これは偶然などではなく必然の断罪
誤字報告ありがとうございます!誤字多くてとんでもなくお恥ずかしい限りですが、とてもありがたいです。
日もとっくに暮れて夜の帳がおりる頃、荘厳な城の奥にある王族の居住区の一室では今まさに緊急で国王一家と王弟一家が会合を行うところだった。
簡単に言えば家族会議なのだが、基本的には忠心厚い臣下にも内密にしなければならない国家機密の共有や王家の意向の大筋を決める大事な場であることには変わりはない。
参加するのは国王、王妃、側妃、王妃の子の第一王子、側妃の子の第二王子、その双子の妹の第一王女、王弟である公爵、そして王弟の娘の8人。
王弟にはもう一人息子がいるが、国外留学中のためこの場にはいない。
急遽開かれたこの会議に最初は訝し気にしていた側妃のエリノアや王弟ダグラスもことの次第を聞き、眉を顰めてことの発端である第一王子を見やった。
本日の議題となる不祥事のために上座に座る国王の対角、つまり最下座に座る第一王子―パトリックは不貞腐れたような顔をして視線を目の前のテーブルへと落としていた。
彼にとっては多少無理やりめとはいえちょっとした希望を通そうとしただけであり、ここまでの大ごとになるとは思ってもみなかったのだ。
しかし、そう思っているのは彼だけのことであり、他の王族はことの深刻さを理解していた。
ことの発端はパトリックが学園で一人の少女と出会ったことにある。
その少女、パンジーはある侯爵が遊びで手を付けた使用人の子ではあったが、正妻がとんでもなく寛容な女性だったことでその庶子を認めたこともあって一応侯爵家の令嬢として扱われている。
生まれたときから貴族としてのお世話を受けてちゃんと教育もされており、正妻や正妻腹の兄妹からいじめられて不遇な立場にある、というわけでもない。
生まれの割には真っ当な生活を送れている幸運な庶子である。
ただ教育を受けた甲斐なく淑女としては欠けたところがあるのが少々、いやだいぶ玉に瑕。
声を掛けられれば婚約者のいる男性であっても親し気に、それも親密な距離を取ることがしばしばあった。
ちなみに侯爵家が淑女教育を受けさせていたのはいずれ侯爵家の利になる政略結婚をさせるのも良し、そうでなくとも成績や素行が良ければ侍女や女官などの道を開いて生きていくことも可能であろうという正妻の打算と配慮だ。
つまりパンジーが侯爵家の庇護下にあるのは成人までのことであり、後は駒となるか手に職をもって自力で生きていくかしなければならない。
これは彼女の生みの親の使用人も承知しており、ちゃんと契約書として残されている内容でパンジーも言い聞かされていることのはずだった。
だから決して彼女可愛さに優遇していたなんてこともないのだが、そこのところを理解できるだけの知性が彼女に備わっていなかった。
彼女の立場をよく理解したうえで遊び程度で声をかける男子が多かったのも災いして、彼女は自分は万人に愛される特別な存在だと勘違いしていってしまった。
そうして自分を幸せにしてくれる人―この場合は金と権力でもって自分のわがままを際限なくずっと叶えてくれる人―を求めて次から次へと男子生徒と親しくなっていった。
まともな人が端から見れば男をとっかえひっかえする奔放でふしだらな令嬢と認識されていることには気が付いていない。
もう後の祭りとなってしまったが、侯爵夫人も今日までに何度自身の下した決断を悔いていたことだろう。
母である使用人もパンジーの醜聞を聞くたびに侯爵家へと土下座する勢いで謝り倒していたが、ここまで来てしまえばこの日までに矯正、もしくは切り捨てる決断をできなかった侯爵家も同罪であろう。
これがただの男子生徒相手であればほどほどの所でほどよい家柄の男性を宛てがってしまえてまだよかったのだろう。
しかし、同学年に第一王子であるパトリックと一学年下には第二王子のハロルドが在籍していたのが運の尽き。
特にパトリックは他の貴族令嬢にはない彼女の天真爛漫さと、常にない身体的接触の不慣れさにものの数秒で陥落した。
本当に秒殺だった。
思春期特有の欲を伴う初恋にのぼせ上ったパトリックと、学園では最高位である王族、それも第一王子をものにして贅沢に一生遊び暮らせるというパンジーの怠惰的な欲望がしっかりと合わさってしまったからさあ大変。
浮かれあがって周りが見えていない二人はあっという間に恋を盛り上がらせ、二人の世界へと没頭した。
そして問題は浮上する。
そもそもパトリックには父である国王がとりなした婚約者がいる。
この国の宰相にして筆頭公爵の娘、マティルダ・カニング。
彼女はとても優秀であり勉学はもちろんいずれ王族に嫁ぐ身として王子妃教育も終了、その佇まいや素行も淑女中の淑女と年若い令息令嬢からの羨望を集める少女。
学園でも女子生徒からの支持も厚く、男子生徒もその存在感を認めている非の打ち所がない美少女である。
パンジーと並べてしまえば雲泥の差なのだが、パトリックはそんなほぼ完ぺきなマティルダのことを嫌厭している。
何事もそつなくこなせてしまう彼女に劣等感を抱いていたのだ。
しかも淑女中の淑女ということは基本的に婚約者であっても無暗矢鱈に触れることもできず、常に冷静に微笑みを浮かべて決して本心を語らない。
そんな認識へさらに多少お堅さを誇張した印象をマティルダに抱いて辟易していたパトリックは、だからこそ令嬢らしくないパンジーに秒で堕ちたのだ。
自分を心身ともに癒してくれない、むしろ悪化させてくる婚約者と縁を切りたいパトリックと、自分の素晴らしい未来の生活の邪魔をする女を排除したいパンジーの思惑が重なった結果どうなったかと言えば。
中途半端に知識と権力、そしてお金を持っていた彼らはマティルダに瑕疵をつけて婚約破棄してやろうと思いつき、そして実行してしまった。
それも学園の生徒全員が集まる夜会演習という公衆の面前で堂々と冤罪を被せての婚約破棄宣言をやらかしたのだ。
それがこの日の昼間の話であり、その対応のために開かれたのがこの王族会議である。
すでにパンジーは公爵家への不敬罪でその身は捕らえられ、明日以降からの事情聴取や裁判などを経て刑が確定するが重罪となること、そして侯爵家も処罰は免れない。
そちらに関しては司法に則って厳正なる審査がされることは間違いないので問題はないのだ。
問題は『パトリックがマティルダを蔑ろにした』ことで起きるかもしれない政治的混乱だった。
別に自分だって意中の相手と一緒になるくらいいいじゃないか、程度の反省もない言い訳しか考えていないパトリックだが、国王をはじめとする第三者たちは非常に事態を重く見ている。
宰相にして筆頭公爵であるカニング公爵は国庫に勝るとも劣らない財産を有しており、その手腕をもって執る国政に人望も厚い。
そんな公爵を敵に回せばどうなることかは火を見るよりも明らかなのだ。
とりあえずマティルダにかけられた冤罪はその場に賓客として招かれていた王弟の娘スカーレットと生徒により晴らされ、婚約破棄の件は一時保留となった。
ことがことなので王子妃教育を修了しているマティルダには警備上の理由として王城に留置してもらっているのだが、父親であるカニング公爵は全く納得はしておらず会えないことはわかっていてもマティルダのいる王城の区間近くの部屋で待機している。
一応王家がこうして会議を開くことは知っているので今のところは騒ぎ立てず黙って王家の決断を待っていてくれているようだ。
そのため王家は早急に今後の方針を決めなければならないが、それでいて決して間違った答えを出すわけにはいかないのだ。
「全くもって愚かですわ。百歩譲ってその気持ちを汲んであげるにしても、もっとちゃんと誠意をもって順序を守って対応するべきでしょうに。どうして最初から公衆の面前で婚約破棄なんて手段を取れるのかわたくしには理解できません」
そう怒っているのは先のパーティーでマティルダの冤罪に率先して無実の証明をし、パトリックとパンジーを徹底的に論破したスカーレットだ。
彼女はもうすでに卒業と成人をしているが、学園のパーティーは生徒たちのための社交の練習場でもあるために今回はたまたま賓客役として出席していたのだ。
パトリックの愚行が始まるまではただの仕事だと淡々とこなしていたのだが、そのおかげでマティルダをいわれなき罪から守ることができた今となっては参加して心底よかったと思っている。
常々愚かだと思っていたが、まさかここまで愚かだとは!というのはパーティーで愚行をやらかした二人を糾弾し始めたスカーレットの最初の言葉である。
この言葉にはその場にいた大半の生徒が内心で深く頷いていた。
そんな呆れたようでいて厭味ったらしく言うこの従姉のこともパトリックは好きではないのだが、それはそれとしてスカーレットの言葉にはパトリックと彼の実母である王妃以外が同意だと頷いていた。
学園生徒として当のパーティに参加していた第二王子ハロルドと第一王女クリスティンも先ほどの騒動を思い出して深くため息をついた。
「幸いにしてスカーレット姉様がその場を収めたり公爵に使いを送ったりなど迅速に対応してくださったので先方も一応は抑えてくださっています。ですが今後の対応を誤れば少なくともここから三代ほどはカニング公爵との縁が断絶する覚悟を持たなくてはならないかと思います」
「そもそもが陛下の意向による婚約だったものをこうなってしまってはそう簡単には許していただけるわけはないだろう。第一にこちらの有責での解消または白紙化して慰謝料の支払いは免れませんでしょうな」
「……どちらにせよ、あちらの要求を全てのむ、ということはできないができる限りの譲歩は必要になるだろうな。まったく…なんてことをしてくれたんだ」
ハロルドと王弟ダグラスの言葉に頭を抱えた国王ブランドンは、しばし考えた後にちらりと王妃グレンダを見やった。
一応、生母である彼女の気持ちを慮る気はあるのだが、甘やかして全てをなかったことにできるほどのことでもない。
彼女には悪いがパトリックには何かしらの罰則を与えなくてはならないのが現状だ。
それは王妃にもよくわかっているので口を挟むことはないようだった。
そんな夫婦の無言のやり取りをしり目に、いまだに湧き出る愚痴の絶えることのないスカーレットがもう一度パトリックに侮蔑の目を向ける。
パトリックもうすうす自身がやらかしたことがただのちょっとした我儘では済まないことを感じ始めてきたようだが、それでもまだふてぶてしくいじけた子供のように唇を尖らせてそっぽを向いていた。
その王族らしからぬ態度にスカーレットは忌々し気に口を開く。
「…マティルダは公務を手伝っていたと聞き及んでおります。マティルダに公務を押し付けてご自身は遊び惚けていたくせにさらに恥をかかせるなんて、気でも違えてるんではなくて?」
「さっきから言わせておけば!スカーレット姉様にそこまで言われる筋合いはないだろう!?そもそもそんなことするわけもない!私はちゃんと自分の公務はこなしていた!ちゃんとな!元々そんなに公務の割り振りがあったわけでもなかったけど!」
「パトリックの言う通り、学生のうちは学業を優先とするためにそれほど公務は振ってはいない」
「ならどうしてマティルダは休日ごとに地方へ赴いていたのです」
国王の言葉の通り、パトリックはもちろんハロルドやクリスティンも同じように公務はしているが、学業に支障の出ない程度のそれほど多くない数しか振り分けられていない。
それは学生時代の国王と王弟もそうだったし、王女ではないにしても公務を割り振られる王族ではあったスカーレットもそうだった。
しかし、だからこそ納得がいかないのだ。
同じく学業が優先される令嬢が王族よりも忙しなく動いているのは絶対におかしい。
マティルダに問いただしても内容は明かせないの一点張りだし、何よりもスカーレット自身が若年王族が受け持つ公務の大部分を請け負っていたために、マティルダに話を聞く時間が多く取れていなかった。
こんなことならもっと無理やりにでも時間を作るんだったという後悔も混ざり、先ほどから執拗にパトリックを責め立てているのだ。
それはごく一般的にいうならば八つ当たりなのだが、もしマティルダの忙しさがパトリックの思惑ではないというのならその聞きとり役を担うのこそパトリックの役目ではないのだろうか。
自分はマティルダのことを気遣わないくせに自身の心は癒して当然など傲慢に他ならない。
まだまだ続きそうなスカーレットの文句ではあったが、それは娘の言葉の一部を拾った王弟が止めた。
「地方というと、どこらへんだ?」
「クレーン河よりも西のほうとしか聞いておりませんが、たぶん王領のアマーストですわ」
「アマースト、だと?」
そこまで詳しくは聞いていないのだが、マティルダの話を総合して導き出した地名を告げれば、とたんに国王の顔色が変わり左手に座る王妃へと視線を向けた。
その目は驚愕と疑心の色がありありと浮かんでおり、他の王族はその反応に首を傾げる。
王領のアマーストは以前は山からの清流の恩恵を受けた農耕の地だった。
しかし百年ほど前に起きた大雨による山崩れ以降湧き水は枯れ果ててしまい今では不毛の地とも呼ばれている。
それ以来は他の活用方法を見出そうと努力を重ねているのだが、いまだにその結果が実ったことはない。
それほど重要ではない土地にマティルダは何度も足を運んでいたのだからスカーレットは余計に訝しんでいたのだ。
よもやパトリックがマティルダに嫌がらせ目的で地方への視察に向かわせているのではなかろうかと。
結局は的外れだったものの、国王と王弟は思わぬ事実に絶句している。
「王妃。まさか自分の仕事をマティルダ嬢に代行させたのか?」
国王の問いかけに公務をマティルダに押し付けていたのが王妃であるグレンダだったことをスカーレットたちは知った。
しかし、それがわかったことによってさらに悪い方向へと話が向かったことも彼らの顔色を見て察してしまう。
王妃ははっきりと肯定することも頷くこともなかったが、何よりもその顔を見ればそれが事実だったことがうかがえた。
さすがは親子なだけはある。
彼女は先ほど王族会議が始まったばかりの頃のパトリックと全く同じ顔をしていたのだ。
「なんてことを…よりにもよってアマーストの視察を代行させるなんて…なんだってその公務を割り振ってしまったのだ…」
「アマーストの視察…?まさか、代行させたのは採掘場の視察なんですか!?いえ、そもそも王妃公務の代行を公爵令嬢にさせていることが問題です!」
「採掘って…もしかして、王妃殿下の公務はこれから国家機密になる予定のものの監査ですか…?」
頭を抱えた国王に王弟は食って掛かり、その様子にハロルドが確認の声を挟んだ。
それに国王は難しい顔をしながら頷いて見せれば、子供たちにも動揺が広がった。
国家機密はその名の通り、国の頂点である王家とその機密に関連する者以外に知る人がいてはいけないもののはずだ。
それも件の採掘場はまだそれに足るかの調査中であって国王と王妃、そして王弟以外に知らされていなかったほどの機密のようだった。
そんなものをまだ王家に仲間入りしていない公爵令嬢が知ってしまっていた事実にその場の誰もが二の句を継げることができずに沈黙がおりた。
そしてそんな中でふと思い至ってしまった、最悪の想定をスカーレットは声を震わせながらも問わずにはいられなかった。
「王妃殿下…まさかと思いますが、あの子に…マティルダに、王妃教育を施してませんわよね……?」
王子妃教育と王妃教育については王妃の管轄であり、その進行具合はそれを受ける令嬢の能力などによって差が出てきてしまう。
マティルダは優秀なために王子妃教育は順調に進んだと王妃からも家令からも聞き及んでいた。
それでも王家の秘密を含む王妃教育を婚姻以前に施すなど本来ならばありえないことだが、監査を公爵令嬢に代行させるような王妃であればやりかねない。
否定して欲しいと願いつつの確認する声にも一向に口を開かない王妃に、しびれを切らせた国王が共に教育を施していたであろう侍女長を呼び出した。
王妃の側仕えとして手前の部屋に控えていた彼女はすぐに部屋へと入ってきたが、その場の険悪さを読み取った顔色は血の気が引いていた。
「直答を許す。カニング公爵令嬢への教育には君も携わっていただろう。彼女の教育がどこまで進んでいたか、正直に答えよ」
「それは…」
「虚偽の申告は王族に対する偽証罪であり今この場では反逆罪に相当する。そのことを念頭に置け」
問いかけに動揺しながらも侍女長がちらりと王妃の顔色を窺ったのを国王は見逃さず釘を刺す。
この侍女長は王妃の実家からついてきた者のため、彼女に対する忠義が篤い。
そのため王妃に不利になる証言を避けたい気持ちがあるのを見越しての念押しだった。
その思惑通り反逆罪という言葉にびくりと肩を震わせた侍女長はか細い声で答える。
「王子妃教育は恙なく終えております」
「そうか。それで?その後は?王妃教育を始めていたか?」
「はい。そちらも、恙なく」
「恙なく終えた、か?」
「…はい」
侍女長は確かに王妃の補佐の役割でもあったために、共にマティルダの王子妃教育と王妃教育に携わっていた。
しかし彼女にはどこからどこまでをいつからいつまでにやらなければならないか、ということまではわからないのだ。
王妃が要望するままにマティルダのスケジュール調整をカニング家の侍女長とまとめ、進行具合によって微調整をする過程で内容を知ってしまうに過ぎない。
ただし内容を知っていると言っても機密に関わる深い部分は部屋の外に控える彼女やマティルダの侍女には聞こえない。
侍女長が知っているのは王妃が考えた王妃教育のスケジュールが滞りなく終えている、ということのみだった。
それがいいことなのか悪いことなのかすらもわかりはしない。
ただ、自身の回答が王妃の立場を悪くしたということだけはわかってしまったらしい侍女長は顔を土気色に染めたまま退室を命じられた。
「婚姻するまでは王妃教育はしてはいけないのを忘れたのか…?」
「そんな…そんなこと、し、知らなくて…」
「知らない?そんなはずがあろうものか!君だって婚姻前に王子妃教育を終えていても王妃教育が始まったのは婚姻後だろう!母上は私もいるところでちゃんと伝えていたぞ!やむを得ず婚約が解消されることもあるから婚姻までは王家の秘密が含まれる王妃教育は施さない。それが代々の決まりだと!王妃教育を始める前に国王と共に内容を精査する必要もあると!だというのになぜ、勝手に王妃教育を進めた!」
基本的に王族の婚姻に離婚は認められない。
理由は王族となったときに施される教育に国家機密が含まれるからだ。
婚姻中であれば忠心を誓い護衛も担う王家の影が姿見えずとも常に側にいるため、それほど漏洩の危険は高くはない。
しかし、離婚してしまえばその範囲から外れてしまう。
外部へと情報を漏らさないよう見張るにも限度があり、その危険を回避するため百代ほど前の国王が離婚を認めないことに決めたのだ。
それは公的に明言されていることのため王家に嫁入りするであろう貴族家全部が知るところであるが、王妃教育をどのタイミングでするかどうかは公にはしていない。
それでも、そういう規定があるのならば常識的に婚姻後から王妃教育が始まると普通は考えるだろう。
これまでには逃したくない実務能力の婚約者を確実に王族に加えるために王妃教育を施した例も何度かあったが、その度に揉めに揉めたことで八代前の国王が絶対に婚姻後に施し始める要項を付け足した。
同時に学生の内は学業に専念させるために王族の公務を減らし、のっぴきならない事情以外で婚約者に代行させることを禁じたのもこの頃のことだ。
以来、王妃教育は婚姻した成人女性へと施されるものとなったのだ。
それを王妃は忘れていた、というよりは軽く考えていたのだ。
どうせマティルダはもうすぐパトリックと結婚するのだから、少しくらい早めても大丈夫だろうと。
そうした慢心が何を引き起こすのかも知らずに。
国王に怒鳴るように叱責されて、はらはらと涙を流す彼女はただ申し訳ありませんと繰り返すだけだ。
自分がマティルダにどんな運命をもたらしたのかを理解しているようには見えなかった。
国家機密を知る人物を王家は手放すことはできず、もちろん国外に出すなどもってのほかだ。
しかし破棄宣言と恥知らずな冤罪行為によってパトリックとマティルダの婚約続行は不可能。
外に漏らしてはいけない事柄を知る女性が行きつくのは、他の王族との婚姻か生涯幽閉、そして毒杯。
その言葉が脳裏に過ぎったとたん、スカーレットは勢いよく立ち上がった。
「いやよ!!こんな愚か者のためにマティルダの命が奪われるかもしれないですって!?わたくしは絶対に認めませんわ!!」
「わたくしも毒杯はもちろん、幽閉ですら賛成できませんわ。これまでカニング公爵令嬢はいずれ王家に名を連ねるものとして研鑽を積み重ね、婚約期間のほとんどを第一王子殿下のために注がれてきました。その結果が衆人環視で婚約破棄をされたうえに死か幽閉かなど、それはあまりにも酷すぎます」
「私も同意見ですね。仔細を聞く限り此度の責は明らかに第一王子、そして王妃殿下にあるはずです。覚悟をもって王家に嫁ぐことを了承したとはいえ、あまりにも公爵家を蔑ろにしている。そうなればカニング公爵家が反旗を翻しても文句は言えません」
スカーレットに引き続きクリスティンとハロルドがそう言えば、国王も鷹揚に頷いた。
感情のままに発したスカーレットの声はともかくとして、クリスティンの語る事実とハロルドの予測は国王も考えうるものだ。
マティルダの人となりは多くの人が知るところであり、実際多くに慕われた彼女の無実の罪はほとんどその場で立証された。
そんな彼女を蔑ろにするような結論を出せば、カニング公爵だけではなくほとんどの貴族家が王家に背を向けるだろう。
悔しいことに凡庸な国王は戴冠からの十数年、それほど立派な成果を出してきた自信もない。
国王はこれ以上王家の支持率を下げないように現状維持をするだけで手いっぱいなのだ。
「もちろん、そのようなことをカニング公爵令嬢に命じることはできない。しかし現状、ハロルドの婚約を解消することもできない。となれば、私の側妃にするのが一番いいのかもしれんな」
「冗談でしょう?どこが一番いいというのです?」
あまりにもすんなりと出た、それもあたかも名案だと言いたげな国王の言葉にスカーレットは驚き声を上げた。
何が一番いいというのか。
同じ十代の女性であるクリスティンも実父ながら奇妙なものを見るように顔を顰めていたし、王妃も側妃もそれはないと首を振る。
それは王弟もハロルドも同じだし、元凶であるパトリックもあっけに取られて国王を見ていた。
「お言葉ですが陛下。自身を蔑ろにし続けた挙句に婚約破棄をしてこれまでの頑張りを無に帰した男の父親で、自身に他に嫁ぐ選択肢を消したばかりか毒杯という最悪の選択肢をもたらした女の夫である男性に嫁ぐことをうら若き少女が喜ぶとお思いで?それも寡夫ならまだしも正妃は健在、側妃までいる父親と同年代の男に組み敷かれるかもしれないなど死を選んだほうがましというものです」
「そ、そこまで言うことはないのではないか?それに、マティルダ嬢はそう思っていないかもしれないではないか」
「兄上。百歩譲ってそうだったとしても、普通に考えて次期王妃の立場から現国王の側妃に格下げなんてことしてみろ。やはりカニング公爵は黙っていないと思うぞ」
「ぐ、うぬ…」
マティルダが自分からそう奏上するならまだしも、こちらから国王の側妃になんて申し出たなら確実にカニング公爵は打って出るだろう。
娘可愛さもあるが、何よりもこれまで見届けてきた娘の頑張りと莫大な教育費が一気に無に帰すことを黙って受け入れるはずはない。
パトリックの独断とはいえ王家はもう下手な手は打てない。
これ以上一つでも間違えばカニング公爵は王家を見限り反旗を翻し、多くの貴族たちがそれに続くことだろう。
そのためにマティルダの処遇は慎重に決めなくてはならない重要な一手なのだ。
もうすでに最悪の選択肢をもたらしたことにより手遅れかもしれないが、次期王妃から側妃への格下げや父親と同年の男へ嫁がせるなど言語道断である。
そう示唆した王弟の言葉に心底残念そうにした国王を見たスカーレットとクリスティンはその気色悪さに引いた。
その端で王妃は悔し気に唇を噛みしめて側妃は微笑みを引きつらせる。
それというのもマティルダは国王が王妃と結婚する間際まで正妃に望んでいた女性の娘であり、彼女はその女性に生き写しなのだ。
結局グレンダが正妃に決まってしまい女性はカニング公爵へと嫁いだのだが、カニング公爵夫人を熱望していた事実は社交界でも親から子へと静かに知れ渡っていっている。
さらにはせめて縁戚になりたいという悪あがきによってパトリックと同じ年に生まれたマティルダを婚約者に指名したのだ。
私利私欲に塗れた実情は聞こえの良い言葉で誤魔化したが、それも正妃にと乞うていた姿を見ていた者たちからすれば考えずとも察することはできた。
そうして成長するにつれてかつての想い人にそっくりになっていくマティルダを自分のものにするチャンスが湧いたことで悪い考えがよぎったのだろう。
その身内の心底気持ち悪い思考に無言のまま当人以外満場一致で「国王の側妃にだけはさせない」ことだけは決まった。
「お父様はいかが「私の妻はフレデリカだけだ」
王弟ダグラスの妻にしてスカーレットの母、フレデリカは三年前に病に倒れてほどなく亡くなった。
二人は恋愛結婚であり、王弟は生涯フレデリカを愛し続けると彼女の棺に縋りつきながら誓っていた。
なので万が一にも了承などしないだろうと思いながらした問いは最後まで言い切る前にどころか被せて返答された。
まあそうだろうな、と当の本人と国王以外の人は思いつつも、もう少し可哀そうな少女のために手を差し伸べることはないのかとため息をついた。
ただスカーレットとしては願ってもない展開になりつつはあった。
王弟の返答に国王が少し期待を込めた顔持ちで口を開いたのを遮る。
「ならばやはり」
「王位継承権のある王族男子ならばもう一人いるではないですか」
「それは、そうだが…しかしだな、あの子にはあの子のやりたいことをやらせてやるべきでは…」
残る一人、王位継承権を持つ王族の子息は王弟ダグラスの息子のジョシュアだけ。
姉であるスカーレットの三つ下、パトリックとマティルダの一つ年上の彼は一年前から留学生として隣国にいる。
成人になる今年中に帰ってくる予定だが、その後も外交官として働くことを視野に入れてこの一年は外交活動に全力を尽くしていた。
そうして朝に夕に奔走した彼によりもたらされた貿易や国交は少なくない。
そもそも王弟は臣籍降下して公爵位を賜ったがそれも期間限定的なものであり、ジョシュア自身は継ぐことはできても子供からはよくて伯爵位か最悪は男爵位に降格となってしまう。
その前に実績を重ねて高爵位に陞爵できるように地盤を築こうとしての行動だ。
パトリックをはじめとする現国王の子供がある程度まで健康に育った時点でジョシュアはそういった次代の処遇を念頭に置いて国家機密から距離を置いてきた。
それは歴代の王弟妹子息も同じようにしてきたことだ。
同じ立場であるはずのスカーレットはそれでも国政に生涯関わる道を選んだから率先して会議に出席しているだけであり、彼が留学できているのも、外交官になる道を選ぶ権利があるのも国家機密の共有を最小限にしてきたからなのだ。
それなのに外との繋がりを強く持つジョシュアに王妃教育を施してしまったマティルダと婚姻させるということは、ジョシュアを国内に留める必要がでてしまう。
万が一国外で捕らえられ人質にされたり自白の強要をされたりすることを防ぐためにもそこは変えられない。
それまでのジョシュアの行動を思えば、おいそれとその道を閉ざしてしまうのを伯父として躊躇うのだろう。
しかし、彼の父であるダグラスは強い意志でその気遣いのようなものを拒否した。
「ジョシュアもれっきとした王族です。自身の生きる道がままならないことくらい理解している。それに何かあった時には選ぶ道などないと幼少から言い聞かせて来ています。幸いにして成績はあちらの国でも首位を保っているようですし、外交官以外となったとしても問題はありません。そしてそれは結婚相手も同じこと。国のためとなるなら、ジョシュアはマティルダ嬢との婚姻に不服を示すことはないでしょう。兄上、どうかこれ以上国を乱さぬようお願い申し上げる」
年の見合った王族が国内にいるならば国王の側妃になる必要はない。
国のため、とあえて言葉にしたのは同じ王族の、しかもトップに君臨する国王に、これ以上私欲でものを言うなと言外に釘を刺したのだ。
これまでは見逃せる程度に収めることはできていたが、これは越えてはいけない一線なのだ。
これ以上国王の過去の慕情による私欲を許容してしまえば、この国は忽ち崩壊してしまう。
もういい加減未練たらしく抱え続けた気持ちに区切りをつけてくれ、そう弟であるダグラスにはっきりと言われてしまえば国王も長すぎた恋煩いに諦めをつけざるを得なかった。
しかしそうしてジョシュアとマティルダの婚姻を仮定すると、今度は別の問題が出てきてしまうのだった。
ジョシュアは数年の間外交を頑張ったおかげで顔が広い。
そうなれば優秀でそのうえ他国とのつながりが強い国王のほうがいいと考える貴族は必ず出てくるだろう。
それも少なくない数の貴族家がそう考えることは予想できる。
実際にジョシュアが国外にいるにもかかわらず、成績も振るわず素行不良なパトリックと留学中に外交を任されるほど有能なジョシュアのどちらを選ぶかという議論はもっぱらジョシュアに軍配が上がっている。
しかもパトリックはすでに先の騒動を起こしたことで国内貴族の中では次期国王には不適格と見做されている可能性のほうが高い。
誰だって私欲のために堂々と他人に冤罪をふっかけるような男に最高権力を握らせたくはない。
パトリックに主権を握らせたいという者がいるのならば、それは彼を操って実権を握りたい者であると見てまず間違いないだろう。
しかし、そうなったとしても他の王族が黙ってはいないので難しい話だ。
なんにせよ、自分への甘い欲のままに動くパトリックを国王にしようものなら国は豊かになるどころか傾いていく一方になることはまともな貴族であれば容易に想像がつくのだ。
パトリックは言動の軽率さや政治的状況把握や判断能力の未熟さ、そしてこれまでの行いを総合的に見た貴族院から廃嫡を求められることになるだろう。
ハロルドやクリスティンの婚約が解消ができないとなれば、次期国王になれるのはスカーレットかジョシュアのみである。
スカーレットも支持率が悪いわけではないが、彼女はどちらかと言えば補佐側で立ち回る方が本領を発揮できる質であり、本人も周囲もそれを十分に理解している。
ゆえに貴族たちが次期国王と望むのはジョシュアほぼ一択と言ってもいい。
そうなれば翌日開かれるだろう貴族院による今後の方針を決める会議の方向性はある程度予測できる。
「明日の貴族院会議ではマティルダ嬢の待遇を決めたのちに、ジョシュアを国王の養子にすることを要求されることはほぼ確実と言っていいでしょう」
「ダメよ!そんなの受け入れられない!!」
「この期に及んでお二方に決定権があるとお思いですか?特に王妃殿下、あなたが身勝手なことをしなければこのような事態にはならなかったのです」
そもそもは王妃がマティルダに王妃教育を施さないでいれば、慰謝料を払った後に必要であれば良い婚家を探す手伝いをすればよかったはずだ。
優秀なマティルダなら国外でだってやって行けたかもしれない。
その選択肢を狭めたのは他ならぬ王妃なのだから、今後の処遇に彼女の気持ちが慮られることはない。
「どちらにせよマティルダの婚姻先を王族のみ、そうでなければ幽閉か毒杯とした時点で貴族院は何があったのかを理解するでしょう。カニング公爵も具体的な説明を求めるでしょうし、そうなれば経緯の説明は不可避です。王妃殿下、あなたも処罰が下されることは覚悟をしてくださいませ」
「そんな…」
「まだ比較的新しいとはいえ王立法に基づいて定められた規定を破ったのです。法を犯した者は罰せられる。それは王族であろうと変わりはないはずです」
「第一王子殿下も、婚約は二つの家の契約です。契約違反を犯したのは第一王子殿下の方なのです。お咎めなしになるなどと考えるのはおやめくださいね」
スカーレットが後日開かれる貴族院会議で起こる紛糾を予測して言えば、ハロルドとクリスティンがその要因に釘を刺した。
昼間はあんなにも高揚していたパトリックも軽率に未成年を働かせた王妃も、ここまで来て言っていることが理解できないほど愚かではないので項垂れるしかない。
「全ては一人の令嬢を軽率に扱ったあなた方の生み出した結果であると心得てくださいませ」
そう王弟が締めくくり、その日の王族会議は幕を下ろした。
騒動からあくる日、緊急招集により開かれた貴族院会議は予測したとおりに一時騒然となりながらも日をまたぐこともなく終了した。
普段であれば国王と王妃、王弟までしか参加しない貴族院会議だが、今回は王家全員が事態を重く受け止めているという意志を示すために全員での列席となった。
もちろんマティルダの処遇再考の原因となったパトリックと人生の選択肢を狭める行いをした王妃は終始青ざめた顔で座り竦んでいたのは言うまでもない。
唯一の救いは議題内容を事前に相談していたこともありカニング公爵が冷静に努めてくれたことだ。
もしも公爵が怒り狂っていれば血を見ることになっていたに違いない。
それでも結局は王族へと娘を渡す選択肢しか残されていないカニング公爵はやはり不服そうではあったが、しっかりと自身の利益を多く含む落としどころをつけることで納得した。
そうして会議が終わり、処遇が決まるまではと城に留められていたマティルダをとりあえず一度家に連れて帰りたいと言うので二人は連れ立って公爵邸への帰路についた。
国王と王弟、そして冤罪を晴らしたスカーレットに見送られる際には相手がジョシュアだから許すのだ、と彼は念には念を押して帰っていった。
それは、夫人によく似てしまったマティルダに国王が手を出すのではないかとかねてから懸念していたからなのだろう。
公爵にとって国王のそういうところには全く信用がないという認識がよくうかがえた。
そしてもしもあの時、国王の側妃にすることを止められなかったら間違いなく公爵は王家の首を取りに来ていただろう。
そうして最悪の事態にならなかったことに胸を撫でおろしながら王弟とスカーレットも帰路についていた。
前日は遅くなってしまったために離宮へと泊まったが、彼らも王城近くに邸を構えている。
親子二人そう遠くはない道のりの馬車で、先ほどまでの会議を思い起こした王弟がスカーレットへと声をかけた。
「しかし、国王にまで責任を追及するとは思わなかったな」
先の会議ではあらかじめ決められていた内容を貴族たちに可否を問う形の議論がされていた。
その内容は王弟が城に残っていた宰相のカニング公爵と夜を徹して草案をつくりあげたものだ。
今回は非が王家にあるために王族会議では具体的な処罰を決めることはできず、考えられる処罰と絶対に譲れないものだけを提示した後は相手方の要求をのむ形にした。
そしてその提示された内容には国王に対する責任の追及が含まれていたのだ。
それを内容に組み込ませたのは他ならぬスカーレットだった。
「だってお父様、考えてみてくださいませ。王家に嫁いだ者が迂闊に機密を漏らさないのは全て護衛や影がそば近くで見ていると知っているからよ。王妃殿下は迂闊にもそんなことは忘れて堂々と情報漏洩してましたけれど」
王家に影がついているのは教養のある者であれば当然知っていることだ。
元々侯爵家出身の王妃も婚姻前からそれを十分に知っていたし、結婚当初はあれもこれも見られていることに居心地の悪さを感じていたことだろう。
しかし、人間慣れてしまえば気にも留めなくなるもので、王妃は影の存在などすっかりと忘れてしまったのだろう。
それは生まれたときから影に守られているスカーレットたちもそうなのだが、子供たちは物心つく頃から守られているのと同時に見張られているのだと言い聞かせられているためにそうそう軽率な行動はしない。
同じく軽率な行動が目立っていたパトリックはある意味正真正銘王妃の息子であると証明されたようなものだ。
つまるところ影は王族にとっては盾であると同時に、国王の目であるとスカーレットは認識している。
でも、それならばつじつまの合わないことがある。
「つまり少なくとも影は『王妃殿下がマティルダに王妃教育を施していたこと』を知っていたはず。それなのに国王陛下は知らなかったように振る舞った」
「影が国王への報告を怠ったのか」
「いいえお父様、わたくしは振る舞ったと言ったのよ」
当然のように家臣の忠誠を疑った父親にスカーレットは苦笑しながらも自身の言葉の最後を繰り返した。
それでようやく娘の言わんことを理解した王弟は実の兄のやり方を鼻で笑い飛ばした。
「ハッ!さすが善人の皮を被った高慢男だな。だがそれなら影や護衛の処分を明言しなかった理由はつくな」
「知っていながら放置したのです。たとえ世間への誤魔化しが利いたとしてもわたくしは決して許しませんわ」
スカーレットの推測では彼は王妃がマティルダに王妃教育を施したことも、公務を代行させたことも影から報告されていたに違いないと思っている。
彼は目に見えた功績は残していないが、人の使い方などはそれなりにうまかった。
影もそのうちの一つであり、彼にとって重要な組織だったことだろう。
適材適所においた有能な人間で国政を動かしているのだから、基本的には国を運営していく者としての素質はあったのだろう。
さすが十数年もの間玉座に座り続けただけある。
しかし今後はその有能な者を傍に置いたことが裏目に出ることになる。
昨晩、国王が気落ちしている間にスカーレットは父に追加して欲しい内容の提示を伝えていた。
それも意気消沈しているとはいえ国王がいるその場で堂々とだ。
その場では耳に入っていなかったとしても目の前で繰り広げられていた会話を影があとになってわざわざ報告するかどうかは五分五分の確率ではあったが、案の定国王は会議で自身の責任を追及されて泡を食ったような顔をしていた。
国王が見て見ぬふりをしたのはパトリックの動向も同じで、国王は息子の浮気や冤罪計画を知っていながら放置したことになる。
その思惑がどういったものであれ、それによって一人の少女を振り回し続けたのだ。
彼だけが無傷でいるなどスカーレットはもちろん許さない。
とはいえ謹慎させるには国王の公務は重要なものばかりであり、かといってこれまで国王になる準備などしていなかったジョシュアにすぐに譲位することもできないのでしばらくは国王として君臨し続けることにはなる。
ジョシュアは今まで遠ざけていた分の国政に必要なものをこれから詰め込むことになるだろうから、少なくとも二、三年は現国王の治世は続く。
それでもジョシュアが戴冠できるようになるまでにはきっとマティルダとの間に子どもができる可能性が高い。
それを間近で見続けるのが実は一番の罰になるのではないかとスカーレットは思っている。
ジョシュアを養子にするように仕向けたのは長年マティルダを苦しめてきた国王夫妻や従弟への意趣返しだった。
パトリックが衆人環視の中で婚約破棄宣言したことは隠すことなど不可能であり、その結果として廃嫡になることは確実で王妃も理由は療養になるが離宮へと送られる。
そのうえで他にも実子がまだいるにもかかわらず次の王太子が養子となった王弟子息になるという事実は社交界にさまざまな憶測を呼ぶことは間違いない。
彼は妻と子供の手綱を上手く握ることができなかったのだろう、と。
そしてそれらは現国王に対する忠誠心を薄れさせるには十分なはずだった。
もとより国王ブランドンはパッとしない国王ではあったが国王であるという自負だけは一人前だった。
王政国家のこの国は下手な不利益を被らなければそうそう表立って揶揄されることはないが、口さがない人は常にいるし、それらを積極的に止めることはしていない。
ほどよくガス抜きをしなければその鬱憤は目に見える形で王家へと向けられることを知っているからだ。
それでも行き過ぎないように目を光らせてくれていた一人がカニング公爵だったのだが、もうこれからは国王に関する噂は放置することだろう。
むしろそれを利用してマティルダの名誉の回復、そして娘の夫となるジョシュアの地盤固めを図ってくるに違いなかった。
これから先、実しやかに馬鹿にされることに果たしてあの王は耐えられるだろうか。
影という耳がなまじ優秀なせいで貴族たちの声はよりよく届くことだろう。
噂程度でいちいち処罰していたらそれこそ支持率が下がり、王のすげ替えを早く望まれるようになる。
家臣の目を疑い始めた彼が悪政を強いるのが先か、精神を壊すのが先か、ジョシュアの戴冠が先か。
なんにせよカニング公爵への不義をしたことも含めて国王は今後心から敬われることはない。
欲望からのちょっとした出来心でマティルダの人生を弄んだ罰を何としても受けさせたいと考えたからこそスカーレットは提案したのだ。
そしてそれができたのも、ハロルドとクリスティンが解消できない婚約をしていたからに他ならない。
「エリノア様には感謝申し上げなければね」
側妃であるエリノアは昨晩の会議にも先ほどの会議にもいたが、彼女はどちらでも最初から最後まで一言も発することなく沈黙を保った。
それは彼女に発言権がなかったからではなく、あえて何も口出しすることはなかっただけだ。
あの場でどんでん返しでも起こらぬ限りは、どう話が転ぼうが彼女の望みが叶うことは確定していたからだ。
パトリックの動向がおかしくなる少し前、彼女は親交強化のためと国王に進言してハロルドの婚約を成立させた。
相手は友好国の姫なのだが、それがまた絵に描いたようなお姫様を地で行くような可憐な少女だった。
そんな彼女はもちろん家族にも溺愛されていて、国王夫妻や兄姉たち、使用人に至るまで誰もが彼女を愛し慈しんでいた。
そこに思い切って割って入るようなことにはなったが、国王の寵愛を受ける側妃の血を受け継ぐハロルドはあちらの王家も納得のいく美形なのだ。
それに勤勉であり、どうせ第一王子が王太子になるのだからと剣の道を究めていたこともありそこらの下手な騎士よりも強い。
初顔合わせで麗らかな瞳の小鳥のような姫に跪いて「あなたを生涯お守りします」と誓った逸話はあちらの国ではすでに演劇となっているそうだ。
そんなこともありこの組み合わせは政略ではあるものの、とてもいい形で両国の友好が強固なものになるとどちらの王家も忠臣たちも確信した。
それがこちらの都合で破談ともなれば一気に最悪の状況となるだろう。
そこまで見越して側妃は自身の息子にかの姫との婚約を早急に取りまとめさせた。
クリスティンについては大人たちはほとんど何も手を出していないが、側妃の賢さを受け継いだ姫は自分で相手を見つけて来たかと思えば彼との婚約のメリットを上げ連ねて国王へと認めさせていた。
その相手だって隣国の王子という立場であり、さらに立太子はまだではあっても一番王太子の座に近いとされている王子であった。
隣国の未来の王妃という旨味を国王がみすみす逃せるわけもない。
彼女は元々国外に嫁がせることもあるだろうと機密の共有も少なかったので国王も安心して送り出すことを決めたようだ。
つまり留学の名目でジョシュアが国外にいる今、実質王位を継ぐのはパトリックのみという認識が成り立つような状況を作ったのは側妃エリノアなのだ。
彼女がどこまで計算していたかは知る由もないが、故意にその状況を作り出したのは確実だった。
案の定、その状況に胡坐をかいたパトリックはそれまで一応は真摯に取り組んでいた勉学をサボり始め、色恋に耽った。
そして慢心した彼は婚約破棄を強行して失脚した。
しかしそれらの側妃の行動はハロルドを王位につけたいという思惑があったわけではなかった。
それならば破談にできる婚約を結ぶのがベストなのだ。
そうはせずに彼女はむしろ破談が難しいだろうものを選んでいた。
そうまでしてそのような状況を作り出した理由はただ一つだった。
「彼女はたしか元々はハイアット辺境伯の婚約者だったか。辺境視察で見初められて側妃となったことになっているが、実際は辺境伯が他国の支援遠征で留守の間に強引に連れ出したらしい。当時のあの人は自分が望めば女は誰もが喜ぶと思っていたしな。普通なら公妾扱いになるところだったが辺境伯が1年以上前から、それも結婚前に遠征に出てしまっていたために妊娠の可能性はないだろうと側妃に召し上げることができたと自慢げに語っていたな」
「ふふ。何それ?あまりにも欲望に忠実すぎるわ。しかも当時のエリノア様はまだ成人したてでしょう?さすがはあの王子の親だけあるわね。女性に対する認識があまりにも軽率だもの。それは恨まれもするでしょう」
国王の寵愛を受けながらも決して出しゃばらずに王妃を立てる側妃として有名なエリノアだったが、その穏やかな微笑みの奥底に激情が煮えたぎっていることに気づける人は気づいていた。
微笑みながら国王に心地のいい言葉を紡ぐ彼女のその思考が、実は国王への呪詛で埋め尽くされているなど考えもしない人には全く気付くこともできないだろう。
それほど完璧に彼女は慈愛の微笑みを身に付けていた。
スカーレットが気が付けたのだって偶然なのだ。
エリノアが側妃として召し上げられてから6年経ち、長すぎる遠征の任務を終えた辺境伯の謁見の場で交わされたほんの少しの視線と、それぞれの膝の上で一瞬だけ固く握られた拳。
そして側妃の辺境伯へ向けられたものとは比べ物にならないほどに冷めた国王への視線。
スカーレットが国王の右手側に座る彼女と対面側の王族席に座っていたからこそ見えた光景だ。
それを見てスカーレットは子供ながらもエリノア様は伯父の愛を望んでなどいないのだなと理解した。
それを母に言えばそのことは決して他では口にしてはいけない、そのうえでスカーレット自身も望まぬ相手と添い遂げることになることがあると言われたので余計によく覚えている。
もしも彼らが愛し合っていたのであれば、待ち望んだ相手とようやく結婚できるだろうと思った矢先に引き裂かれてしまったことになる。
少女の心はどれだけ痛んだだろうか。
そして他の男の隣にいる自分を見られるというのはどれほどに恥辱に塗れて絶望的か計り知れない。
自分が妻を奪った男の前だというのにそんなことなどとうに忘れて彼の武功に気分よく快活に笑う国王のなんたる酷薄さか。
絵本で描かれる美しい恋に恋するお年頃でもあったスカーレットはいつか伯父に報いあれと母の腕の中で呟いたものだった。
思えばあの頃から段々とハロルドとクリスティンの父親に対する態度が硬化し始めて、彼のことも父と呼ぶことはなく国王陛下と呼んでいたように思う。
嫉妬から側妃を蔑ろにする傾向のあった王妃のことも、その子供であるパトリックのことも王妃殿下や第一王子殿下と呼んでいた。
一見三人を立てているように見えるが、その内心では家族として認めていない表れだったのかもしれない。
側妃と同じく完璧な淑女の仮面をつけているはずのクリスティンは隠しきれずに時折侮蔑の視線を送っていたけれどそんなものは当人たちは気付きもしなかった。
きっとあの謁見以来側妃は彼らに自身のされた非道とともに王位を望むなと言い聞かせ続けてきたのだろう。
そうして側妃エリノアは誰の手も一切汚すことなく、国王への復讐を成し遂げた。
王家の血を絶やすことなく、ただ愛する人と引き裂いた男の子供が誰一人王位を継げなくするという方法を使って。
ちなみにクリスティンの婚約者である隣国の王子が王太子に一番近いのは確かだが、彼は16歳の時に熱病に掛かり死にかけている。
つまるところ男性不妊であると侍医に診断されていることをスカーレットはクリスティンからわりと早い段階で聞いていた。
本来なら次代を繋げないことは次期国王になるうえでは瑕疵になるだろうが、それを補い余るほどに隣国の王子は優秀なのだ。
クリスティンは隣国で王妃になれるが子供が生まれる可能性は全くなく、いずれ養子を迎えることになるだろう。
隣国でこの国の王族の血が根付くことはない。
このことをクリスティンは国王にあえて伝えていなかったが、彼が熱病に掛かって死にかけたことやいずれ養子を迎えることになるという話は隣国では有名な話なので自主的に調べれば気が付くことなのだ。
せっかく優秀な情報収集組織を有しているくせに国外の情報を収集する能力の甘いこと。
元々ジョシュアが外交に目を向けたのだって、国王の考えがあまりにも国内向きがちだったからというのもある。
現国王が国政を現状維持しかできないのは、あまりにも外界を知らないからだ。
その点でいえばジョシュアは国王ブランドンよりはいい政治を執ることができるかもしれない。
そしてハロルドは結婚と共に王位継承権を完全に放棄し、公爵として臣籍降下する。
王族としての扱いや公務はあるが、彼が王位につく可能性は他の王族が根絶やしにならない限りはもうなくなるのだ。
これは可愛い娘に継承権争いなどの熾烈な戦いに巻き込まれてほしくないという友好国側の意向による契約内容なので勝手に撤廃はできない。
ハロルドからうっかりその可能性を示唆してしまったことを国王も影から聞いていたらしいが、自身とてその可能性は念頭にあったし、いらぬいざこざが起こるよりはいいと黙認していた。
そもそもそうでなくてもハロルドは端から王位に興味を示していなかったのだ。
もしかすると他の王族が根絶やしになったとしても適当な理由をつけて国王の座を辞するかもしれない。
さらにこれはスカーレットの推測でしかないが、ハロルドの相手の姫は子を生すことができないのではないかと考えている。
というのも成人間近にしてはあちらの姫は全ての発達が未熟に見えたのだ。
あの体の小柄さ、華奢さは彼女を本当に天使めいて見せるものだったが、それゆえに女性としての器官が機能していないのではないか、と。
もちろんこれはあくまでスカーレットの憶測であり、実際は問題なく生まれた子供を二人で幸せそうに抱くことを願っている。
そうしてハロルドもクリスティンも、側妃エリノアが考えた以上の成果をもって母の復讐を完璧に遂行させたことは間違いなかった。
「さすがのエリノア様もマティルダの王妃教育修了については驚いていたようだけど、わたくしの思惑に添うよう変換できてよかったわ。ハロルドとクリスティンが空気を読んで乗ってくれて本当に助かった」
「咄嗟によく上方修正できたよ。お前は本当に誇らしい娘だな」
「ありがとうございます、お父様」
元々以前からマティルダを可愛がっていたスカーレットはどうにかしてパトリックとの婚約を解消させようとしていた。
パトリックがマティルダを大事にしていなかったのもあるが、何よりもマティルダの本当の想い人を知っているからだ。
そしてその想い人も彼女を想いながらも距離を置くという苦渋の決断をしたことも知っていた。
知見を高めるための留学という名目で隣国に赴き、そこを拠点に諸外国を巡っていたスカーレットの弟、ジョシュア。
旅立つ彼の本音は自分ではない誰かに寄り添う彼女を見るのが辛いという情けないものだったが、スカーレットはあえてそんな弟の背中を押して国外へと逃がした。
可愛い弟がいない間に、可愛い妹分を公爵家に迎え入れる算段を付けるために。
「さあ、ジョシュア。ここからはあなたの腕の見せ所よ」
予定とは違って公爵家に迎え入れることはできなくなったが、マティルダの夫の席は空けることができた。
あとは決められた選択肢だったからではなく、ジョシュア自身が彼女に心から選ばれるように頑張るしかない。
想い合う二人ではあるが、死か婚姻かという究極の選択肢に組み込まれてしまったがゆえに今後一生素直に心を開き合える関係になれないかもしれないのだ。
それでも心を締め付けられながらもお互いの幸せを願い背を向け合った二人はいずれまた向き合えるようになることを、スカーレットは信じていた。
「お前の夫も急いで決めなくてはな。ジョシュアが養子に行く以上、家のことを弟に任せて悠長に独身でいられる選択肢はなくなったぞ」
「!!」
そんな遠くない未来に思いを馳せて目を閉じて、ふふふとほくそ笑んだスカーレットの耳に、父の無情な言葉が届いて絶句したのは言うまでもない。
最後までお読みくださいましてありがとうございました。
ちなみに一切出て来てはないですがスカーレットにもお付き合いしている人はいます。
その人が夫になれるかどうかはスカーレットとその人次第。