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第121章 怒れる馬場信春

(1570年10月)落合川砦


永禄十三年(1570年)十月。落合川砦に、再び武田馬場隊が姿を現したのは、二週間後のことだった。


前回、毒米によって死者三九人を出し、さらに多くの兵が動けなくなったことで、輜重隊への恐怖は軍全


体に深く刻まれていた。


しかし、馬場信春は諦めていなかった。


彼は織田方の竹盾を模倣し、竹製の盾を構えた兵を先頭に立てて攻め寄せてきたのだ。


「あの竹盾を真似てくるとは・・侮れないな」


砦の指揮を執る加藤清正は、舌打ちした。武田軍は、川沿いに広く横一列に広がって戦線を構築し、一ヶ


所に集中して竹盾を翳しながら、あっという間に渡河を始めてしまった。


清正山内一豊は、手筈通り、伊賀者の手を借りて砦の天井裏の梁の上に火薬壺と油壺を設置させ、準備を


完了させた。


「できるだけ粘るのだ! 矢を、あるだけ打ち尽くせ!」


一豊はそう叫び、自らも弓を引き絞る。


しかし、数の差はいかんともしがたかった。


武田の波状攻撃の前に、砦の守りは次第に綻びを見せ始める。


夕闇が迫る頃、清正は撤退を決断した。蔵には、毒の入っていない米と酒を大量に残していく。


それは、追撃を遅らせるための誘い水だ。兵たちは、夕闇に紛れるように、静かに砦を後にした。


最後に残ったのは、木曽川沿いの物見櫓に見せかけた竹の筏。


筏には火薬壺が積まれ、火をつけた線香が立てられている。


清正は、後ろを振り返ることなく、川を下って闇の中へと消えていった。


やがて、遠く砦の方から鈍い爆音が響き渡り、夜空を赤く染め上げた。


■ 馬場信春視点


「米に毒を入れるなどと……ふざけた真似をしおって!」


馬場信春は、怒りをぶつけるが如く、怒涛の攻めを指揮した。


織田方の竹盾戦法を模倣し、自らの兵にも竹盾を構えさせる。


敵が川沿いの堤防に横並びで戦線を敷き、その厚みが薄いことは承知の上だった。


百人ほどの集団を十ヶ所ほどに分け、同時に竹盾の陰に畳を敷き、泥濘を固めて押し通した。


やはり、弓隊の移動が間に合わず手こずっている。


渡河できた兵が壁に取り付いてしまえば、弓も撃ちにくくなるはずだ。


「よし、もう少しだ! 第二陣、突っ込めー!」


兵たちの怒号が木霊する。


敵の壁は、見た目こそ竹だが、中にはあの灰色の土台と同じものが埋め込まれているようだった。


道理で固いわけだ。火矢が効かないのも頷ける。


そんな困難も乗り越え、ついに場内になだれ込むことができた。


中から門を開けさせようとしたが、どうにも開かない。


なんでも、この門は綱で上に引き上げる方式のようで、修理をする暇も道具もないので放置。


仕方なく、兵たちは壁を乗り越えて侵入した。


中は驚くほどこざっぱりとしており、全員が逃げ出したあとだった。


ただ長屋と蔵があるばかりで、蔵には米と酒が山ほど積まれていた。


そして、米俵の上に手紙”一通”。


「わし宛てだと?」


書状を開くと、そこには憎たらしいほどすっとぼけた文面が記されていた。


「この間の米は大丈夫だったか? お詫びに酒も置いていく。この米と酒は毒ナシだから安心して食って


くれ。その代わり、追うのは明日以降にしてくれ」


なんとも図々しい奴だと思ったが、既に何十人もが酒も米も口にしていた。


信春は、毒米の二の舞を警戒し、ひとまず明日まで様子を見ることにした。


見張りを立て、兵たちは眠りについた。


だが、次の日が来ることはなかった。


夜半、遠く木曽川を下る筏の影が見えなくなった頃、砦の奥で火薬壺に立てられた線香が燃え尽き、火薬


に引火した。


轟音と共に火薬壺が爆発し、同時に油壺を破壊して油をまき散らす。


飛び散った油に引火し、蔵と周囲の長屋は瞬く間に炎に包まれた。


入口の揚げ戸は綱を絶たれたままで死に戸と化していた。逃げ場は木曽川の一筋のみ。


夜半、谷風が川面へ下り、砦の奥からぼふっ—どんと短く二度、梁上の壺が爆ぜた。


と煙が一気に広がり、油の飛沫が長屋に走る。輻射熱で皮膚が焼け、黒い煙が呼吸を奪う。


出口へ殺到した兵は揚げ戸前で詰まり、後続が折り重なる。


叫びは煙に呑まれ、川へなだれ落ちた者は流れに攫われた。


場内の先乗り千余は壊滅、柵外の諸曲輪も火柱と爆ぜ音を弾薬の誘爆と取り違えて総崩れとなる。


夜明け。外郭の竹壁と灰色の土台は昨夜と変わらず、焼けた跡は幕で覆われ、差し替えた竹壁が“元の


姿”を装っていた。


物見のスッパはそれを見て、「砦は消えたと聞いたのに、変わらず在る」と信玄に報じた。


胸に残るのは理屈の通らぬ不気味さだけだった。落合川砦、一夜にして再建。


そして、次の日の朝。


爆破されたはずの落合川砦は、まるで何もなかったかのように、元の状態でそびえ立っていた。


あの長大な竹壁も、堅固な土台も、再び武田の侵入を阻むかのように、静かに横たわっている。


武田の物見のスッパは、偶然にもその一部始終を見ていた。


夜の闇に浮かび上がる炎と轟音、そして夜明けと共に現れた、何事もなかったかのような砦。


信玄に報告するも、始めは信じようとしない。


「馬鹿な! 砦が丸ごと消え去ったと聞いておるぞ!」


信玄は激昂し、改めて別のスッパに落合川砦を見に行かせた。


そして、その報告が「間違いない」と確認されると一言「三河から兵を引かせろ。」


信玄はそのまま奥へ引っ込み、数日間、誰とも顔を合わせることはなかった。


「織田・・恐るべし」


武田の精鋭部隊を一夜にして消し去り、翌日には砦を再建する。


それは、もはや人の為せる技ではなかった。


落合川砦は、武田信玄の心に、深い畏怖と混乱を刻み込んだのだった。

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