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第四試合 お嬢さまとプロレス”やらせ”問題<下>

「――――――はあ!?」

 ヒナのアゴががくんと落ちた。

「えっ……、ちょっ……ウソって……そんな、だって……」

 あうあう、意味の無い言葉を繰り返すヒナに、鳥子は微笑んだ。

「ああ、重ね重ねごめんなさい。〈ウソ〉は言い過ぎましたわ。〈受けの美学は存在しない〉も少し言い過ぎですわね。わたくし個人としては〈受けの美学〉は確かに存在すると思いますのよ。でも」

 柔らかに、鳥子は目を伏せた。

「それはわたくしの、いちプロレスファンの解釈に過ぎませんわ」

「じゃ、じゃあやっぱり、プロレスは〈やらせ〉で〈お芝居〉……?」

 鳥子はほんの少し眉を寄せ、それでも優しく笑った。子どもにサンタクロースの実在をたずねられた大人のように。

「――ヒナさんはダ・ヴィンチのモナ・リザはご存じね?」

「えっ? それは、まあ……。美術の教科書で見たくらいですけど……」

 あらゆる授業の成績が思わしくないヒナだが、さすがにかの名画くらいは見知っている。

 モナ・リザ。あるいはジョコンダ夫人。

 この小さな絵画を最上級の芸術たらしめているのは、超絶(ちようぜつ)のスフマート技法ではない。

「モナ・リザが人々を()きつけてやまない理由は、なんといってもあの謎めいた微笑ですわ。慈愛にも冷笑にも、無垢(むく)にも諦観(ていかん)にも見えるあの笑み。五百年という時の中、彼女に心を(うば)われた人間は、あらゆる解釈を(こころ)み、謎に(せま)ろうとしてきた」


 ある説に(いわ)く――彼女は()に服す貴婦人であると。

 ある説に(いわ)く――彼女は高級娼婦であると。

 またある説に(いわ)く――彼女はダ・ヴィンチ自身であると。


「モナ・リザが偉大なのはまさにその一点。全ての解釈を無尽蔵(むじんぞう)に受け入れる。――プロレスにもまた、(しか)り」


 あるファンに(いわ)く――プロレスは全て真剣勝負であると。

 あるファンに(いわ)く――プロレスにはやらせが存在すると。

 またあるファンに(いわ)く――やらせが存在したとして、それがどうしたうるせえ馬鹿(You Suck!)と。


「プロレスはプロレスを愛する者の全ての解釈を許容(きよよう)し、抱擁(ほうよう)し、それでもなお価値を失わず輝き続ける。今日もファンは新たな解釈を見いだし、時には論争し、喜び、悲しみ、叫び、安らかに眠る。それほどに、プロレスの(ふところ)は深いのですわ」

「そ、それじゃあ……」

 おそるおそる、ヒナは言った。

「究極、『プロレスはやらせだー』って言っちゃってもいいってことですか?」

「かまいませんわ」

「『あんなの全部お芝居だよー』っていう意見は?」

一向(いつこう)に」

「『プロレスで攻撃を避けないのは、レスラーがみんな痛いことをされるのが大好きなドMぞろいだから』って言っちゃっても!?」

「まあ、すごい。斬新(ざんしん)な解釈」

「……鳥子さん」

「なにかしら?」

 す、とヒナはハンカチを差し出した。

「血が。口から」

「あらいけない」

 ヒナはナショジオで見た雄大なナイアガラを思い起こしつつ、あっという間に朱に染まった己のハンカチを見つめた。

「わたくしもまだまだ修行が足りませんわ。プロレスの無限大の懐に比べると、自分の心の(せま)さが悲しくなりますわね」

 桜色の唇を真っ赤に()らし、それでも鳥子は微笑んだ。

「わたくしのことは気になさらないで。ヒナさんやヒナさんのお友達が、どのようにプロレスを観ようと自由。プロレスを愛するとき、愛し方にルールなどありません。愛はノーDQですわ」

「じゆう……」

 プロレスは――むつかしいものだとヒナは思っていた。

 複雑なルールや独自の文化、特殊なタブーに多様すぎる価値観。

 だが今。観方は自由だ、どのように観ても良いのだと告げられたとき、目の前には豊かで広大な大地が、ただただ、無限に広がっているような心地がした。

 それは喜びであり、同時に指標(しひよう)とするものの存在しない覚束(おぼつか)なさでもあった。

 恍惚(こうこつ)と不安、二つ我にあり。まさにその心境(しんきよう)である。

 そんな表情を正しく読み取ったのだろう、鳥子はそっとヒナの肩に手を()えた。

「難しく考えないで、ヒナさん。ただあるがまま楽しめばいいのですわ。プロレスはファンの自由を許してくれる。どこまででも」

 肩から伝わるのは、優しいぬくもり。

「もちろん、困ったことや悩んだことがあればなんでも相談してね。一緒に困ったり悩んだりしましょう」

「鳥子さん……」

 穏やかで清々しい風が二人の間に流れ、雲間から顔を出した太陽が小さな友情を照らし出した。


 ――比喩的(ひゆてき)な表現ではない。

 純粋な、ただの描写だ。


 その証拠に、けたたましい音を立てて扉が開かれた。風も太陽も、そこから物理的にもたらされたものにすぎない。

「ちょっとおおおお! こんなのヤラセだわ!」

「がっ、崖乃下(がけのした)さん!?」

椿(つばき)ちゃん?」

 異口同音(いくどうおん)の先輩後輩の声に迎えられ、現れたのは崖乃下 椿。

 ゴリゴリの新日本プロレスファンで、鈴木軍びいきの上級生。

 ぎらつく太陽を背負った彼女は、怒りに燃えさかっているようだわ。

「どうしたの、椿ちゃん」

「ボスが負けたのよ! ありえないわ! ヤラセよ! ブックよ!」

 ボスとは、彼女が心酔(しんすい)する鈴木軍リーダー・鈴木みのるのことだ。

「そりゃ……、負けることくらいあると、思いますよ? プロレスの試合なんだし」

「ありえない!」

 ヒナの躊躇(ためら)いがちな疑問を、椿は一刀両断(いつとうりようだん)にする。

「ボスは世界一かっこよくて強いんだから! 負けるはずないの! 絶対! だから、ヤラセがあったってことよ!」

「えっ……と。崖乃下さんはプロレスには〈やらせ〉があるっていう考えなんですか? それだと、ボスが勝ったときも〈やらせ〉ってことに……」

「なに言ってんの、あんた」

 椿は、心外(しんがい)だとでも言いたげに唇を(とが)らせる。

「ボスが勝った試合にヤラセはないわよ。だってボスはかっこいいし強いんだから勝つわよ当然」

「えっ、でもボスの試合で〈やらせ〉があったって今……」

「だーかーらー!」

 椿は体全体で地団駄(じだんだ)()んだ。

「わかんない女ね! ボスが勝ったら真剣勝負(ガチ)! ボスが負けたらヤラセよ! 当たり前でしょ!」

 地団駄(じだんだ)は部屋を()らし、金切り声は響き続ける。

 なすすべもなく見守る二人は、今。

「……あのう、鳥子さん」

「……なにかしら、ヒナさん」

「……この解釈も、プロレスは受け入れてくれるでしょうか?」

「……もちろん。たぶん。おそらく。万に一つは」

 鳥子の目は、果てしなく遠くを見つめている。

 プロレスの懐の果てを、見つめるように。


おわり


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