チョコレート・キス〜死神警視と氷の女王警部〜
昔から勉強も運動も出来る我ながら優秀な子供だった。
テストでは常に満点ではじめのうちは凄い凄い!ともてはやされていたがいつの日か常に満点であることに不正をしているのではないかと疑いの目が混じり、教師陣も我々のレベルでは君に教えることはないと困ったような笑みを浮かべながらの実質的拒絶に心は次第に冷めていき手を付けなくなっていった。
運動神経も良く球技も陸上も平均値以上の成績を修めるもこれもまた勉強同様周囲の扱いから手を付けなくなっていった。
だがこの肉体も頭脳も自分が想像するよりも優秀であったため、ぱらぱらと教科書を捲るだけで答えを導き出し見ただけで動きを完璧に再現できるようにもなり、いつしかその類まれなる自分の才能を恨むようにさえなった。
まだ何とか救いがあるのではないかと期待半分諦め半分日本トップの大学に進学したが結局変わることなく退屈な時間を過ごし、進路も大学内の掲示板でたまたま見かけたポスターを見て警察官への道を進んだ。
拳銃を扱ったり爆弾処理の方法を教わったり日常では中々お目にかかることが出来ない出来事に男としてのロマンがくすぐられたがそれも一瞬で、このまま惰性でこの場にいるかそれともまた刺激を求めてここを出ていくか悩んでいたある日、俺は運命の出会いを果たした。
「絶対、絶対!あんたなんかに負けないから!その首洗って待ってろ!」
身長も俺と5㎝程しか変わらない目元のほくろがセクシーで顔立ちも可愛らしいのにいつも眉間にしわを寄せて何かと対抗心を向けてくる万年次席の女はそう言って俺を睨みつけると1人食堂を後にし、この光景を見ていた周囲の人間も何事かとざわつき始める。
「面と向かっての宣戦布告は今日が初めてじゃない?」
目の前でニヤニヤと笑みを浮かべるこの男も女にモテたい!という理由で警察官になった万年3位の変わり者であり、変わり者同士気が合うのか気づけば行動を共にして今では悪友と呼べる存在になっていた。
いつもならにやけ面にビンタでもかましているのだが、それすらも気にならない程俺の中で激情が駆け抜けていく。
「・・・え、どうしたの?」
「・・・ぃ」
「は?」
胸を抑えて固まる俺の異常に気付いて悪友も流石に心配したのか声をかけた。
「こんな気持ち、初めてだ」
「はあ?」
今までどんなに可愛かろうが美人だろうが夜を共にしてもこんなに心を鷲掴みにされることなんて一度もなかった。
あの悔しそうに顰められた眉にいつか絶対にお前の首を獲ってやるという熱で燃え盛る真っすぐな瞳に俺は完全に心を奪われてしまった。
「俺———あの女に惚れた!」
「今回の事件も管理官の鶴の一声であっという間に事件解決しちゃいましたね」
捜査一課に配属されてからまだ日の浅い若手刑事の一言に周囲の先輩刑事達が勢いよく振り返り慌ててその口を抑え込んだ。
「馬鹿!その話はするなっつっただろうが!」
「あの人の耳に入ったらどうする!?」
「地雷だって言っただろ!?」
「誰が誰の地雷だって?」
その場の温度を一瞬で氷点下にしてしまう恐ろしく低い声に廊下にいた関係ない者達まで動きを止めてしまった。
振り返るといつもと寸分変わらない眉間にしわを寄せ表情筋をピクリとも動かさない無表情の女性警官、氷室小春が書類片手に仁王立ちしていて、その姿を視界に入れた瞬間どんな凶悪犯にも立ち向かう強面の刑事達がヒッと悲鳴を上げてしまった。
「佐々木、報告」
「はい!・・・え、俺ですか!?」
「お前以外に佐々木がいるのか?」
「そ、そりゃあ警視庁内に探せば何人かいるかと思われますが・・・」
「そんなことはどうだっていい。それより、誰が、誰の、地雷だって?」
無表情ではあるがその顔立ちは整っている氷室が言葉を区切って一歩一歩迫ってくるごとに佐々木は緊張と動機で顔を真っ赤にさせ、その光景に羨望と嫉妬に塗れた視線がこれでもかというほど集中する。見る角度によっては人の行きかう往来のど真ん中で映画のワンシーンのごとくキスシーンを繰り広げられているのかと見間違うその光景と顔の近さに悲鳴を上げそうになった時、心地良い低音ボイスがまた違った緊張感を走らせた。
「お、お疲れ様です!愛星管理官!」
「お疲れ様です。このような場所で何をされていたんですか?」
きゅるんとした口元に笑顔の似合う甘い顔立ち、スーツの上からでも分かるどこかの管理職と違って有事の際動けるようにと鍛え上げられた立っているだけで色気を纏わせる肉体の持ち主である愛星優一郎警視がにこやかに立っていた。
次の瞬間氷室を除くその場にいた警官達が一斉に敬礼をし、氷室は心底嫌そうな表情を浮かべた。
冷や汗をかき続ける警察官をよそに浮かべた笑みを崩さないまま目の前にいる佐々木を見つめ、コンマ1秒の視線で交わされた言葉を正しく理解した佐々木はすぐさまその場をどいて氷室への道を作った。
「先程の質問ですがあなたに答えてもらいましょうか」
「質問?」
「ええ。このような人通りがある場所で一体何をされていたのでしょうか?」
言葉の端々がいやに強調された質問に何を言っているんだこいつは、と表情だけで語る氷室に愛星が近づく。
「まさかと思いますが、キス、などされていませんよね?」
書類を持っていた右手を掴まれたと思った時には氷室の体は壁に押し付けられていて、身動きをとろうにも両足の間には愛星の片足があり左頬には顔を背けることを許さないと言わんばかりに右手が添えられている。
「リ、リアル壁ドン・・・」
上がる悲鳴の中で誰かがポツリと呟いた言葉などお構いなしに愛星はゆっくりと顔を近づけていく。
「答えてください。氷室警部」
同性でもゾクッとする色気を帯びた甘い声は最後まで彼女の名前を呼べず悲鳴に変わりわずかな隙を作るのに十分だった。
警部と言われる直前氷室はパンプスで思いっきりつま先を踏みつけてよろめいたところで今度は鳩尾に一発拳をぶち込み、目の前で蹲る男の見下ろして舌打ちをした。
目の前で起きたセクハラなのかパワハラなのか分からない事象にどちらの肩を持つべきか分からないと目を白黒させていたがいち早く正気に戻った佐々木を筆頭に続々と愛星に駆け寄る。
「氷室警部!管理官相手に何を!?」
「管理官だろうが何だろうが関係ない。セクハラ野郎には鉄槌を下すまでのこと」
「氷室警部!?」
「あ、ま、まって・・・だい、じょうぶ、だから」
そう言ってふらふらと立ち上がった愛星の目には涙が浮かんでいてその痛さが尋常でないことを物語っている。
「相変わらず見事な正拳突きでいらっしゃる」
「お褒めに預かり光栄だ」
マジでいてぇ、と鳩尾を摩る目の前の男に今度は氷室から歩み寄りその顔面に張り付けるかの如く持っていた書類を突き付けた。
「え、何?ラブレター?」
「今日提出の報告書!」
先程とは打って変わって敬語の外れたフランクな管理官にも立場が上であるはずの管理官に対して全く敬語を使わない自身の上司にも驚きを隠せない若手をよそに2人はヒートアップしていく。
「ちょ、そんなに近いと見えないんだけど」
「ならさっさと受け取って」
「え~これはちょっと受け取れないでしょ」
「・・・もういい!」
時間の無駄だと判断した氷室が彼のデスクがある捜査一課に戻ろうと踵を返した次の瞬間、彼女の体は後ろからすっぽりと抱きしめられた。またしても上がった悲鳴と今自分がどんな状況にいるのかを一瞬で理解し咄嗟に身体が反応しそうになったが耳元で彼が囁いた言葉に動きが止まった。
「まぁまぁ落ち着いてよ・・・ほらここ。ここ見て」
「ここ?」
書類を持つ右手に男らしい右手が重なり、女性らしい小さな柔らかい左手をゆっくり書類に誘導してある一点を指した。
「・・・萩原はじめ?」
「そ。んで、容疑者の名前は?」
「荻原はじ・・・あ」
「せいか~い。萩と荻とが違うので~やりなおし」
あの一瞬のどこで見つけたのか誤字をわざとらしく教えて東京オリンピックで話題になった言葉同様区切りつつ再提出を囁くこのいけ好かない男にとうとう我慢できず氷室は怒りに満ちた声にならない声を上げた。
「あ~あ。今日も氷の女王はお怒りだよ。お前も懲りないね」
「懲りるもなにも生後間もない子猫が短い毛を必死に逆立てて威嚇しているみたいで可愛らしいじゃないか」
捜査一課の隅にある警視室のブラインドから覗き見る氷室は後ろに般若を背負いその姿に凶悪犯相手にも百戦錬磨の刑事達が小鹿の如く震えていて、元凶の悪友である早乙女廉也警部は大きくため息をついてデスクを振り返ると元凶はデスクに頬杖をつき早乙女同様氷室を見ていて楽しそうに咥えているポッキーを上下に揺らしている。
大の甘党である愛星のカギのかかる引き出しには常にお菓子が常備されていてこの一室にいるときは必ずと言っていいほど口をもぐもぐさせており、今の笑顔と相まっておもちゃを手にした3歳児にしか見えない。いや、3歳児にも失礼かもしれない。
出会った当初は人好きする笑みを浮かべていてもその瞳には諦めやつまらないといった色が見えていたが、警察学校の食堂で彼女に宣戦布告されて以来嬉々としているこいつに何度ため息をついたことだろう。
あの頃から時代は進み、気づけば53歳となった今でも好きな女にちょっかいをかけ続けるのを生きがいにしている男と常日頃沈着冷静でその様から氷の女王の称号を得たにも関わらず3歳児の前では冷静でいられなく女に振り回されているのがこの男の警察学校時代から変わらない日常としてあり続けている。
「失礼します。先程の報告書です」
部屋に入ってすぐ視線が合ったが特に言葉を交わすことなく、今しがた終えた書類を仮にも上司でもある男のデスクに叩きつけた氷室の姿とそんな彼女のことに何も言うことなく一瞬だけ動かした視線だけで誤字を確認し何が嬉しいのかにこにこと笑みを浮かべる愛星にまたしても大きくため息をついた。
「お前らいい加減職場でいちゃつくのはやめろよな。毎回毎回苦情が俺んところにくるんだぞ」
「いちゃついてない!」
「いちゃついてないってお前、壁ドンにバックハグって世の乙女たちが胸キュンするのに十分なシチュエーションでしょうが」
「胸キュンもしない!」
「俺はいつでもウェルカムなんだけど~。というかそもそも」
そう言って立ち上がった愛星の空気が変わったことにいち早く察した早乙女はブラインドを素早く閉めて外からの視線をシャットアウトしたが自身の視界はシャットアウト出来ず、咥えていたポッキーを取った手とは逆の手で氷室の後頭部を掴み顔を寄せている光景をまじまじと見せつけられてしまった。
「佐々木とキスまがいなことをしているのがいけないんだと思うんだけど」
低くて甘いだけじゃなく男の果てしなく深い嫉妬や執着がどっぷりと混じった殺気にも近い声を一身に浴びている彼女はさぞ初心な生娘よろしくリンゴの様に顔を真っ赤にしているに違いないと思ったがそんな訳もなくただただ力強い視線で男を射抜いていた。
「仮にもし佐々木とそういう関係だったとしても人の往来でいちゃつくとかありえないし、そもそも私はあんたを超えるためにここにいるのであって色恋をするためじゃない」
キスはしていない。額を合わせているだけ。紡がれる言葉も好きだの愛してるだの好意を伝えるものではない。
それなのにイケナイ現場を見せつけられているようで毎度毎度こっちが気恥ずかしくなってしまうのだが当の本人達はそれで納得したらしい。
愛星が手を放すと用は済んだとばかりに氷室は踵を返そうとしたがすぐさま呼び止められそして口元の異変に気付く。
「それあげる」
口の中に広がる甘いチョコレートにほんの僅か考えてから自ら手に取り静かに食べ進め、食べ終わると早乙女にサボってないで仕事をしろと一言言ってから部屋を出ていった。
お前が来たから仕事を中断せざるを得なかっただけだしお前が来なければ今頃交通課のお姉ちゃん達と仲良くランチしているはずだったしというかそもそも同期の俺に挨拶は無しかと言いたいことは山ほどあったが、結局言葉にはならず深いため息として吐き出すしかなかった。
再びブラインドを開けて氷室の姿を確認すると最近入った若手刑事に何かを尋ねられているのか資料を見ながら何かを呟いている。その唇には微かだか先程まで口にしていたチョコレートが付いており、本当は女の子らしく甘い物が大好きなのに男社会にいる以上舐められないようにするためと今でも苦手な煙草を口にする彼女のささやかなひと時を与えるためなのか、それともいつも自分が口にしている好物を敢えてつけさせることで女に餓えた狼共へのけん制を図ったのかは分からないが少なくともここにはバックに死神が付いている女に手を出す勇者はいない。
「壁ドンにバックハグに間接キス・・・氷の女王に白馬の王子様の求愛は届いていないぞ」
「それでいいんだよ。だって———俺が氷室小春を愛しているからな」
そう言って氷室を見つめる愛星の瞳はこれ以上にない劣情で濡れきっていて、これ以上巻き込まれてなるものかと早乙女は早々に部屋を出た。
男社会で生き残るために磨いた手腕で今や全国トップの検挙率を誇る氷の女王と警察官僚だろうが国の重鎮であろうが犯罪に手を染めた者は誰であろうと完膚なきまでに叩き潰して社会的死を与える死神に今日も警視庁は巻き込まれていく———。