感じる世界
0はいつものように、街の中で奇妙に微笑みながら歩いていた。小さなリンゴが手に握られているが、どれだけ力を入れてもその実は潰れない。
「うーん、君も強いね。僕の力が及ばないなんて、すごいな。壊れないんだもん。どうしてだろう、君の中にある何かが僕を拒んでるみたいだ」
そう呟きながら、0は精神科の診察室に向かった。扉を開けた瞬間、そこにいる全員がわずかに反応し、彼の存在に嫌悪を示す。
目を合わせないようにする者、急いで他の場所へ目を逸らす者、無理に笑顔を作る者…すべてが彼を避けようとしていることに、0は全く気づいていない。
受付の女性は顔を引きつらせながらも、無理ににっこりと微笑んだ。
「こんにちは、0さん。お待ちしていました」
0はその笑顔に対しても、当然のように無反応で、ただ一歩前へ進んだ。
「君も僕を愛してるんだね。だからこんな笑顔を見せてくれてるんでしょ?」
受付は答えられず、ただカルテを手渡し、診察室へと案内した。
診察室に入ると、カウンセラーが待っていた。彼はその笑顔を持ちながらも、目に疲れと憂鬱が見え隠れしている。0はそんなカウンセラーの顔をじっと見つめ、ゆっくりと話し始めた。
「ねえ、先生。僕、今日も楽しいんだ。だって、みんなが僕を見てくれてるからね」
カウンセラーは穏やかに頷いたが、その目は隠しきれない警戒心を持っていた。
「今日はどんなことを感じていましたか、0さん?」
「感じたって…君、何言ってるんだ?僕はいつでも感じてるよ。だって、感じるっていうのは、こうやって心を開けばいいんだろ?だって心の中にはみんながいるから」
カウンセラーは少しだけ顔をしかめ、手元のノートに何かを書き留めながら尋ねた。
「みんながいる、とはどういう意味ですか?」
0は目を輝かせ、笑いながら答えた。
「君も知ってるだろう?僕の中には、いろんな人たちがいるんだ。あ、でも僕一人じゃないよ。僕はね、たくさんの“僕”を持ってるんだよ。だから、いつだって心の中に声が響いてるんだ」
その言葉に、カウンセラーは少し息を呑んだ。だが、すぐに冷静を取り戻し、穏やかに話しかけた。
「0さん、その声はどこから来ると思いますか?」
0はにやりと笑って、カウンセラーをじっと見つめた。
「それはね、君が感じていることを僕が知っているからだよ。君の中にも、僕がいるんだよね。だから僕は君のことを知っているし、君も僕を知っているんだ」
カウンセラーはその目に一瞬怖気づき、少し後ろに体を引いた。しかし0はそれに気づかず、次の瞬間、リンゴを手に取ってゆっくりと皮を剥き始めた。
「これ、君にもあげるよ。だって、君だって僕の一部だからね。ほら、食べてみなよ。僕が作ったリンゴだよ」
その言葉にカウンセラーは思わず一歩後退し、心の中で警戒を強めた。0の狂気が、目の前で明らかになりつつあった。
「僕はね、どんなことでもできるんだよ。だって、世界が僕を中心に回ってるんだから。誰もが僕を必要としてる。だから、僕がいないと困るんだ」
カウンセラーは静かに言葉を選びながら、0に答えた。
「0さん、それは…少し自分を過大評価しているかもしれませんね。僕たちが話している今、君が感じている世界は、もしかすると現実とは少し違うかもしれません」
「違う?違うのは君の方だよ!」
0は突然、声を張り上げ、カウンセラーを睨みつけた。目の奥に、まるで何かが暴れ回っているかのような狂気が見え隠れしている。
「君が知らないだけなんだよ!僕が言ったこと、全部本当だよ!君だって、心の中で僕を必要としてるんだろ?みんな、僕を待ってるんだ!」
その声は激しく、部屋の中に反響し、カウンセラーの耳元に響いた。その瞬間、カウンセラーは背筋を震わせ、冷や汗が流れた。
「0さん…少し落ち着いて…」
だが0はその言葉にも反応せず、ただ大きな笑顔を浮かべながらリンゴを齧った。
「おいしいよ。君も食べたらいい。ほら、早く。僕がこうやって食べてるんだから、君も感じてるんだよ、全部」
その言葉の意味を理解する間もなく、カウンセラーは震える手を無意識に握り締め、必死に心を落ち着けようとした。
「僕がいないと、世界は回らないよ。誰もが僕を必要としてるんだ。だって、僕がいなければ、君も…君も壊れてしまうだろう?」
その言葉が部屋を支配する。0の狂気は、すでにカウンセラーを包み込んでいた。




