そっと、ふれあうように
そっと、ふれあうように
愛しています。本当だよ。
その日は夕方から、突然の大雨になった。
ついてないな。と思いながら、白川小唄が田んぼ道を走っていると、近くに明かりの灯っていないとても大きな古い日本家屋のお屋敷が見えた。
その立派な日本家屋のお屋敷の松の木の見える入り口にある瓦屋根のところで、小唄は少しの間、雨宿りをさせてもらうことにした。
びしょ濡れになった自分の髪と服の雨をできるだけ手で絞ってから、小唄はなにをするでもなく、暗い雨降りの空と門からはみ出して見える松の木の枝を見つめた。
……ざーという激しい雨の音だけが聞こえる。
それは、とても静かな時間だった。
小唄は家の人に迷惑がかかるので少しの間だけ、と思っていたのだけど、そう思っていた以上に、小唄はなんとなくその美しい風景に見とれてしまって、その立派な木の門のところで雨宿りをしてしまった。
それから十分くらいしたところで、「白川くん。なにしているの?」と背後から声をかけられた。
驚いた小唄が慌てて後ろを振り返ると、そこには小唄と同じ高校に通っている小唄のクラスメートである少女、日下部道子が立っていた。
「え? どうして日下部さんがここにいるの?」突然の出会いに慌てて小唄はいった。
「どうしてって、ここ私の家だから」
小さく笑って道子はいった。
考えてみれば、当たり前のことなのだけど、思わずとても変なことを道子に聞いてしまって小唄はその顔を思わず真っ赤にした。
みると確かにお屋敷の木の門のところには『日下部』と言う表札があった。
「ここで雨宿りしていたの?」
道子は言った。
「うん。ごめん。少しの間だけって思ってたいんだけど、つい長居しちゃって。それに、ここが日下部さんの家だって知らなかったから」と小唄はいった。
「別に謝らなくていいよ。突然の雨だったしね。それよりさ、どうせ雨宿りしているのなら私の家の中にこない? 今、ちょうど誰もいなくて暇していたところなんだ」と、にっこりと笑って道子はいった。
そんな道子の突然の誘いに小唄は戸惑ったのだけど、「用事とかないんでしょ?」と言う道子の言葉に「ない」と答えると、「じゃあ決まりだね」といって、道子は小唄の手を引いて、小唄を自分の家の中へと案内して歩き出した。
小唄と道子がこうして手をつないだのは、このときが初めてのことだった。
「どうぞ。遠慮しないで入って」
とても立派な日本庭園の庭を抜けて、二人は道の家の玄関に入った。
道子の家はとても立派な家だった。
玄関は広くて、床はよく掃除がされていて、とても綺麗に光り輝いていた。でも、外から見たときと同じで、家の中に明かりはどこも灯っていなくて、なぜかとても寂しい雰囲気を小唄は感じた。
「お邪魔します」そう言って小唄は道子の家に靴を脱いで上がった。
綺麗な床の上には小唄の濡れた足跡が残った。
小唄がお邪魔をしたのは、庭の見える障子と畳のある大きな客間だった。
畳が濡れてしまうかも、と思って開いた襖のところで遠慮している小唄に向かって道子は「別にそのくらい平気だよ」といって小唄の手を引いて一緒に客間の中に入ると、小唄に座布団を用意してくれた。
「ありがとう」
といって、小唄はそこに座った。
それから道子は「ちょっと待ってて。今、タオル持ってくるから」といって、一度、客間からいなくなった。
一人になった小唄はその間、開いた障子の外側に見える雨降りの庭の風景を見つめていた。
そこからは門からはみ出して見えた松の木がよく見えた。その松の木はもう随分と長い年月を生きてきたように見える、松の木だった。
「お待たせ」
そう言って道子は真っ白なタオルを持って客間に戻ってきた。
「どうもありがとう」そう言ってから、その真っ白なタオルで小唄は雨に濡れた顔や髪を拭いた。
「着替えとかあるけど、着替える? それともお風呂に入る?」大きな木のテーブルの小唄のちょうど反対側に自分用の座布団を引いて座ってから、道子は言う。
「そこまで迷惑はかけられないよ。少ししたら、家に帰る」柱にかかっている時計を見て、小唄は言う。
「ふーん。そっか」
と、すごくつまらなそうな顔をして、背伸びをしながら道子はいった。
小唄は「どうぞ。体、あったまるよ」と言って道子が煎れてくれた温かいお茶を飲んだ。
そのお茶は、とても美味しかった。(それに体も確かに温まった)
突然の大雨はまだ降り続いている。
それから二人はなにを話すでもなく、お互いに相手のことを見つめあった。
「白川くんのお家は、確か神社だったよね」
道子はいった。
道子の言う通り、確かに小唄の家は神社だった。
白川神社という古い時代に建てられた神社の家系に小唄は生まれた。
「うん。そうだよ」
道子を見て、小唄はいった。
道子は客間の明かりをなぜかつけなかったから、薄い暗闇の向こう側に道子は見えた。
道子の白い顔はその薄い暗闇の中にぼんやりと浮かんでいるように見えた。
「白川くん、運命って信じる?」
突然、道子はそんなことを小唄に言った。
「運命? 人の一生は全部、生まれたときには決まっているって言うこと?」小唄は言う。
「そうじゃなくて、人には誰でも、その人と対となる運命の相手がいるってこと」
道子は言う。
「結婚相手が決まっているってこと?」小唄は言う。
……結婚、という言葉に道子は少し反応して、その顔を赤くする。
「そこまでは言わないけど、……まあ、そうかな。この人と結ばれる運命にあるって思える人がこの世界のどこかにいるってこと」
道子は言う。
「わからない。でも、あんまり運命って言葉は信じてないかな」小唄は言う。
「神社の家に生まれたのに?」ちょっとだけ驚いた顔をして道子は言う。
「生まれた家は関係ないよ」小さく笑って小唄は言った。
そこで二人の会話はまた途切れた。
小唄は雨降りの庭を見て、道子は薄暗い明かりの灯っていない天井を見つめた。
「白川くんはお家継ぐの?」
道子がいう。
「たぶん、継ぐと思う」
小唄が言う。
「神社の神主さんになるんだ。白川くん」道子は言う。
「うん。そうなると思う」
道子を見て、小唄は言う。
「そっか。白川くん。もう自分の将来のことについて、ちゃんと考えているんだ。えらいね」本当に感心したような顔をして、道子は言った。
「日下部さんは自分の将来の夢、なにか考えてるの?」と時計を見てから小唄は言った。
道子は小唄と同じように一度柱時計を見てから小唄を見る。
「将来の夢、もちろんあるよ。私の将来の夢、白川くん。なんだかわかる?」
とふふっと笑って(とても楽しそうな顔をして)道子は言った。
小唄は少し考えてから「わからない」と自分の正直な気持ちを道子に言った。
「適当でもいいから、当ててみて」
お茶をひと口だけ飲んでからにっこりと笑って道子は言う。
小唄はまた、少しだけ考えてから「先生かな?」と道子の目を見ながら言った。道子は視線を少しも外さずにずっとさっきから小唄の目をじっと見つめていた。(まるで本当のなにかの試験でも受けているみたいだった)
「はずれ」と楽しそうな声で道子は言った。
「ねえ、昔のお祭りの夜のこと、覚えている?」と道子は言った。
「お祭りの夜のこと?」小唄は言う。
「うん。白川くんの実家の神社で行われたお祭りのこと。ずっと昔のまだ私と白川くんが小学生だったころのお祭りの夜のこと。覚えてない?」
道子は言う。
「なんのこと?」小唄は言う。
「私が転んじゃったこと。それから、そんな私に白川くんが手を差し伸べてくれたこと」
道子は言う。
「私は転んじゃったことが恥ずかしくって、その場所から駆け足で逃げ出しちゃって、その白川くんの手をしっかりと握ることができなかったんだけど、……そのことを私、ずっと後悔してたいんだ」
道子は小唄を見る。
「……どうかな? 覚えてない?」
小唄は道子の言っているお祭りの夜のことを思い出そうとしたのだけど、どうしてもなにも思い出すことができなかった。
「ごめん。覚えてない」と小唄は言った。
すると道子はなんだかちょっとだけがっかりした顔をして、「……そっか」と言ってから、またにっこりと笑った。
「その男の子は本当に僕だったのかな? 日下部さんの勘違いじゃない?」
小唄は言った。
「ううん。違うよ。あれは間違いなく白川くんだった」
と自信満々の顔で小唄に言った。
「だって、私はその日から白川くんのことが大好きになったんだから」
その道子の言葉を聞いて、小唄は思わずその目を大きく見開いた。
道子はその顔を真っ赤にしていた。
(自分ではわからなかったけど、おそらく自分の顔も鏡でも見ているように、きっと道子と同じように真っ赤になっているのだろう、と小唄は思った)
「……私、ずっと前から白川くんのことが好きだったんだ」
顔を真っ赤にしながらにっこりと笑って道子は言った。
道子の手は小さく震えていた。
小唄はなんて言っていいのかわからずに、思わず道子から視線を動かして、立派な松の木のある雨降りの庭を見た。
それから、少しして視線を居間の中に戻して、柱時計を見て、それから道子のことをもう一度見た。
道子はそこにいて、さっきとまったく変わらない様子で、まっすぐな目を見て、小唄のことをじっと見つめていた。
「白川くん。白川くんの答えを聞かせて」と道子は言った。
答えとはもちろん、さっきの道子の将来の夢の試験の答えではなくて、今、この場で行われている突然の(まるでさっきの雨のような)道子の小唄に対する恋の告白に対する答えだった。
小唄は道子に向かって「……僕は」と自分の道子の恋の告白に対する自分の正直な気持ちの答えを言った。
すると道子は静かにその目から、美しいとても綺麗な涙を一粒だけ、本当に自然に、……流した。
「そろそろ帰るよ。雨宿りさせてくれてありがとう。日下部さん」
柱時計を見て、小唄は言った。
「うん。わかった」
道子は言う。
道子は小唄のことを玄関先の門のところまで見送ってくれた。
二人が家の外に出ると、雨は止んでいた。
強い雨だったけど、雨が降っていたのはほんの、一、二時間くらいの時間だけだった。
「さようなら、日下部さん」と小唄は言った。
「うん。さようなら。……白川くん」とにっこりと笑って道子は言った。
その日の夜、小唄はずっと昔の懐かしい夢を見た。
「ねえ、大丈夫?」
そう言って、小唄は転んで泣いている一人の女の子に手を差し出した。
きっとお気に入りの着物だったのだろう。
転んで土で汚れてしまったその真っ白な綺麗な花の刺繍のしてある着物を見て、女の子は泣いていた。
女の子は涙に滲んだ赤い目をして小唄のことをじっと見つめていた。
でも少しすると、女の子は何事もなかったかのように、ぱっと一人で立ち上がって、そのままからからという赤い下駄の足音をさせて、ぼんやりと光る夏のお祭りの淡い光の中に、一人で消えていってしまった。
雨の降っている、夜の闇の中には小唄一人が残される。
どーん、と言う遠くで花火の咲く音が聞こえた。
夜の闇をいろんな色に染める一瞬の光。
その光の中で、一人佇んでいる幼い小学生時代の自分のことを思い出したところで小唄は夢から目覚めた。
布団の中でしばらくの間、小唄はぼんやりとしながら、自分の手を見つめた。
あの日は確か雨が降っていた。
静かな雨。
その雨の中で僕はあの女の子と出会ったのだと、小唄は思い出した。
お祭りの日の夜。
あの日も、昨日と同じように、お祭りの途中から、突然の雨が降り出したんだっけ……。
そんなことを小唄は思った。
そっと、ふれあうように 終わり