第107章 風炎、再び
1570年5月末)金沢御坊
能登までを平定し、天下布武の旗を北陸にまで押し広げた織田信長は、本陣を金沢御坊に駐屯させ、よう
やくの休息を得ていた。
しかし、その平穏は、わずかに三日しか続かなかった。
「伝令――っ!!」
城下を震わせる蹄の音。
続けざまに三騎、四騎、さらに五騎――
次々と早馬が金沢へと駆け込んでくる。
「上様、比叡山延暦寺、突如兵を挙げました!僧兵二千、京へ進出の兆しあり!」
「石山本願寺、蓮如の孫・顕如、同時に挙兵!摂津周辺の寺院、蜂起の兆し!」
「丹波国、氷上・福知山・三木の諸将、将軍家からの令旨にて起つとのこと!」
信長は静かに目を閉じた。
そして、最後に駆け込んだ馬上の伝令が、決定打を告げる。
「越後・上杉謙信公、福井口に進軍中とのこと・・」
一瞬、戦場に似た沈黙。
参謀の柴田勝家すら言葉を飲み込む。
「・・さて」
静かに信長が口を開く。
「またか――“あの男”か」
傍らに控える前田利家が苦笑する。
「将軍義昭様ですか、“お手紙将軍”として本領発揮、というやつですな」
「いや・・皮肉ではすまさぬぞ」
信長は机上の地図をゆっくりと広げ、赤い小札を次々と置いていく。
京、摂津、丹波、近江――そして福井。
まるで将軍の令旨が空から降ってきたかのように、各地が一斉に燃え始めている。
「軍勢を割く必要がある。勝家、播磨へ戻れ。丹波と三木を押さえよ」
「はっ」
「信忠には・・まだ若いか。だが、石山には一度、顔を見せてよいだろう」
参陣した諸将は皆、黙してうなずいた。
信長は最後に、地図の将軍家の屋敷の位置に白札を置いた。
「さて、“将軍”よ。貴様がどれほど手紙を書こうと・・」
その札に人差し指を突き立てる。
「わしの筆は――剣と火で書くのだ」
「焦燥の檄文」――金沢・織田本陣にて
「・・これが、将軍家より諸将に宛てた直筆の書状でございます」
差し出された一枚の文は、確かに足利義昭の花押が記されていた。
信長は視線だけで頷くと、紙を受け取り、広げる。
参陣していた面々――柴田勝家、丹羽長秀、前田利家そして秀吉――が固唾を呑んでその内容を見守る。
「・・『今こそ、信長を討つべし』か。ふむ」
信長は眉一つ動かさずに読み進めた。
「――あの兵器は、村上水軍の火技を応用したものと聞く。焙烙玉に似たりとも申す者あり。火薬を大量
に消費し、即席の量産はかなわぬ。よって、再び作られる前に討つべし。今しかなし。」
読み上げる信長の声に、部屋の空気が一変する。
「これは・・秀吉様の、あの“筒”のことか」
利家がぽつりと呟いた。
「あれを見て逃げ惑った兵たちの話が、どうやら敵にも届いておったようじゃの」
勝家は腕を組んで苦笑した。
「敵のほうが、よく見ておる」
信長は静かに手紙を置いた。
「火薬の入手経路、製法、そして運用法――我らは伏せていたが・・漏れたか」
秀吉が口を開いた。
「・・焙烙玉と同じと思ってくれてるなら、まだマシですな。」
「あれは“打ち上げ”で空から降らせる。つまり――遮蔽物が効かない」
「だが問題は、再びあれを撃てるか、じゃな」
丹羽長秀が声を潜める。
「火薬の備蓄は?」
秀吉は苦い顔うをして言う。
「火薬の備蓄などほぼありません。」
「合戦前に信長様にお渡しした分以外、あとどれほど残っているか・・・」
「あったとしても火縄銃の火薬も必要です。火砲で使い切るわけにはいきません」
「南蛮商人が日本の商人に圧力を掛けて、火薬の入手を困難にしているというに・・」
「人買い禁止への意趣返しをして来るとは思わなんだ」
「ん?そこから漏れたか?」
利家が笑いながらも首を傾げる。
「・・“地獄の火”を、”何度も撃てるとは思えん”が”無いとも言えん”・・敵がそう思ってくれるなら、そ
れが抑止力になるではないか」
信長は書状を置いて、地図を指し示す。
「あるか、ないか、疑心暗鬼が足をすくめさせているうちにこちらに有利な状況を作り出すことが肝要」
静寂。
信長は口を開く。
「敵の思惑は明快だ。時間を与えれば、我らがまた”それ”を使ってくる。だからこそ、やつらは義昭の檄
に応じて、一斉に蜂起したのだ」
「つまり、バラバラに動いてでも我らを攻撃しようとするだろうと、ということですな」
「そうだ」
ご丁寧にも「やるなら今しかない」そう書いてある。
秀吉が、笑った。
「では、こちらも一手打つか」
信長の声に全員が顔を上げる。
「“再び使える”ことを示してやれ。僅かでも構わん、焙烙玉ではないと証明してみせよ」
「わかりました、山田に命じます。ただし出来ても2発」
「なんせ一発の花火弾で火縄銃1000発分以上の火薬を使うんです。」
「さらに忍び部隊で“準備完了”の噂を流させましょう。」
「火薬がもうないなどと思うなよ、という見せ札か」
利家が笑みを浮かべた。
「それと、火薬の購入を止められた事――“南蛮寺”と“堺”の線は?」
秀吉は軽く頷いた。
「堺にはもう、鉄と煙硝の流れは途切れさせません」
「一刻も早く、やつらの目には映らぬよう、神父たちを通して別の南蛮商人を動かしています。」
「・・ならば、あとはこちらの速さだな。」
信長が再び地図を広げ、手をかけた。
「義昭よ・・この戦、お主が『書』で始めたのなら、わしが『火』で終わらせてくれるわ。」




