第111章 金沢御坊・竹の籠
(1570年6月13日)金沢御坊
夜の帳が下りたころ、犀川と浅野川のせせらぎに紛れて、忍びのように動く影があった。
上杉謙信が越後から発した偵察部隊。その数十名は、林の間を抜け、川の上流から金沢御坊の様子を窺っ
ていた。
「・・何だ、これは・・!!」
「聞いてた報告より悪辣ではないか」
竹を組んだ壁が迷路のように御坊を囲い、さらにその内側には重ねて土壁が築かれている。
まるで砦に変貌した寺院――。
敵兵の気配は少ないが、物陰ごとに火縄銃の銃口がこちらを睨んでいるような錯覚すら覚える。
「・・寺じゃねぇ・・これは、・・城だ」
「竹で、ここまでやるか?」
耳を澄ませば、川のせせらぎに混じって、斧と鋸の音、そして荷車の車輪が軋む音が響く。
「まだ・・造ってやがる・・!!」御坊のまわりは川、そして人の気配に満ちている。
明らかにただの防備ではない。
何かが、“籠もる”ために、計画的に築かれている——そんな異様な気配が全身を刺す。
その気配は、まるで皮膚の下に虫が這うような、言い知れぬ不快感を伴っていた。
この不快感こそが、信長や秀吉が作り出す「空気」の具体的な現れだった。
通常の常識では考えられない速度と規模で築かれる要塞は、早見勘右衛門の心に「理解不能な異物」とし
ての「空気」を植え付けたのだ。
この「空気」は、単なる驚きではない。
それは、自分たちが知る世界の法則が崩れていることへの根源的な恐怖であり、それが上杉軍全体に伝播
すれば、士気を大きく揺るがすことになるだろう。
早見の心には、目に見えない脅威が、明確な形で刻み込まれたのだ。
「報告だ。急げ」
偵察隊は、地面を踏むごとに足元が罠のように沈み込むのを感じ、無理に深入りせずそのまま引き返し
た。彼らの心には、得体の知れない恐怖が、鉛のように重くのしかかっていた。
■ 金沢御坊内――秀吉軍の本陣
「――偵察は?」 「戻って参りました。上杉の斥候が来ておりましたが、竹壁の構造に驚いた様子で、
深追いは致しておりませぬ」
秀吉は頷き、上杉の動きについて口火を切った。
「越後より発した謙信本軍、総勢二万二千。」
「その主力が金沢を越え、いまや犀川の南に布陣したもよう・・」
その場に重い沈黙が落ちる。
「まさか、あの越後の龍が・・自ら来るとはな」
半兵衛が低くつぶやく。
「しかも、今は田植えの真っ最中でござるぞ。農繁期にこれだけの兵を動かすとは・・」
柴田の側近が言葉を継ぐ。
「それだけ”本気”ということよ。こたびの上洛戦、その延長ではない。」
「奴らは、我らを潰す覚悟で来ておる」
秀吉は、碁石を手に取り、地図の上に置いた。
「犀川・浅野川・そして我らの竹壁――この三つをもって”要塞”とする。」
「前に出ては飲まれる。だが、敵も簡単には攻めきれまい」
一人が声を上げる。
「籠る、ということでございますか?」
「そうだ。相手は数で勝るが、速さでは我らが勝る。」
「十日で築いた竹壁の堅さ、いずれ奴らにもわかる。籠城で時を稼ぎ、敵の動揺を待つ」
秀吉は、静かに杯を取り、兵に酒を振る舞った。
「・・さて、ここからが勝負よ。奴らが攻めるのを待つか、こちらから仕掛けるかは――こっちの都合で
決めるとしよう」
部屋に静かな笑いが漏れた。
その笑いは、単なる自信からではなく、計算し尽くされた戦略から生まれる、静かな確信のようだった。
――この戦、ただの“防衛”には終わらぬ。秀吉の胸には、すでに“次の一手”が練られていた。




