後編
アイラは、『厄介ごとを持ち込んだ』と少しも非難はしなかった。内心どうであったかわからないが。
村から持ち出せた金貨10枚も、十分だったか、とても自信はない。あの恐ろしい、村1つを一体で滅ぼせてしまえるような魔物を殺すのに、十分な報酬か、わからないのだ。死んだら金貨だって無意味なのだから。
「ウェルゼ!」
「わん!」
アイラが呼ぶと、家の奥から大型の犬が現れた。体高は腰ほど、黒々とした目は利口そうで、しっかりした足取りからもよい猟犬とわかる。
「犬……いたんだ」
「奥にな。爺さまの相棒だ。『静かに』と命じておけば、目の前でベヒモスが吠えても黙ってる」
なにかがおかしかったのか、アイラはきししと笑った。
ロイを竈の側に座らせると、引き出しから雑多なものを取り出し、机にぶちまけていく。乾燥した葉。花に実。なにかの粉末。動物の骨や爪、容器に入った脂。
「じき、夜になる。魔物が力を増す頃だ。その間、小屋に踏み込まれないように香を焚く」
アイラは手早く素材を選び、すり鉢に放り込むと、すり潰し、脂と混ぜる。途中、なにか呪文を唱えていた。
「『バカ者のパセリ』をとってくれ」
「バカ者……?」
「ああ、『トリカブト』だ。葉っぱがパセリに似てるんだよ」
ごくっと喉が鳴る。ロイも知っているような猛毒だ。
作った丸薬を竃に放り込むと、鼻が曲がりそうな匂いがたちこめる。眉間に皺が寄った。
「……すげぇ臭い。こんなので大丈夫なの?」
「いや気休めだ。手下の狼は入って来れないだろうが、人狼は強くてでかくて頭がいい。夜が有利だと思えば来るだろう」
「それじゃ」
「だから見張れ。こっちは目がギンギンで待ち構えてるって向こうにわかれば、一晩くらいどうにかなる。人狼なんて連れてくるお前がわるい」
要は神様に祈れということか。
ロイは本当に祈りたくなった。神様、生かして帰して下さい。
――これで、生かして、帰してください。
頭に言葉が過ぎった。自分ではない誰かの、震えるような声。
ロイは戸惑う。
「おまえ」
アイラの言葉で我に返った。
「脱げ」
「え」
「とりあえず上だけでいい。人狼に執着されてるなら、体にしるしがあるかもしれない」
破れかぶれの気持ちで、言われた通りにした。
アイラはロイの背中を見て、唸る。
「…………」
「どうか、した?」
「いや、なんでもない」
やがて夜がやってきた。2人は竃の火を絶やさず、再び小屋を囲う狼らと対峙する。
獣たちには動きがなかった。まるで小屋に向かってひれ伏すように、獣たちは不気味なほど行儀よく、待っていた。
アイラは時折、『下へ』降りた。小屋には地下室があったのだ。
少しだけこもり、上がってくるときは手に鈍く光る金属片を持っている。指先ほどの円錐型で、素材はおそらく銀。不気味なほど正確に、どれも同じ形に鋳出されていた。
机の上で、アイラは同じくらいの小さな金属筒と、その円錐型を、組み合わせていく。
窓から差し込む月明かりで、なにかの儀式のようだった。
「それは」
尋ねるロイに、アイラは無言で立ちあがる。
窓から、一羽の鳥が入ってきた。
「――手紙だ。おまえの村の近くにいる、魔女からだ」
全滅したと思われた村だが、どうやら村はずれの小屋は無事だったらしい。他にも生き残りはいるそうだ。
「よかった……」
ロイはほっと呟いた。
「魔物の退治屋に警告を送っているようだな。――っ」
手紙を読むアイラに、かすかに息を呑む気配があった。
「村、今は魔女にピリピリしてて。正直、いつ村人があの魔女様を殺しにいってもおかしくないくらいだったから――」
どこも同じだからこそ、異様な技能を持つアイラもこうして隠れ住んでいるのだろうが。
背を向けたまま、娘は手紙を丁寧に畳んだ。
「そう言ったか?」
「え?」
「最初、村が襲われた経緯を聞いたとき、おまえはそう話したか?」
ロイは顎に手を添えた。
「いや、たぶん、違うと思うけど……村を壊したのは人狼だろう? 魔女狩りは関係ない」
アイラは小さく呟く。
「そうだな」
ロイは言った。
「あなたみたいに、強くて、特別な力があれば、きっと僕のように怯えて逃げずに……強く生きられるのでしょうね」
アイラは作業に戻りながら、ほんの少し肩をすくめた。
「どうかな。嫌なことばかりだよ」
その時だけ、少女はまるで疲れた老婆のように見えた。
どこか不安な夜だった。眠っていいと言われたので、ロイは少しだけ目を閉じる。
狼になって、村を襲う夢を見た。
◆
無事に朝を迎え、アイラは早くから家を出る。『獲物を見付けた』と言っていた。
ほどなくして、また例の『どぉん』という音が響く。嫌な音だ。なぜだか身がすくんでしまう。
おそらく魔法なのだろう。
ロイは村から徴兵されて向かった戦場で、魔法使いが大きな爆発を起こすのを見たことがあった。
「終わった」
アイラは、短く言って小屋に戻ってきた。肩から、長いベルトで彼女が『ムラタ』と呼んだ杖を吊っている。
「おれは、少し外へ出る。今日は客が来るから、念のため出迎えにいきたい。お前も、来るか」
肯く。小屋で1人になりたくない。
なぜか、アイラは一度は渡した金貨と袋を突き返した。
「いらん」
「でも」
「村に生き残りがいるなら、彼らのために使え」
青い瞳は、有無を言わさぬほどに強かった。押しつけられるように袋を受けとった後、ロイはアイラ、そして大型犬と共に小屋を出る。
確かに、あれほどいた狼の声も、影も、まるでなくなっていた。
「昨日焚いた香には、弱い獣を眠らせる効果もある。動かないところを、撃った」
「……すごいね」
「でかい獣には効かないけどな」
ロイは少し妙に思った。アイラは、人狼も、配下の狼ももういないというが、少しは様子を見た方がよかったのではないだろうか。
2人は落ち葉を踏みながら、坂を下り続ける。
「雪も降りそうだしな」
前を見ると、こちらに登ってくる人影があった。
「薬屋さん――」
それは、ロイに『灰の森の狩人』を教えてくれた薬屋だった。杖をつきながらも、老爺はしっかりした足取りで落ち葉の坂を上ってくる。
アイラが足を止めた。
「なあ、思い出せないか」
青い目は、ロイが持つ袋を見やる。
「その金貨の袋、どうやって手に入れた?」
ロイは眉をひそめる。耳元で獣のうなりがした気がした。
ひどい空腹と、喉の渇きを感じる。
「村が襲われてから、一晩と少し。人の味を知った人狼は、一日も生き物を食わないと飢える。昨日の昼、熊肉を食ったから、しばらく保っただろうが――」
アイラは言った。
「人狼は呪痕生物といってな、人に化けている間は、本当に人と見分けがつかない。というより、人そのものなんだ」
呪痕とは、文字通り、呪いの痕跡のことだという。
「魔法を受けて、体に呪いを刻まれる者もいる。あるいは人として生まれながらも、そうした呪痕を生まれつき持っている者もいる。共通しているのは、人狼は『発症』してなる魔物ということだ。呪いによって、普通の男がある日を境に……」
息が荒くなる。口が勝手に開いていく。
「発症したすぐ後は、記憶があいまいになる者もいる。中には、人狼として動いていた時の記憶が、ごっそりない者も」
「どういう……こと?」
「昨日、おれはお前の体を調べた。魔法の素養がないと気づかないだろうが、お前には呪痕があった」
村が襲われた明け方を思い出す。自分は、確かに、村を襲う人狼を見た。
そう思う。
だがそれは、村人の目に映った自分自身の姿ではなかっただろうか。
――これで、生かして、返してください。
村人の一人は、そう言って金貨の袋を差し出した。
「呪痕には、魔法で封じられようとした跡があった。おまえの妻は、お前の村にいた魔女が育て親だったようだな」
記憶が甦る。村では、魔女狩りが起こっていた。戦争や疫病で、みんな参っていた。
「……妻は、村に薬を配った。でも、治らないヤツも出て、逆恨みされて……」
あの朝。
見張りから帰ると、妻が殴られていた。怒りが昂ぶり、妻が――魔女の弟子が封じんとしていた力が溢れ出す。軽く突き飛ばした男は、棚に頭をぶつけ、首を折って死んだ。
それが妻を悪い魔女だと証明することになってしまった。
半狂乱になった村人は、ロイの家を襲い、妻は死ぬ。人狼の発症を抑えていたものは何一つとしてなくなった。
「僕が……人狼?」
「爺さまは言った。撃っていいのは、獣だけだと。だからおまえの正体を、確かめねばならなかった」
辛そうな口調。青い目に映るのは、黒い体毛を生やした、直立した狼。
人狼だ。
(僕が――)
それは昨日の朝、村を襲った怪物と同じ姿だった。
犬が吠えて、向かってくる。蹴り上げようと、本能の命じるままにやろうとして、アイラが『杖』を向けているのに気づいた。
今度は、無音だった。
地面が大きくえぐれて、なくなる。落ち葉で見えづらかったが、崖の近くだったようだ。崖下に転落する。
赤子の首を落とせそうな爪で崖をえぐり、速度を落とし、着地。両手両足で地面を掴み、元の坂道を登った。
アイラも、薬屋も、犬も、何もいなくなっていた。
本能のまま、鼻を鳴らす。
「どこ――」
ぱっと地面で落ち葉がはじけた。
矢でもない。魔法でもない。『なにか』が遠くから撃ち出されてくる。
またしても無音で、発射音で相手の位置を気取ることもできない。どうやら『どぉん』という轟音は、魔法か何かの作用でひどく小さくすることもできるようだ。
(魔法――)
人狼、魔物の本能で、魔法の気配を探る。
古来、人類が魔物と相対するのに、魔法は不可欠だった。強大な魔物は治癒にも優れる。治癒力を上回る肉体の損傷を与えるには、魔法の力が必要だった。
それは諸刃の剣だった。
強力な魔法を使えば、魔力で気取られる。魔法自体の飛翔速度も矢よりは遅く、射程も短い。
ゆえに魔物と人間は、目に見える範囲で戦うのが常だった。そう、兵士だった頃にロイは教わった。
だが、アイラの位置がわからない。魔法の気配がない。魔法ではない何かで、あの杖から金属片を撃ち出している。
それでも、魔物の力が、気持ちを昂ぶらせた。ワクワクした。村人の血の味を思い出す。
妻を奪った――自分を好いてくれ、人として生かそうとした妻を殺すなんて、なんてバカな連中だろう! これからどれだけの復讐をしてやれるのか、楽しみで仕方がなかった。
「撃ってみろ! 撃たれたところで……!」
道から外れ、落ち葉ごとぬかるみになっているところに、小さな足跡があった。撃たれたおおよその方向とも一致する。
手足で地面を掴みながら、駆け、足跡に近づく。距離をつめれば、狩人といえど敵ではない。
しかし、足跡は途中で途切れていた。
聞いたことがある。あえて足跡を残しつつ、その足跡を踏みながら退き、木や岩場に飛び込む。そうすると追手を間違った方向に誘導することができる――。
犬の声がした。振り返り、牙をむき出しにしたところで、樹上から金属音がした。
胸に、熱を感じた。
心臓。
異様に熱くて、すぐに冷たく感じる。怖いほどに冷たかった。
もうろうとするロイのところへ、落ち葉を踏む音がして、アイラがやってくる。
「魔物を殺すには、銀で心臓を壊す」
ロイは、昨日アイラが用意していた銀の金属片を思い出す。
灰がさらに焦げたような、いやな臭い。
「……それ、は」
「爺さまが使っていたものなんだ。爺さまは他の、遠い世界からやってきたらしい。おれとこいつを残して死んだ」
アイラは目を伏せ、先端から煙をたなびかせる『杖』を見やる。
魔物としての昂ぶりは去っていた。
「……こうするなら、昨日、僕を殺してしまえばよかったのに」
「本当に人狼なのか、救えないのか、確かめてみる必要があった。発症して日が浅いなら、もしかしたら……」
アイラは首を振った。
「おれの勝手だな。すまん、苦しませた。撃ったやつがどんなやつだったか、知っておきたかった」
意識が薄くなる。
苦しいし、怖いが、安堵もした。もう魔物として人を殺めることはなく、狼に追われることもない。無意識で、呪痕のことをうっすら感じていたのかも知れない。いつか人狼になると。狼が追ってくると。
付きまとっていた狼達も、人狼についてきていたにすぎない。追われていたのではなく、ロイが率いていたのだ。
「……金貨は」
「村の魔女に、渡して欲しい。娘を失って、辛いだろうから」
意識が薄れていく中で、妻の顔が過ぎった。
◆
アイラは、撃った人狼ロイを、丁重に山に葬った。
金貨は薬屋に託し、峠を1つ越えた魔女に届けることにした。
昨晩、その魔女から警告があったのだ。
村にいた弟子が、おそらく人狼を匿っていたと。村の惨劇はそいつの仕業で、今も逃げているから気をつけろ、と。
「囮に使うとは、ひどいお人です」
薬屋の老爺は目を細めて笑う。
アイラは、爺さまに習ったとおり、墓標に手を合わせた。育ての親の故郷と、同じ祈りのやり方という。
チキュウという場所からやってきた、転移者だった。森で獲物を追っているうちに、気づくとこの世界に来ていたと聞いている。
転移者は山でこっそりと暮らし、時折、頼まれて魔物を撃った。捨て子を拾って育てなければ、役目も、技術も、得物も、誰にも引き継がれなかっただろう。
「人狼は強い。おまえが送ってきた話だ、少しは働け」
「それはまあそうだ」
薬屋は肩を揺らした。
「……なあ」
アイラは育て親から引き継いだ得物――18年式村田銃を抱え座りながら、薬屋に問うた。
「なぜ、あいつの妻は人狼の呪痕を、本人や魔女に話さなかったんだろう」
「話せば、終わりだからですよ。魔女に話せば許さないでしょう。本人に伝えれば、きっと絶望してやけになるか、あの性格だと村を離れたでしょう」
理不尽な病に似て、人狼の呪痕は本人の非はなく現れる。
アイラは、人狼の呪痕に発症を遅らせる封印のほか、度重なる解呪、そして隠蔽が試みられた痕跡を見ていた。
「『いつか全てうまくいく』――そんな可能性にかけて、話すのを先延ばしにしていたのでしょう。気持ちはわかりますがね」
胸が重くなる話だった。
薬屋は立ちあがる。
「定めに抗うなら、逃げ切らねばいけません」
少し雪が降り出した。アイラは犬と一緒に立ちあがり、育て親と過ごした小屋へ向かう。
人はみんな何かから逃げているのかも知れない、とぼんやりと思った。
異世界の武器で魔物を狩る、自分も。