第102章 悔いと封鎖
(1569年 八月)京
桂川の河川敷には、まだ火薬と焦げ草の匂いが濃く漂っていた。
風にあおられて黒煙が薄く流れ、ところどころに焼け残った幕がひらめいている。
踏み固められた土は所々黒く焦げ、炭のように崩れやすくなっていた。
その光景を背に、羽柴秀吉は地図を睨みつけていた。表情は硬く、勝利の喜びなど微塵もない。
そこにあるのは深い苦渋、そして次の一手を測る冷ややかな光だけであった。
「・・追わん。三好は放置せよ」
短く放たれたその言葉に、蜂須賀小六が思わず声をあげる。
「え!? この勢いのまま叩けば、すでに敵は総崩れ──! 秀吉殿、あのように逃げ惑う敵ぞ!」
秀吉はゆっくりと首を横に振った。
「だからこそ、だ」 握った拳が白くなる。
その拳には、焼き殺したの兵への後悔と、信長の命を守らねばならぬ責務、その二つが絡み合って
重くのしかかっていた。
「この戦は、すでに三好に勝つためのものではない。」
「”信長様が生きて戻るための地”を保つ戦いとなったのだ。」
「時間をかけてこの場で三好を追えば、織田本軍はさらに窮地に立たされるやもしれん。」
「見捨てては、わしが信長様の帰路を断つことになる」
小六は自分の言った意味を思い返して納得する。
──その場に緊張が広がった。
■ 転進、そして決意
秀吉は軍令筆を手に取り、各将団の佐長たちへ矢継ぎ早に命を飛ばす。
「全軍、追撃を中止。慰長単位(一五〇名)ごとに整列し、即時転進──目標は小谷城だ!」
その言葉に、将兵たちは一瞬戸惑ったものの、主の決断を信じ、迅速に動き出した。
槍を肩に掛け直す音、馬の嘶き、鎧のこすれる金属音が次々と立ち、戦場のざわめきが再び進軍の律動へ
と変わっていく。
秀吉も馬に跨がり、桂川を離れた。湖畔沿いの道を疾駆しながら、彼は小さく呟く。
「・・この様に変化して“歴史の修正”が入るか。浅井め・・。信長様を討つ機会は、歴史を変えたわしが
作ったというのか」
握った手綱に、無意識に力がこもる。
「信長様の理は、まだ”形”を成しておらん。だからこそ、こうも乱れるのだ。」
頬を叩く風が熱を奪い、馬はさらに速度を上げた。
■ 小谷城、そして封鎖
転進から二日目、秀吉軍は小谷城に到着した。
敵影はなく、城門は開け放たれている。
黒鍬隊が真っ先に進入し、制圧を完了させた。
「殿、城内制圧完了! 旗の差し替えも終えております!」
「よし、損壊個所の確認を急げ。糧秣を確保し、井戸の水質も見ておけ。ここが”命の起点”になる」
転進三日目には、北陸道封鎖が完了した。
竹盾隊が山道の要所に一列で張り付き、遮蔽と伏兵配置を兼ねた陣を築く。
道の両端には小型の狼煙台が組まれ、通信用の旗が備えられた。
「これで北から来る兵の流れは、すべてこちらで制御できる。・・信長様の戻り道は確保した」
■ 信長本軍の敗走
その頃、北の山中では信長本軍が必死の退却を続けていた。
背後からは浅井・朝倉の鬨の声が追いすがり、山道に響く蹄音と金属音が、逃げ場のない圧迫感を強めて
いる。
斜面を駆け下りる武者の足元で石が砕け、土がはねる。
疲労で足がもつれ、転倒した兵は仲間に腕を掴まれながらも、必死に立ち上がった。
山風が血と汗の匂いを混ぜ、喉を焼く。
「殿を先へ!」
先頭を行く騎馬の武将たちが必死に道を切り開き、槍を構えて追手を押し返す。
背後では矢が岩に当たり、甲冑に弾かれる乾いた音が続く。
信長は馬上で周囲を一瞥し、声を張り上げた。「遅れるな! 退くぞ!」その瞳には怒りも恐れもなく、
ただ生き延びるための冷徹な光があった。
■ 信長帰還
翌日、乾いた風に乗って、遠くから鬨の声が響く。
「戻ったぞォ──! 信長公ご帰還!」
「家康公の旗だ! 三河の本陣も無事!」
やがて現れた信長は、泥と血にまみれ、衣のあちこちが裂けていたが、その声はいつもと変わらぬ調子で
あった。
秀吉は、その信長の姿を見て安堵の念を抱き、静かに膝をつく。
「殿・・ご無事で」
「よくやった、秀吉。・・そなたが“道”を残してくれたおかげで、わしは戻れた」
その言葉を聞き、秀吉は初めて肩の力を抜いた。
戦の緊張がようやく解け、胸の奥に、安堵の波が静かに押し寄せてきた。




