前編
荒い息が、すぐ耳元に聞こえた。
追われている。
ロイは落ち葉の敷き詰められた坂道を、懸命に登った。乱れた息は、自分のものか、追ってくる狼たちのものか、とっくにわからなくなっていた。
獣たちは哀れな青年を囲もうとして、左右に広がりながら追ってくる。もし上から見れば、巨大な顎がロイに食いつこうしているように映るだろう。
ガタガタと震えた。もつれる足を、とにかく前へ。
坂の終わりに日が差していた。古ぼけた小屋が日光を浴びて、苔むした屋根と、風雨で傷んだ壁を照り輝かせている。
軒先には、なにか巨大な獣の皮が吊されていた。熊だ、とロイは思った。
(狩人の家……!)
薬屋に教えてもらったとおりだ。
あそこに獣を狩ってくれる凄腕がいる。ただの獣ではない、魔獣といわれる恐ろしい存在さえ、その狩人は倒してくれるという。
狼の吠え声が、追い立てるように後ろから聞こえた。
視界の端、木々の陰を獣影が過ぎっていく。
落ち葉を巻き上げ、ほとんど四つん這いになりながら小屋へ急いだ。軒先に吊された熊皮が、両手を広げて威嚇するように揺れていた。
ロイは戸を叩きまくった。
「入れてくれ! 追われてるんだ!」
狼の声。
「たのむよ……」
たまらず、戸を押す。閂はかかっていなかった。
無礼を承知で転がり込む。
しんと静まり返った部屋は、かすかに香と薬草の匂いがした。机に出しっ放しの食器や、壁にかけられた外套に、生活を感じて、少し安堵する。
人がいる場所に逃げ込めた気がした。
途端、小屋の周りに狼たちの気配。足音と、うなり声。やはり耳元で鳴っているように恐ろしかった。
「誰だ」
小屋の奥から、小柄な人影が現れた。日に焼けて傷んだ茶髪に、乾いた印象の青い目。
髪の長さや声色から、かろうじて女とわかる。身長の割りに肩幅ががっしりして、声色も無愛想、もっといえば威圧的だった。
「おれの家に用か」
ロイははっと気づいた。威圧的で当たり前、自分は勝手に入ったのだ、と。
事情を説明したくても舌はもつれるばかり。
「助けてほしい! 魔物を狩る狩人なんだろ!? 狼に追われてて」
ただの狼じゃない。
「人狼なんだ」
女は眉をひそめた。下唇を突き出した表情は、やや幼い。まだ年若い、もしかすると少女といってもいい年代かもしれない。
「外に狼がいる。おまえが連れてきたのか」
女は壁にかけられた器具を一瞥する。
外套のほか、弓や剣。
うち、1つは見慣れない器具だった。
杖に似ていて、長さは子供の背丈ほど。大ざっぱにいえば、半分が木で、もう半分が黒光りする金属でできている。壁の武具はどれも年代物だったが、その器具だけは入念に掃除され、手入れされているように見えた。
少女は台に乗ってその『器具』をとると、窓へゆき先端を森へ向けた。
どぉん、と轟音が鳴り響く。
一頭の狼が倒れ、獣たちのうなり声は遠ざかっていった。
「話してみろ」
器具の鉄筒からは煙が上り、臭いがつんと鼻をつく。
少女が鉄筒のレバーを引くと、親指ほどの金属片がこぼれ、ちん、と涼やかな音を立てた。
ロイは呆然と、白い煙をたなびかせる鉄筒を見つめる。
「……それ、魔法?」
「『ムラタ』だ。大抵の問題を解決する。爺さまが言っていた」
少女は、ちらりと火の付いたままの竈を見返す。
「食っていくか。熊がとれたんだ」
そういえば、ずいぶん食べていない。部屋の匂いには、うまそうな、肉が煮える匂いも混じっている。
背を向ける娘。無防備に見える背中に、またどこからか狼のうなりが聞こえた気がした。
◆
少女は名前をアイラと名乗った。年は、生まれがわからないので定かでないが、おそらく16。ロイの5つも下と知り、唖然とした。
分厚い熊肉と山菜を煮込んだ鍋を2人で挟みながら、アイラとロイはそれぞれ事情を語る。
「おれは、爺さまに育てられた。爺さまは、色々なことを知っていて、狩りもうまかった。人付き合い以外はなんでもできた。それで、山で獣を狩ったり、たまに頼まれて魔物を殺したりして、暮らしてきた」
なるほど、とロイは思う。
しゃべり方も少しおかしいが、それは人里を離れて暮らす、変わり者の老人に育てられたためらしい。
領主の守りも届きにくい辺境では、魔物退治の専門家は恐ろしくもありがたい存在だ。
「ここには、去年流れてきた。でかい魔獣の噂を聞いて、殺す代わりにしばらく暮らしていい許可をもらった」
親近感が湧く。ロイの知り合いも、というか妻も、似た境遇だったからだ。
「どこも、似ている人がいますね」
ロイが言うと、アイラはぴたりと黙る。話すときはべらべらと際限なく喋り、聞くときはじっと最後まで聞く。
許された隙間に可能な限り言葉を挟み込もうとしているようで、厳格な育て親と、それでも矯正できなかった話し好きがうかがえた。
「……僕の村にも、そういう人がいました。村の外れに住んでるおばあさんで、『魔女』と呼ばれてて」
ずきりと胸が傷む。
「妻は、そのおばあさんに育てられた人でした。薬や魔法に心得があって、魔女に代わって村に役立っていたんです。一昨年、一緒になって。でも……」
本当にうまい料理だった。
分厚い熊肉からは芳醇な脂がしみ出て、とってきたらしい山菜と、村々から買ったという野菜に染み込んでいる。涙が出た。
「村は、魔物に襲われました。狼の魔物です。唯一の生き残りの僕を、逃げた僕を、ずっと付け狙っています」
「詳しく話せ」
ロイは目を伏せる。
惨劇を思い出すと、食べたもの戻しそうだった。
「……まだ、あまり、詳しくは思い出せないのですけど。僕は村の見回りを終えて、畑から帰ってきました。そうしたら、家から叫び声がして」
ぎゅっとズボンを握った。
「悪い予感はしていたんです。最近、戦争だったり、悪い病気が流行っているでしょう? それで、災厄は魔女が流行らせているなんて噂もあって、村中がピリピリしてて――」
ロイは頭を振った。その件は、今は関係がない。
(……そうだよな?)
なにか、なにかが引っかかっている。
頭に響くのは、獣のうなり声。
「どうした」
アイラに見据えられて、ロイは言った。
「いや。家の前に血まみれの妻が倒れていた。村の連中と一緒に。なんというか、言い争いとか、そういう感じじゃなくて。妻は、すごい力で無理矢理家から引きずり出されたようで、男達は……巨大な爪と牙で体を引き裂かれたようで」
明け方、村に遠吠えが響き渡った。
森から狼が次々と現れ、村を蹂躙する。妻を失い、呆然となっていたロイは、立ち向かうことさえ思い付かずに、逃げた。
血を浴びながら、爪や牙を振るう直立した狼――人狼の姿が記憶に焼き付いている。
村を振り返ると狼たちがロイを見つめていた。そして、ロイを追ってきた。
走って、走って、街道で流れの薬売りに出会う。
「そこで教えてもらったんです。腕のいい、魔物だって狩ってくれる、『灰の森の狩人』の話を」
黙って聞いていたアイラは、熊汁を少しだけすすった。
「頼みます、僕を――追ってくる人狼から、助けて下さい」
茶で一服してから、口を開く。
「『灰の森の狩人』は、爺さまのことだ。灰を集めて使うから、あだ名がついた。おれはあれほどうまくはできない」
「おじいさんは?」
「去年死んだ。骸は山に葬った」
そういう気はしていた。
「……あなたが跡継ぎを?」
「そういうことになる。魔物退治なら、組合だってあるだろう」
組合という組織があって、魔物退治を生業とする荒くれ達を対価と共に派遣してくれる。村々を襲う魔物の脅威は、悲劇ではあるが、ありふれたもので、依頼と対価の仕組みはある程度整備されていた。
ある程度は。
「……先にあなたの話を聞いたもので。それに人狼に追われた男なんて、どの村も入れてくれません」
この小屋を出て、また狼に襲われるのはイヤだ。
狼たちは、明らかにロイに執着している。なぜかはわからないが。おそらく、その親分である人狼も。
「お礼はします。子供ができた時のために、蓄えていたものが村にあります」
ロイは懐から金貨の入った袋を取り出し、机に置いた。少し血が沁み込んでいた。
狩人は金貨を一枚取ると、窓辺に寄り、珍しげに陽にかざす。
「人狼は、たまに獲物を逃がし、狩りを楽しむ。人に化けることもできる、知恵の高い魔物だ」
アイラは、じっと壁に掲げてある武具を見つめる。
「やってみよう。爺さまは、断らなかっただろう」