第103章 再会、命の袋
(1569年 八月)小谷城
小谷城――静寂の本丸。
城の石垣を渡る蝉の声が、夏の終わりを告げていた。
羽柴秀吉に案内され、血と泥に塗れた織田信長が本丸の畳へと踏み入る。
その疲労困憊の姿とは裏腹に、鋭い光を放つ瞳は部屋の中を静かに見渡した。
襖の向こうに、膝をつくひとりの女。 お市であった。
その姿を目にした瞬間、信長の眼差しが鋭さを失う。
彼の瞳の奥には、妹への深い愛情と、彼女を巻き込んだ運命への複雑な感情が入り混じっていた。
「・・お市」
「兄上・・よくぞ、ご無事で・・」
彼女は静かに頭を下げたまま、震える声で答えた。
信長は何も言わず、歩み寄り、彼女の前に立つ。
「・・袋ひとつ、受け取ったぞ」
お市がゆっくりと顔を上げ、信長を見つめて微笑んだ。
「――お分かりいただけたのですね」
信長はふっと苦笑する。
「浅井と朝倉が、両端の紐。中の小豆が、この信長。・・袋の鼠、というわけか」
お市は何も言わず、ただ静かに頷いた。その瞳には、安堵の色が浮かんでいる。
「ふざけたような、しかし見事な策よ。・・その“たった一袋”がなければ、この命は今ここにはない」
「・・兄上の命があればこそ、世は動きます。それを絶やしたくはありませんでした」
信長は、懐からその袋を取り出す。
いまだにしっかりと口を縛られた、小豆の袋。乱世の中で命を繋いだ、わずか手のひらほどの布きれ。
「この袋が、軍議のどんな知略よりも尊く思えた」
信長はしばし、それを見つめたまま――そして、お市に手渡した。
「返しておこう。これは、そなたの“策”だ。・・我が命の、証とな」
お市は、それを両手で受け取り、そっと胸に抱きしめた。
その温かさに、安堵の涙が静かに頬を伝う。
「・・ありがとうございます。兄上」
信長は背を向け、ゆっくりと歩み去る。その背中に、お市が静かに言葉を投げた。
「わたくしもまた、この乱世を生きておりますゆえ」
信長は一瞬だけ立ち止まり、振り返ることなく、静かに言葉を返した。
「ならば、道を間違うな。我らは“生きて”次へ繋ぐ者だ」




