第122章 炎の残照の中で
(1570年10月) 比叡山を望む砦
――夜。比叡山【1】が遠くに見える砦の見張り台。
焼けた山肌は暗闇に沈み、風が運ぶ焦げ臭い匂いだけが、まだ夜の空気を汚していた。
秀吉――いや、健一は、手すりに肘をついたまま空を見上げていた。
火は消えたはずなのに、匂いが鼻から離れない。
「火は消えても、臭いは長生きだな」 背後に人の気配がした。
竹中半兵衛が、足音を立てずに隣に並ぶ。
「殿。・・こちらにおられましたか」
「ああ。静かすぎて、逆に耳が騒がしいくらいだ」
「畿内【2】も、これでようやく落ち着くでしょう。
殿の策も、信長様の怒りも、一つの形になりました。これで“終わり”が見えてきましたね」
健一は視線を動かさない。
星は冷たく、山はまだ熱の名残を抱いている。
終わり、か――その言葉が喉の奥でつかえた。
「・・終わりじゃない。ここからが始まりだ」
半兵衛が、健一の横顔をうかがう。
「始まり、と申しますと」
「将軍は名前だけ。信長様は“国”そのものを作ろうとしておられる。だが、それでも、この国は“滅び
る”かもしれない」
半兵衛の瞳が、夜の色に深く沈んだ。
「戦で滅びるのではなく・・経済で、ということですか」
「そんなところだ」健一は細く息を吐く。
「この火は消えても、海の向こうではもっと大きな煙が上がっている。数と金で、こちらを飲み込みに来
る。“鉄と油”の匂いがする時代が、遅れてこの国にもやって来るんだ」
「地図にない敵、というわけですな」
「場所の話じゃない。“未来”から来る敵だ」
沈黙が落ちる。ふと、焦げた木の甘い匂いが強くなった。
半兵衛はその匂いごと、言葉を飲み込み、やがて小さく頷いた。
「では、先に国の骨格を作ってしまうしかない。こちらの都合で、新しい仕組みを作るのですな」
「そうだ。戦は短く、国作りは長く、だ」
半兵衛が、袖の影で指を折る。
「骨格は三つ。人口【3】、火薬【4】、港【5】。まず、人の数を正確に数える。兵士を集めるにも、税
【6】を取るにも、人口が分からなければ計算が立ちません。 次に、火薬の材料である硝石や木炭の組合
【7】をまとめ、その供給をこちらで完全に握る。 最後に、物流の出入り口――堺・大津・草津【8】。
港と関所をこちらの決めた“手順”で動かす。こうすれば、未来の敵が来ても、すぐには飲み込まれないで
しょう」
健一は口の端だけで笑った。彼は頷き、言葉を足す。
「人口は、村ごとに調査をやり直す。土地の広さ、家の数、働ける者の年齢――すべてを紙に記録するん
だ。 火薬は、灰屋【9】と鍛冶屋【10】を一つの組合に入れ、買い取り価格を固定する。値段は絶対に動
かさない。 港は、管理事務所を立てる。通る荷物に“印”をつけ、通行ルールを一つに統一する。誰かの顔
利きではなく、決められた手順だけで荷物が通るようにする」
半兵衛が、ほう、と息を漏らした。 「見事な手際ですな。これなら文句も出ますまい」
「言い方はどうでもいい。大事なのは、誰がいなくても回る仕組みだ。人の感情ではなく、計算で動
く“国”にする」
風が、焼け跡の匂いを運び去っていく。
「殿」半兵衛は、夜の闇を見つめるように言った。
「滅びは、避けられますか」
「分からん。だが、避けるための“道”は作れる。道があれば、人はそこを歩く。人が歩けば、国は続いて
いく」
星がまたたき、遠くで犬が一度だけ吠えた。半兵衛は深く頭を下げる。
「私は計算を、殿は実行を。明日の朝から、人口調査に取り掛かりましょう。
記録係【11】を集め、村々に調査の者を派遣します」
「よし。火薬のことは黒田に任せろ。港は三日で管理事務所の案を持って来い。道と港を抑え、火薬と船
を握る。――戦は、短く終わらせるんだ」
健一は最後にもう一度、闇に沈んだ山を見た。
火は消えた。だが、匂いはまだしつこく残っている。
この匂いが完全に消える前に、国の骨格を作る――人口、火薬、港。 彼は手すりから体を離した。
夜は深いが、仕事は、いま始まったばかりだった。
注釈
【1】 比叡山 (ひえいざん): 京都と滋賀の境に位置する山。山全体が天台宗の総本山である延暦寺の境内となっている。織田信長は、敵対勢力であった浅井・朝倉軍を匿ったことを理由に、1571年(元亀2年)に比叡山を焼き討ちにし、数千人を殺害したとされる。この物語では、その事件の直後であることが示唆されている。
【2】 畿内 (きない): 日本の古い行政区分で、京を中心とした国々のこと。山城、大和、河内、和泉、摂津の五カ国を指す。日本の政治・経済の中心地。
【3】 勘定 (かんじょう): 計算や会計のこと。ここでは、武力や精神論ではなく、経済力やデータに基づいた合理的な国家運営を指す言葉として使われている。 【4】 戸口 (ここ): 家の数、またはそこに住む人口のこと。正確な人口を把握することは、税収や兵役人数の算定の基礎となる。
【5】 硝石 (しょうせき): 火縄銃の火薬の主原料。当時、国内での生産量が非常に少なく、主に輸入品に頼っていたため、軍事力を左右する極めて重要な戦略物資であった。
【6】 港 (みなと): 物資や人が行き交う港湾のこと。物流の結節点であり、経済の要。ここを管理することは富と情報を支配することに繋がる。
【7】 年貢 (ねんぐ): 領主が農民から徴収する税。主に米で納められた。
【8】 座 (ざ): 中世の日本で、商人や職人が結成した同業者組合。座に加入することで営業の独占権などの特権を得ていた。
【9】 堺・大津・草津 (さかい・おおつ・くさつ): いずれも当時の重要な交通・商業都市。堺は海外貿易の拠点、大津と草津は琵琶湖水運と陸上交通(東海道・中山道)の結節点だった。
【10】 灰屋 (はいや): 灰を売る商人。灰は染色や陶芸のほか、硝石製造の工程にも用いられた。
【11】 鍛冶 (かじ): 鉄を加工して道具や武具を作る職人。鉄砲の生産や修理に不可欠な存在。
【12】 書役 (しょやく): 文書の作成や記録を担当する役人。書記。




