音が消えた
その日、0は街の中で「音」を探していた。
「変だなあ、音が消えちゃった。いや、最初からなかったのかもしれない。でも確かに聞こえたんだよ、昨日は」
0は笑いながら、空気をつかむように手を動かした。
周囲を行き交う人々は、誰も0を気にしない。
無表情でただただ、目的地へと歩いていく。0はそれを見て、ふっと笑った。
「君たちも音がないんだね。すごいよ、みんなが無音の世界で動いてる」
そういって、0は道路の真ん中に立ち止まり、手を広げた。
車のクラクションが鳴ることもなく、運転手たちは黙々とブレーキを踏んで車を止める。その静けさの中で、0は空を見上げて呟いた。
「僕はね、音が好きなんだ。でもね、音が消えたら、それはそれでいいと思う。だってさ、静かな方が考えやすいし。ほら、今僕すごく考えてるよ」
0の足元に、猫が1匹寄ってきた。白と黒が混ざり合った毛並みをした猫で、0はしゃがみ込んでその猫の頭を撫でた。
「君はどう思う?音がなくても平気?」
猫は当然答えない。ただ目を細めて0を見つめている。
だが、0は満足気な顔をした。
「だよね、そうだよね。猫は音なんて気にしない。人間だけだよ、いちいち音に意味を持たせたがるのは。あれだ、言葉とか、音楽とか。全部いらないんだよ」
0は立ち上がると、猫を抱き上げた。
そして、そのまま歩き始める。
「君、名前がないんだろう?じゃあ0にしよう。僕の友達だもん、同じ名前がいいよね。君も0、僕も0。ふたりで0。なんだかいい響きだね」
猫を抱いたまま、0は人々の間をすり抜けて歩く。
街のどこもかしこも静まり返っていて、不気味なほどだった。
誰も話さない、車の音もしない、風の音すら消えている。0はそれを「美しい」と感じていた。
やがて広場にたどり着くと、0は猫を地面に下ろした。
そして、両手を広げ、大声で叫んだ。
「見てよ、この世界!音がないんだよ!でもほら、僕が話せば音が生まれる。僕ってすごいでしょ?」
当然、誰も答えない。広場の人々はまるで壊れた人形のように同じ動きを繰り返すだけ。
「ねえ、聞こえる?僕の声が聞こえるなら、僕を見てよ。見て、認めて、愛して!」
言葉を投げかけても、誰も振り向かない。0は笑った。楽しそうに、愉快そうに。
「だよね、君たちは0だもんね。僕も0。0には0しか見えないのさ。でもそれでいいんだ。愛してるよ、この世界。だから君たちも僕を愛してくれるでしょ?」
広場の真ん中で、0は踊り始めた。空気にリズムを刻むように足を動かし、手を振り、無音の世界に自分だけの「音」を作り出す。猫がそれを見上げていた。
そして、不意に猫が鳴いた。
「にゃあ」
その瞬間、世界に音が戻った。車のクラクション、人々の声、鳥のさえずり、風の音。
0は立ち止まり、目を見開いて言った。
「君が音を持ってたの?すごいね、0のくせに!」
猫は答えない。ただ、0をじっと見つめていた。その目には、何かを悟ったような、あるいは何も考えていないような空虚さがあった。