第101章 火を待つ者たち
(1569年 八月)大津
琵琶湖から吹く湿った風が、八月の大津の町を包み込んでいた。
羽柴秀吉は旧陣屋を仮の本陣に据え、軍勢一万を町ごとに配置している。
黒鍬隊は湖岸防備、犬山隊は南路監視、美濃加茂・瀬戸の各隊は交替で木幡山の警戒にあたっていた。
その夜、諜報役の山田祐才が忍び姿で戻る。
「殿──敵勢、三好十兵衛のみならず」 祐才は布に描いた敵陣の構図を広げた。
「筒井順慶、さらに石山本願寺・・三軍が結び、桂川手前・長岡京南にて布陣済みにございます」 秀吉
が目を細める。
「数は・・?」 「三好勢一万、筒井三千、本願寺七千──合わせて二万」 空気が張り詰めた。
秀吉軍は一万、そのうち黒鍬隊は即応戦には不向きだ。 蜂須賀小六が問う。
「火縄銃は?」 「信長様に渡した六百丁のみ。こちらに残るのは予備火薬と装填具ばかりだ」
重い沈黙。部隊長の一人が進言する。
「このまま京に入れば、正面から二万に呑まれましょう。・・無謀かと」
秀吉は屏風の地図を見つめ、静かに言い放った。
「京には──入らぬ」 一同がざわつく。秀吉は続けた。
「敵が構えを見せたなら、こちらは備えるまでよ。秘密兵器の到着を待つ。それまでは動かん」
「・・秘密兵器とは?」 秀吉は懐から符を取り出す。そこには奇妙な設計図と火薬量、そして“伊賀より
発送済”の朱印。
「すぐ届く。“時”を見て動く──それが勝ち筋じゃ」 夜の大津に、まだ見ぬ火が眠っていた。
その火は静かに、確実に、彼らの運命と歴史を変えようとしていた。
天より地獄 夜明け前。
空は深い藍を残し、湖から霧がたなびく。
黒装束の忍びたちが音もなく進む。
目的地は桂川と宇治川の合流点近く──そこに三好・筒井・本願寺、総勢二万が布陣していた。
その背後に、祐才率いる百の忍びが潜む。
”竹筒準備”山田の声が響く。
忍びが背負い箱を下ろし、直径が30㎝ほどの荒縄で巻かれた竹筒を取り出す。
長さ一間(約1.8メートル)、径は手桶ほど。
「祐才様、角度はこれで?」 「低い。もう少し上げろ──四十五度、それが上限だ」 別の忍びが花火玉
を筒へ滑り込ませる。玉は両手で抱える大きさ。
内部には焼夷剤を練り込んだ星がびっしり詰まっていた。
「破裂すれば、高度五十から百で星が飛び散る。半径百五十間は火の海だ」
「一発で・・?」
「一発で、だ」
忍びたちは唾を飲み込んだ。
まだ試作品なので一度きりの使い捨てだがな。
■ 秀吉本陣 兵たちは粥をすすりながら空を見上げる。
「・・始まるな」「ほんとに飛ぶのか、あの筒で?」
「犬山で試した時は空ごと割れる音がしたらしいぞ」 秀吉は湯を口に含み、目を細めた。
「派手に咲かせろよ・・祐才」
発射開始 「発射準備、整いました!」 二十五門の筒が一斉に前方を向く。
導火線が燃える── ゴオオッ!! ドン!! ドン!! 炎の尾を引いた火玉が朝焼け空を切り裂き、4
~5町先・高度五十〜百で炸裂。
ドォァンッ!! 雷鳴とともに、無数の星が焔の花となって散り、桂川の敵本陣へ降り注ぐ。
■ 敵陣の惨状 爆裂とともに、空から焔の雨が降り注いだ。
瞬く間に、幕営の白布が炎をまとい、風に煽られて舌のように揺れる。
「うわああああっ!!」 「火だ! 火が降ってくるぞ!」
「助けろ──、頭が・・熱いッ、燃えて──!!」 兵も僧兵も、敵味方の区別なく炎に包まれる。
甲冑の隙間に燃えた星が入り込み、油を塗った革紐が一気に火を噛む。
鉄の胸板が焼けて膨張し、肌に貼り付く。手で剥がそうとした瞬間、指の皮が爪ごと剥がれ落ちる。
湿った藁や麻の帳幕は、火薬の匂いを含んだ風に煽られて次々と火柱となり、黒煙が立ち上る。
煙は油と焦げた肉の臭いを混ぜ、鼻腔を刺すほど濃い。
視界は赤と黒で塗りつぶされ、どこが地か空かも分からぬ。
「水を! 水を持てぇ!」 桶を担いだ兵が駆け寄るが、そこへ次の星玉が炸裂。
火の粉が頭上で弾け、桶の水面さえ熱で白く泡立つ。
燃えながら走る者、川に飛び込む者、泣き叫び母の名を呼ぶ若武者──そのすべてを炎が追いかける。
火に包まれた馬が狂ったように跳ね回り、轺を握る兵を引きずり、踏み潰す。
地面は焼け焦げ、足裏に肉のような柔らかさを感じさせる。
数刻前まで静かな陣営だった場所は、今や修羅の巷。炎は敵の心臓を撃つだけでなく、戦う意志そのもの
を焼き砕いていった。
■ 秀吉本隊、追撃開始 「見たか、あれが“戦の花火”じゃ」 秀吉は箸を置く。
「よし、火が消えた所をいただくぞ」 黒鍬隊、犬山隊、美濃加茂隊、瀬戸隊が桂川へ進軍。
勝敗は決していた。
だが── 「殿ッ!! 信長様より緊急伝令! 浅井長政、裏切りにございます!」 秀吉の足が止まる。
「・・やはりか」 「朝倉討伐中の本軍、浅井勢に背後を突かれ敗走中! 現在、琵琶湖東を退却中!」
秀吉は空を見上げた。
焔の残光がまだ漂っている。
「・・表の火は消えたが、裏の火は、まだくすぶっておったか」




