第9章 桶狭間の戦いと運命の交錯
運命は繰り返す――だが、勝利の確信は常に紙一重。
転生を繰り返した日吉丸にとって、桶狭間の戦いは既知の風景。
しかし“知っている”だけでは勝てない。
信長の奇襲に、今川本陣のほころび、そして死の因縁との邂逅……
その一瞬一瞬が、歴史を変える臨界点だった。
(1560年 5月)尾張 桶狭間
桶狭間の戦いは永禄三年五月十九日、歴史に名を刻む激戦として知られるが、その実態は表向きの数字とは異なる現実があった。
今川義元率いる軍勢は名目上二万五千。
しかし実際に尾張へ侵攻していた主力部隊は約一万程度であり、その多くが分散して織田方の砦攻略に向けられていた。
この戦略は表向きには合理的に見えたが、実際には信長の巧妙な誘導によって義元の軍勢を分断させられていた。
義元本隊は本陣を桶狭間の地に構えたが、その周囲には目立った防衛線もなく、また連携すべき部隊とは距離を置かれてしまっていた。
こうして実質的に桶狭間には義元本隊約四千、対する信長の軍勢は三千前後。
数の上では劣る織田勢だが、密集し士気も高く、地の利を熟知していた。
藤吉郎はこの戦局の流れを既に何度も見てきた。
生き返りを繰り返す中で、幾度となく桶狭間に臨み、その度に同じような結果を目の当たりにしてきたのだ。
彼の知識と記憶は、この状況が織田に有利に働くことを確信させていた。
だが、それでも不安が拭えぬのは、織田方の勝利が紙一重の差でしか成し得ないことを知っているからだった。
その日、明け方に信長が熱田神宮へ参拝に訪れたという知らせが藤吉郎のもとに届いた。
その瞬間、藤吉郎の脳裏には、これまで幾度も繰り返してきた桶狭間の敗走、そして勝利への糸口がよぎった。
「来たか…ついに動くぞ」
信長の動きは、すなわち決戦の刻を意味する。
藤吉郎はすぐさま自身の配下の小者たちを呼び集め、戦場への準備を進めた。
彼らにはあらかじめ用意させていた陣笠に、目立たぬよう草を巻きつけ、胴丸・脛当て・籠手にも同様の偽装を施した。槍の穂先には墨を塗り、反射を防いだ。
顔には炭を塗り、夜明けの光の中でも判別しにくいよう細心の注意を払った。
「目立つな、音を立てるな。俺についてこい。見るべきものを見ろ。手は出すな」
そう言い残し、藤吉郎は配下を従えて桶狭間の高台へと向かう。
そこはこれまでの経験でも、今川義元本隊の動きが一望できる重要な地点であった。
高台に着いた彼は、遠巻きに配置された今川方の動きを一つひとつ確認していった。
草を揺らす風の中、彼の目には奇妙な静けさが映った。
義元本隊の周囲には、十分な防衛もなく、連携も遅れている――それを見て、藤吉郎は確信する。
「…やはり、これは“勝てる”戦だ。だが、油断すればまた元の木阿弥…」
そして、彼は静かに構えた。今度こそ、自らの手で“確実な勝利”を導くために。
その時、義元本隊が桶狭間に陣を敷き、兵たちが昼食の準備をしている様子が高台から見て取れた。
藤吉郎は、敵の動きをじっと観察しながら信長の到着を待っていた。
やがて、食事が片付けられはじめた頃、突然空が曇り、大粒の雨が地を打ち始めた。
にわか雨はすぐに激しい豪雨となり、視界を遮るほどの勢いで戦場を覆った。
「この雨…これもまた“天の助け”か」
藤吉郎は低く呟き、配下に合図を送る。
雨に紛れて、彼らは本陣近くへと接近していく。
そして、間もなく“時の声”が戦場を震わせた。
「信長様が来た…!」
藤吉郎はその声を聞いた瞬間、全身に戦慄が走るのを感じた。
織田軍の本隊が奇襲を仕掛けている。
藤吉郎もまた、その流れに乗るように義元本陣へ突撃した。
しかし、そこに立ちはだかったのは岡部元信であった。
「貴様…! 小僧風情が義元様の御前に!」
かつての主に、思わぬ形で対峙することとなった。
藤吉郎は岡部の剣技に太刀打ちできず、敢無く斬り払われそうになり、その場を逃げ出そうとする。
だが、その時だった。
「うおおおおおおおおっ!」
服部小平太と毛利新助が突如乱入し、岡部に猛攻を仕掛けた。
一瞬の隙を突いて義元の身辺が乱れる。
そして、毛利新助の刃が義元の脇腹を突いた――。
「今川義元、討ち取ったりっ!」
戦場が静寂に包まれた瞬間、歴史の歯車は新たに回り始めた。
藤吉郎は、血に染まった戦場の空気を吸い込みながら、ただひとつのことを心に誓った。
「今度こそ、この流れに乗り、天下を掴む…!」
ついに訪れた桶狭間。日吉丸にとっては、何度も見た“記憶の地”であり、“決意の戦場”でもありました。
この章では、史実の今川軍の分散や信長の突撃を踏まえつつ、現代知識を持つ藤吉郎がどこまで介入できるのか――という「転生ならではの葛藤」を描いています。
特に岡部元信との再会は、彼が今後背負う“戦国の因果”を予感させるエピソードとして挿入しました。殺す側になることへの迷い、死を間近で見ることの重み、それでも突き進まねばならない戦国の摂理。
読者の皆さんも、「勝ち戦」の裏にある焦燥や無力感に共感いただけたら嬉しいです。
次章では、戦後の褒賞、そしてねねとの運命的な出会い――秀吉らしい柔らかな人間味が顔を出します。




