第三試合 お嬢さまは新日がお好き<下>
動画が始まった。映し出されたのは広い会場。リングの四方を囲む客席は満員御礼の状態だ。
「これは2018年1月27日の興行。”何かが起きる”雪の札幌二連戦でのメインイベントよ」
会場の照明が落とされた。蒼い薄闇に包まれた場内に、切り裂くような風の音が響く。ただひとつのスポットライトが黒い花道を照らし出した。
女性ボーカルの歌が流れる。美しいのに厳しい、繊細なのに勇壮な、女王の凱歌。彼女の生み出す旋律に乗って、黒い衣装をまとった男たちが花道に登場した。剣呑な視線であたりを睥睨する男たち。
その黒い波を割って――<彼>が現れる。
装いは誰よりも簡素だ。
黒いショートタイツ、黒いショートブーツ。頭から被った黒い大きなタオルのせいで表情は陰に隠されている。華やかなガウンも、綺羅の装飾もない。
――<王>に虚飾は要らず。
ライトに照らされて一瞬、ぬらりと光る目。人斬り包丁のような眼光が、何よりも雄弁にそう告げる。
一歩、一歩。覇軍の歩みで黒い靴先はリングを目指す。死兵の雄叫びにも似た野太い歓声が、観客席からわき起こった。
だが、既に戦場に在る王は、兵の狂騒など一顧だにしない。猛禽類を思わせる目は、ひたすらに敵の――否、<獲物>の登場を待っている。
「…………こっ」
ヒナはつばと共に次の言葉を飲み込んだ。
(こっわーーーーっ! ええー……、怖い。顔怖い。めちゃくちゃ顔怖い。絶対、悪い人だよこの人! 前科300犯だよ! 一緒に出てきた仲間(?)のひとたちもマフィアみたいだし! やくざ? やくざの集団なの? マフィアやくざ? 実録マフィアンヤクザ?)
ヒナは叫びだしそうになるのを、両手で口を覆うことでこらえた。
だって、隣に腰かけた椿は、<ウットリ>としか言いようのない表情でスクリーンを見つめている。
(崖乃下さん、きっとこの怖い人が好きなんだよね……。試合見せてくれるくらいだし。じゃあ怖いとか悪いとか言っちゃ失礼だよね)
閉じた唇をもごもご動かしている間に、スクリーンから流れる曲が変わった。
いや、曲だけではない。変わったのは会場の空気そのものだ。
走り出すギター、弾けるドラム、嬉しげに踊り出すキーボード。高揚をいやがおうにも盛り上げる曲にあわせ、満面の笑みの観客が一斉に叫ぶ。
<Go Ace!>
その声に招じ入れられたのは<太陽>だ。
赤と白のあでやかなガウンを照らし出すライトより、なお強い光輝。闇を切り開き、暴風を打ち払う光の粒子が花道にまき散らされる。女性や子どもたちの喜びに満ちた歓声が飛んだ。
罪のない声援に笑みを返す彼は、圧倒的な幸福感を引きつれて進む。
「あれ?」
ヒナは首をかしげた。
「このひと、なんか見たことあります。テレビのバラエティ番組……グルメ番組だったかなあ、食レポしてたような……」
ふふん、と椿は鼻を鳴らした。
「そりゃそうでしょ。タナは一般メディアへの露出も多いもの。なんたって、新日生え抜きの大エースなんだから」
「たな? たなさんっておっしゃるんですか、このひと」
変わったお名前ですね、というヒナの呟きは、リングアナの声にかき消された。
『青コーナー、チャレンジャー、178cm102Kg――鈴木みのる!』
長く伸びるUの母音が終わらないうちに、挑戦者は頭から被ったタオルを取り去った。隠されていた表情が露わになる。
「こっわあああああ!」
とうとう、ヒナは絶叫した。
「いや、待って待って待ってください! 怖い! 顔! 怖い! 鬼!? このひと、公共の場に出しちゃダメなタイプの人ですよ! 小さいお子さん夜泣きしますよ! 夢に出ますよ! やだもうこわす――」
はっとして、ヒナは口をつぐんだ。
(しまった――!)
そう思っても後の祭りだ。
ああ、これはやってしまった。崖乃下 椿を怒らせてしまった。
怒号を覚悟して恐る恐る隣に目をやったヒナが見たのは――
――得意満面の、笑みだった。
「よく分かってるわね。そうよ。ボスは、怖くて強くてかっこいいの」
「ぼ、ボス?」
「ユニット<鈴木軍>のリーダーだからね。<ボス>はファンからの敬称。他にもニックネームは色々あるわよ。<プロレス王>とか<世界一性格の悪い男>とか」
「性格の悪い男……って。ひどくないですか? ニックネームって言うか、悪口じゃないですか、それ」
「ちょっと! 普通に性格が悪いわけじゃないわ! ボスは<世界一>性格が悪いんだから! そこ間違えないでよね!」
「せかいいちせいかくのわるいおとこ……」
ひきつるヒナなどお構いなしで、リングアナは再び高らかに告げる。
『赤コーナー、IWGPインターコンチネンタルチャンピオン、181cm103Kg――棚橋 弘至!』
華やかな歓声が場内を包んだ。
脱ぎ去った赤と白のガウンの下から現れたのは、彫刻のような肉体だ。
「うわっ、すごい筋肉。かっこいいひとですねえ、棚橋さん」
「でしょう? <本隊>のエースで百年に一人の逸材。棚橋 弘至はまさに新日本の象徴ね。試合そのものの素晴らしさは当然として、どん底と呼ばれた時代を支え、プロレスをここまで復権させたのは、彼の力によるところが大きいの。個人の好き嫌いはあるにせよ、タナの功績を認めない新日ファンはいないわ」
でも! と力強く言い放ち、唐突に椿は立ち上がった。
そして、これまた唐突に制服の上着を脱ぎ始める。
「は? ちょ、なんで脱いで――シャツまで――」
あちこちに景気よく飛ばされた服を拾い集めて顔を上げたヒナに、椿は胸を突き出して見せた。
「タナには悪いけど、この試合はボスを応援させてもらうわ! だって、あたしは<スズキグン、イチバーン>だから!」
現れた黒いTシャツの胸には<SUZUKI-GUN>と大きく描かれている。
「……つまり、大ファンなんですね。鈴木みのるさんと鈴木軍の」
「ボスとおっしゃい、ボスと」
椿はどこからともなく取り出したキャップをいそいそと被った。キャップには「Killer Elite Squad」という文字が刺繍されていた。多分――英語の成績が残念なヒナには正確なところは分からないけど――怖い意味だ、これも、きっと。
「ああもう。あんたがゴチャゴチャうるさいから、試合始まっちゃったじゃない」
どっかりとソファに落ち着いて、椿は足を組む。
「この試合で事前に抑えときたいのは、タナの負傷の状態ね」
「棚橋さん、ケガしてるんですか?」
「と、言うか爆弾を抱えてる状態。プロレスラーなんて多かれ少なかれ故障はあるんだけど、タナが特に悪いのが右ヒジとヒザ。これは覚えておきなさい」
「はあ。でもなんで――――って、ギャーーーーッ!」
ヒナは悲鳴と共に畳んでいる最中の椿のシャツを放り出した。
スクリーンの中では、エースの右腕を極めた状態のプロレス王が、トップロープを挟んで逆向きにぶら下がっていた。腕一本でその重みを支える端正な顔は苦悶に歪んでいる。いわゆる<タランチュラ式腕ひしぎ>だ。
「そんな百キロもある肉のカタマリぶら下げたら、腕抜けちゃう! もげちゃう! イヤーッ!」
ヒナの悲鳴が終わらないうちに、すさまじい音がスピーカーから響いた。硬い金属に肉体が叩きつけられる、けたたましい音。
スクリーン内では、鍛え上げられたエースの肉体が、観客席とリングを隔てる鉄柵に打ち付けられていた。
「ギャーッ! 痛い痛い痛い! ダメですよ、そんなことしたら! ケガしちゃう! は? 椅子? 次はパイプ椅子で殴――っ!? ダメダメダメ! レフェリー、止めないと――ああああああっ! フルスイング!!」
「あんたちょっとうるさ……いえ、いいわ。続けなさい」
「うわっ、ひどい! あんなに蹴らなくても――! あっ、棚橋さん反撃! がんばれ!」
腕を組み、スクリーンから視線を外さないまま椿が言う。
「棚橋 弘至 VS 鈴木みのる――。このカードはある種のプロレスのペーソスが詰まった黄金カードよ。大正義のスーパーベビー対巨悪のスーパーヒールの構図、完璧に近い試合構成、美しい展開、冴え渡る技。ドラマ。試合巧者同士だからこそ可能な珠玉の一戦ね」
「棚橋さんがんばれ! 棚橋さんがんばれ! あっ、飛んだ! 飛ん――イヤアアア膝! 膝がお腹にどすーんって! 刺さった! 痛い! ひどい!」
「聞きなさいよ。……いいけど、別に」
椿は自らの手で二杯目のコーヒーを注いだ。
「ああーっ! またっ! 崖乃下さんっ!」
「な、なに……」
ヒナの手の中でぐしゃぐしゃにされた自分のシャツを見下ろしつつ、椿は若干、引き気味に答えた。
「棚橋さん、ヒザとヒジをケガしてるんですよね? さっきから鈴木みのる――ボスが、ずーーーっと棚橋さんのヒザとヒジばっかり攻撃してるんですよ! 蹴ったりグネグネにしたり!」
「そ、そうね」
「そうねじゃないですよ! 卑怯じゃないですか! ケガしてるのに! 棚橋さんかわいそう!」
「それは当たり前と言うか、狙われて当然と言うか……。第一、ボスは悪役だし……」
「あああっ! ほらまた! ヒザをグネグネにしてますよ! 見てくださいアレ!」
「見てるわよ」
「ギャーーーっ! 棚橋さん! がんばれーっ!」
ヒナの必死の応援も虚しく、レフェリーストップという形で試合の決着はついた。
勝利と白いベルトを手にしたのは、<プロレス王>。観客席とヒナの口からため息が漏れる。
なんにせよ、ヒナの人生で最も短い32分28秒であったことに間違いはない。
試合後の勝者によるマイクもまた、そのニックネームに相応しい物だった。敗者であるエースを嘲り、客をこき下ろし、新日本プロレスという団体までも蔑むその様は、まさにリング上に大輪を咲かせた悪の華。
「――で、試合の感想は?」
シャツをガジガジと噛んでいる――もちろんそのシャツは椿のものだが――ヒナに椿が聞いた。
「……すごかったです。棚橋さんが負けちゃったのは悔しかったけど、面白かったです」
「そうでしょう」
椿は唇に笑みをのせた。そして、すっくと立ち上がり、両手を広げる。
「あんたがどれだけアホの子でも、これで理解できたはず。もう一度言うわ。世界最高の団体は、他のどこでもない。新日本プロレスこそが、至高にして唯一なの。他の団体なんか、足元にも及ばない。そして、その新日本の中で最も強く、悪く、かっこいいのがボス率いる<鈴木軍>。分かったわね?」
「ええー?」
不満げなうめきと共に、ヒナの口からヨダレまみれのシャツが落ちた。
「それは、どうでしょうか。確かにすごかったですけど、DDTだって面白かったし。それにわたし、どっちかって言うとボスより棚橋さんのほうが……」
「まだそんなことを! いいわ、そんなに言うなら次は2012年のIWGP戦ね! 準備するからトイレ済ませてきて! 試合中に行きたくなったらイヤでしょ!?」
「あっ、そのサムネのひとかっこいい。それ見たいです」
「これはファンタスティカマニア! これは後でまとめて見ればいいから――ちょっと! 手ぇ出さないで!」
「棚橋さんの試合はもっとないんですかー?」
キーボードを取り合ってギャアギャアと言い合う二人に割り込んできたのは、扉が開く音とのんびりした声だった。
「あらー、にぎやかね」
「鳥子さん! お邪魔してます!」
ソファからぴょこんと立ち上がって、ヒナは頭を下げた。扉から現れた上級生・白瀬 鳥子は、今日もひときわ優雅だった。
「いらっしゃい、ヒナさん。あらあら、椿ちゃんと新日を見てらしたのね。わたくしも新日大好き」
にこにこと微笑む鳥子に屈託はない。だが――
(……椿<ちゃん>?)
ずいぶん、親しげな呼びかけだ。
白瀬 鳥子と崖乃下 椿は犬猿の仲。崖乃下 椿は白瀬 鳥子を嫌い、弱味を探している。
有名な話だ。――そのはずだ。
不思議に思って隣の椿を見やると、彼女は眦を吊り上げて鳥子を睨みつけていた。そのぎらついた視線に気づかないのか、鳥子はおっとりと言う。
「椿ちゃんは本当に新日と鈴木軍が好きねえ。椿ちゃん、わたくしもお仲間に入れていただけて? あら、どうなさったの、椿ちゃん」
「あ、あの!」
ギリギリと上昇を続ける椿の目尻の角度に焦って、ヒナは慌てて口にした。
「鳥子さん、崖乃下さんとお親しいんですか?」
「あらー? 言ってなかったかしら」
鳥子が愛らしく首をかしげる。
「わたくしたち、幼なじみで従姉妹同士なの。だから、とっても仲良しなのよ。ねえ、椿ちゃん?」
「たしかに従姉妹だけど、別に仲良くなんてない!」
「んもう。椿ちゃんは本当に天邪鬼なんだから。一緒にプロレスを観ましょうってお誘いしても、いつも嫌がるし……」
鳥子はぷうっと頬を膨らませてみせる。
いきり立ったのは椿だった。
「あ、あんたが悪いんでしょ! いつまでたっても新日を最高の団体だって認めないし!」
「認めてるわ。新日は素晴らしい団体様よ」
「でも、他の団体に浮気するじゃない! この八方美人! 節操なし!」
「だってどの団体様もそれぞれの良さがあるんですもの。それに――」
鳥子は無邪気に、本当に邪気のひとかけらもなく言ってのけた。
「椿ちゃんが大好きなボスだって、他の団体によく出場されるじゃない」
「……っ!」
「え……」
しん、と水を打ったような沈黙。
「ボス――鈴木みのるさんって、新日本プロレスの人じゃない……んですか?」
ヒナの小さな呟きに、鈴木軍の黒いTシャツに包まれた椿の肩がわなないた。
「ええ、そうよ」
あっさり肯定したのは鳥子だ。
「ボスは新日所属ではなくフリー選手ですから。基本的にどこの団体様でも試合は可能ですわ。ほら、ヒナさんが先日ご覧になったDDTにも、しばしばおいでになってますのよ」
「DDT!? あの怖い人がDDTにですか!?」
「東京ドーム無観客試合なんか、最高でしたわ」
「だ、大丈夫なんですか? あんな凶悪な人の前でお尻なんか出したら、殺されません?」
「伊橋選手は殺されかけてらしたわね」
うふふーと、鳥子はおだやかに笑ってみせる。
「ち……」
かみしめた椿の歯の下から、耐えかねたようなうめきが漏れる。
「ちが……っ、違うもん。ボスはほとんど、8割、9割くらいは新日の人だもん」
ぶるぶる震える声に、鳥子は全く気づいていないようだ。
「ええ、確かにメインは新日本プロレスのリングね。でもボスがご自身のベストバウトの一つに挙げられているのはノアという団体様での一戦ですし、9割は言いすぎじゃないかしら、椿ちゃん」
崖乃下 椿が他団体を認めぬほど、偏愛する新日本プロレス。
しかし、彼女が心から愛する鈴木軍ボスは「新日のひと」ではないという事実。
この矛盾に、崖乃下 椿はどう折り合いをつけるかと言えば――
「なに……よ」
「えっ」
「なによ! ばかっ! 新日は最高だもん! ボスも最高だもん! なんでそんな意地悪言うの!? ばか!」
――幼児返り、だった。
顔を真っ赤にして地団駄を踏む椿に、鳥子はため息をついてみせる。
「椿ちゃん……。あなた昔から都合が悪くなるとかんしゃくを起こすんだから。もう子どもじゃないでしょう?」
「うるさいうるさいうるさい! 鳥子お姉ちゃんのばかっ! もう知らない!」
最後は涙声になった椿は、猛烈な勢いで扉からかけ出していった。
後に残されたのは、やれやれといった表情の鳥子と呆然と佇むヒナだった。
「ほんとにあの子ったらもう……」
「鳥子さん、あれって……」
「いいのよ、ヒナさん。放っておきましょう」
なんだろう。
学園の<女王様>の、下級生に最も恐れられる上級生の、見てはならない一面を見てしまったような気がする。例えて言うなら、極悪な最強悪役レスラーが実はお化けが苦手でした、みたいな。
「そんなことよりせっかくですから、一緒にボスのインスタでも拝見しません? ボスはSNSでの活動も活発でいらっしゃるのよ」
鳥子の優しげな声は、その後一緒に見た<世界一性格の悪い男>のインスタがあまりにもおしゃれすぎた件と合わせて、ヒナの頭を混乱に叩き込んだのだった。
おわり
<用語説明>
※実録マフィアンヤクザ…裏社会を生きる男たちの生き様を描いた映画。「実録マフィアンヤクザⅤ(2013年DVD発売)」には、なんとボスがご出演。ファン必携の逸品である。