに言った。


「良い。起請文は受ける。信徒を故郷に帰す。わしらは、去ろう。ただし――退去完了までは、兵一人た


りとも御堂に入れるな」


「承知」


その夜、石山本願寺に鐘が鳴った。戦の鬨に混じって、別の響きが遠く近くで応えた。翌十二月、石山は


無血で開かれ、顕如は七条へと退き、信徒は各地へ戻った。堺からの舟は、赦免状の束とともに何度も川


を上り下りした。


民の血を流さぬ戦――その重さを、誰より深く引き受けたのは、やはり秀吉だった。勝利の喜びより先


に、安堵が来る。安堵のあとに、胸の底に小さな痛みが残る。


――人の心を救うことは、戦より遥かに難しい。

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