市場での独り言
0は街の小さな市場に足を踏み入れた。
野菜や果物が並ぶ露店が立ち並び、客たちが賑やかに声を交わしている。
しかし、0が近づくにつれて、その賑やかさは次第に薄れていく。
周囲の人々は視線を泳がせながら、さりげなく距離を取る。露店の店主たちも、声を潜めて品物を並べ直すふりをし始めた。
0はその様子を全く気にせず、ゆっくりと市場の中央を歩いた。
その姿は、まるで全てを支配している王のようでもあり、すべてに見放された亡霊のようでもあった。
「今日はね、リンゴがほしいんだよ。赤いリンゴ。赤っていいよね。だって、僕の血と同じ色だから。あ、でも僕、血を見たことないんだった。はは、まあいいや」
そう呟きながら、果物屋の前で足を止めた。
店主は気まずそうに視線を逸らし、手にしていたお釣り用の小銭をカウンターの上に並べるふりをしている。
0は笑顔で店主に話しかける。
「こんにちは、今日はね、リンゴを買いに来たんだ。君のリンゴ、すごくキレイだね!まるで君の心みたいだ」
店主はぎこちなく「ありがとうございます」とだけ言い、少し後ずさる。
0は棚から一つ、よく熟れた赤いリンゴを手に取る。
手のひらでころころと転がしながら、それに向かって話しかけた。
「君、ここにいたんだね。ずっと僕を待ってたんでしょ?偉いなあ。でも、大丈夫だよ。僕が君をちゃんと連れて帰るから」
その様子を見ていた近くの主婦たちはひそひそと囁き合う。
「またあの人だよ…」
「関わらない方がいいって。変な人だし、目を合わせたら何されるかわからない」
0はそんな囁きも気に留めず、店主に向き直る。
「これ、いただくよ。愛を詰めたお金も渡すね。僕はね、お金ってただの紙切れだと思うけど、君たちはそれが好きでしょ?だから、ほら、これで幸せになってよ」
そう言って、ポケットからくしゃくしゃになった千円札を取り出す。
受け取る店主の手がかすかに震えているのを見て、0は満足げに笑った。
「やっぱり君も僕を愛してるんだね。ほら、震えてる。嬉しいんだね?」
店主は返事をせず、早く立ち去ってほしそうに「ありがとうございました」とだけ呟いた。
リンゴを手にした0は、市場を後にする。
再び周囲の人々が、0の歩く先から散っていく。
それを見て、0は優しく呟いた。
「みんな、僕のために道を空けてくれてありがとう。なんて優しい人たちなんだろう。愛が溢れてるなあ。ねえ、君もそう思うよね?」
リンゴを握りしめ、楽しげに微笑む0。
リンゴは、彼の手の中で少しずつ指の跡がついていく。
その温もりが、0にとっては愛そのものだった。