第11章 新たなる胎動
戦の後に待つのは、混乱と再構築。
桶狭間の勝利からひと月、藤吉郎はようやく「ねね」との逢瀬を実らせつつも、尾張の再編という現実に向き合っていく。
本章では、軍功による昇進とともに、藤吉郎のなかで「人を動かす」視点が育ち始める様子を描きます。
そして、次なる「仕掛け」が、じわじわと動き出す――。
(1560年8月)尾張 熱田湊
桶狭間の戦いより三月後、京の情勢が慌ただしく動き始めていた。
上洛を果たした信長は、足利義昭との接触を視野に入れながら、将軍奉戴と畿内掌握の布石を打ち続けていた。
そんな中、坂村健一は清洲から小牧山城へと異動となる。彼に課されたのは、城下整備と尾張・美濃の物資流通管理であった。
「これからは戦ではない、仕組みだ。秩序と運営、その両輪を回せる者だけが信長様の側に残れる。」
城の南側に広がる市場の再編、紙や塩、鉄などの需給管理、そして信長の新たな軍備構想の基盤整備。その奔走の中で、健一はただの兵卒や足軽とは一線を画す働きを見せる。
だが、その成り上がりを良しとしない者たちもいた。
「一介の草履取りが、何を知るか」
「下賤の出が調子に乗るな」
織田家内部に広がる見えざる『空気』は、健一の歩みを時に陰で妨げた。
この「空気」とは、単なる雰囲気ではない。
場を支配する者たちの“沈黙”や“視線”によって構成される、目に見えぬ同調圧力。
発言や行動の是非は、論理ではなく「場が許すかどうか」で決まる。
この社会的力学のなかで、「異物」として認識されれば、たとえ正論であっても排除される――それが「祓い」であり、空気の正体であった。
健一は、過去の死に戻りでこの空気の恐ろしさを味わっていた。
「ならば、穢れと思われぬよう、先に神意を整えておかねばなるまい。」
そう語りながら、健一は新たな仕組み――『天の秩序』ではなく、『地の秩序』の設計に着手する。
彼が目指すのは、特定の血筋や階層によらない、機能と役割による分業と統治。
「民とは、支配すべきものではなく、支え合い、機能させるべきものなのだ。」
彼の理念は、やがて織田軍の補給制度、農工商の再編、都市の自治制度へと結実していく。
そんな中、信長がある日、ぽつりと語った。
「仏法は退き、兵法が前に出る。だが、いずれ政もまた武を飲み込む時が来る。」
その言葉に健一はぞっとする。政とは何か。武を超えるものとは何か。
「それが“空気”ならば、我らは見えぬ怪物に支配されているのかもしれぬ。」
そして結婚して初めて知った。自らの意志だけでは世界を変えることなど到底できないという現実を。
妻というべき参謀の存在がいかに大切であるかを、日々の生活と対話の中で、肌で感じるようになった。
それは、彼の孤独な理想主義に、温かい血を通わせるようだった。
そして、健一は思い出す。かの秀吉には竹中半兵衛という存在がいたことを。
仕組みを変えるのは空気ではなく、意志と、その意志を支える賢明な者の存在であると。
そして健一は思い至る。
「本来なら半兵衛と出会うのは墨俣一夜城の後だが、待っている場合ではない。明日、蜂須賀小六に会いに行こう。そして半兵衛を紹介してもらうのだ。」
そう決意し、彼の足はすでに次なる運命へと向かっていた。
これが、健一――いや、藤吉郎が「世界を変える設計者」へと至る、第二幕の幕開けであった。
第11章では、戦後の「日常」と「統治」を意識して描いています。
桶狭間のような劇的な戦いの直後には、どうしても読者の気持ちが緩みがちですが、実際の歴史ではこの時期こそが最も重要な「政」の始まりです。
藤吉郎はまだ尾張の一小者に過ぎませんが、彼の中には“現代的な視点”と“秀吉としての資質”の両方が同居しており、そこから未来へと繋がる発想が芽吹いていきます。
そして、ねねとの関係も少しずつ前進。
戦の激しさと愛の静けさ――その対比が彼を成長させていくのです。
次章では、いよいよ藤吉郎が「経済」と「外交」の最前線へ。
尾張の命運を左右する大きな一手が始まります。




