第三試合 お嬢さまは新日がお好き<中>
コナ・コーヒー。
楽園の太陽に愛でられた豆の馥郁たる香りがジノリのカップから立ち上っている。
飴色のテーブルにミルクピッチャーをコトリと置いて、ヒナは本日12杯目のラテをソーサーと共に差し出した。
「今度は、どうでしょう?」
「きったないラテアート。あんた、全然、上達しないわね」
「はあ……」
「まあいいわ。辛うじてリーフに見えないこともないから、合格にしてあげる」
「どうも……」
なぜ自分が礼を言わなければならないのか。
11杯分のラテでちゃぷちゃぷ揺れる腹をさすりながら、ヒナはとりあえずその疑問を脇に置いた。
もっと聞かなければならないことがあったからだ。
「あのう、崖乃下さん?」
「なによ」
「わたしのこと、ラテをいれさせるためにお呼びになったんですか?」
ヒナと反対側のソファの端に座った崖乃下 椿は、心底あきれたような視線をよこした。
「バッカじゃないの、あんた。そんなわけないでしょう」
「ですよね。でもそれじゃなんで――?」
「あたしの話、聞いてなかったの?」
「すいません、ラテアート作るのに集中してて」
はーあ、と椿は深いため息をついた後、言った。
「じゃあ話を巻き戻すわよ。いい? インディーが悪いとは言わないわ。でも勘違いしないでよね。インディーはあくまでインディー。全ての団体を横一列に語って欲しくないのよ」
「あのう、崖乃下さん?」
「だから、なに!」
そろーっと挙手したヒナを、椿は不機嫌そうに睨んだ。
「さっきから、何の話をされてるんですか?」
「あんたが白瀬 鳥子のヌルいプロレスに浸かってるみたいだから、正しいプロレスの見方を教えてあげてるのよ。感謝しなさい」
「えっ」
ヒナはしばし考え込み、ややあって口を開いた。
「ひょっとして、あの、間違ってたら、ごめんなさいなんですけど、崖乃下さんも――」
ごくり、と喉を鳴らしてからヒナは聞いた。
「プロレス、お好きなんですか」
返ってきたのはすさまじい怒気だった。
「はあ!? あんた、あたしがプロレスが好きかって? そう聞いてるの!?」
「ヒッ。すいません!」
ちぢこまるヒナに、容赦のない怒声が降る。
「好きとか嫌いとかじゃないの! プロレスとは、生きる意味よ!」
「――アッ」
ヒナは目頭をおさえてうつむいた。
なんとなく、分かっていた答えではあったが。
「つまり……鳥子さんの同類なんですね」
「やめてよ!」
椿は威嚇する猫のように牙を剥いて見せた。
「一緒にしないで! あの女、プロレスならなんでもいいんだから。節操ないのよ」
「そんな。いいじゃないですか、好きなんだから」
鳥子はヒナにとって敬愛する先輩だ。思わずかばう言葉を口にしたヒナに、椿は思いっきりバカにしたような視線を向けた。
「言ったでしょう。全ての団体を横一列で語ってもらっては困る。世界最高の団体はDDTじゃない。もちろん、WWEでもROHでも全日でもドラゲでも、他のどこでもない。最高のプロレスが見れる団体はただ一つ――」
椿は、うっとりと口角を上げた。恋する男の名を呟くように――否、神の名を唱える信徒のように、唇に熱をのぼらせる。
「――新日本よ」
「へー」
こぶしを握りしめて天を仰ぐ椿と、新たに煎れたコーヒーをすするヒナ。
ずずず、と間抜けな音だけが部屋を支配する。
「……ちょっと」
「はい?」
「……なんか、こう。もうちょっと、ないの? コメントとか」
「はぁ」
うーん、とヒナは首をひねった。鼻の下にはミルクの泡がついている。
「えーと、しんにほん? ってプロレスしてたんですね」
「そりゃ……当たり前でしょう」
「ふーん。お船の会社がプロレスなんて意外ですねー」
「――は?」
椿に走ったなにかしらの衝撃に気づかず、ヒナはおかわりのコーヒーを注ぐ。
「わたしもこないだ乗りましたよー、新日本海フェリー」
でも船内でプロレスなんてしてませんでしたよー、あっ、お船の中ではしないか、揺れて危ないですもんね、そう言えばお兄ちゃんが船酔いしちゃってこれがもう大騒ぎで――。
のんきに家族旅行の思い出を語るヒナはまだ気づいていない。椿の体は、熱病にでもおかされたように揺れている。
「ちょっとおおおっ!」
「はいいいい!?」
すさまじい勢いで胸ぐらをつかまれて、ヒナはのけぞった。
「ま、ま、まさかと思うけど新日本知らないの?」
「知ってますよ! だから、フェリーの会社……」
「違うわよ! 新日本! 新日よ! 新日本プロレスリング!」
「しんにち……?」
鼻先三センチに迫った顔に寄り目になりながら、ヒナは必死で考えを巡らせた。
「そ、そう言えば、鳥子さんが、なんか、そんな名前を言ってたような、気も……」
「うっそでしょ……」
椿の体が、がくりと力なく崩れ落ちる。
「新日を……日本最大の団体を知らないなんて、白瀬 鳥子は一体、どういう教育をしてるの……。そりゃ、維新軍や闘魂三銃士までさかのぼれとは言わないけど……」
うつむいて流れた髪の隙間から、ぎらつく目がヒナを睨んだ。
「ほんとに知らないの? レインメーカーとか、タナハシとか、聞いたことない?」
「雨……と棚………ですか?」
答えたとたんに、椿はソファに突っ伏してしまった。
「タイガーマスクとか! 獣神サンダーライガーとか! そうだ! 猪木なら知ってるでしょ!?」
「いのき……ああ、芸人さんが、よくモノマネをしてる? アゴがウィーってなったひと?」
「もおおおおお! そうだけど! モノマネって! アゴって! そうなんだけど!」
とうとう椿はソファの上で転がり始めた。
――なんだか、とても悪いことをしてしまったような気になる。
人のいいヒナは、静かに焦った。
「えっと、えっと……。あっ、蝶野さんは知ってますよ! あと、ま……ま……真壁さん!」
ぴたりと椿の回転が制止した。
「……真壁、知ってるの?」
どうやら、なにかの琴線には触れたようだ。
勢い込んで、ヒナは続ける。
「金髪の、おっきい人ですよね。うちのおばあちゃんが、真壁さんのスイーツ紹介の番組が好きでよく一緒に観るんです!」
「すいーつ……」
「お話おもしろいですよねー、真壁さん。服のセンスもかわいくておしゃれさんだし」
「おはなし……ふくの……せんす……」
ゆっくりと、恐ろしいほどにゆっくりと、椿は体を起こした。赤い唇がささやくような声で、なにごとかを呟き続けている。
「そう、そうよね。しょせん、お茶の間の認知度なんてまだまだこんなものよ。こんなとこでくじけちゃダメ、椿。がんばれ、椿。風になれ、椿」
ばさりと長い髪を舞い上がらせて、椿は伏せていた面を上げた。切れ長の目がヒナを見据える。
(あっ、涙目)
「――いいわ。わかったわよ。あんたみたいな愚かで無知で救いようのない衆愚を啓蒙するのも選ばれし者の役目」
「おろかでむちですくいようのない」
「そう、いわばノブレスオブリージュ」
セルリアンブルーのネイルに彩られた指を椿は軽くはじいた。ぱちん、と小気味のいい音が鳴る。
とたんに、かすかな機械音と共に、何かが天井から降りてきた。幅3m近くもありそうな白い幕――否、これは。
「スクリーン……?」
ヒナが呟くのとほぼ同時に、部屋の扉が開いてメイドが台車を押して入ってきた。台車の上に据えられているのは、たまに学校の授業でも使うプロジェクターだ。
「あっ、どうも。お邪魔してます」
「挨拶とかいいから! こっち見る!」
びしっ、という音につられてヒナはスクリーンの方を向いた。
椿はいつの間にかスクリーンの横に移動していた。手には銀色の指示棒、鼻の上には黒縁のメガネ。
「1972年3月6日――」
おごそかに椿が言葉を紡ぐ。遮光カーテンが静かに引かれ、部屋は薄暗がりに包まれた。
「この日、福音がもたらされた。人類の歴史に刻まれるべき伝説の日。新たなる船出の日。この日、なにが起きたか分かるわね?」
「えっ? えっ? 72年、ななじゅうにねん……。あっ、明治維新!」
「違うわよアホっ! 日本史むちゃくちゃじゃないアホっ! ……まあ、<維新>っていう言葉は嫌いじゃないけど」
軽く咳払いをして、椿は続ける。
「この日、ひとつの試合が行われたわ。場所は大田区総合体育館。メインイベントはアントニオ猪木VSカール・ゴッチ。そう――」
プロジェクターから、一筋の光がスクリーンに向かって放たれた。
映し出されたのは赤い縁取りに飾られた、黄金色のライオンのマーク。
「――新日本プロレスリングの旗揚げ戦よ」
託宣のように放たれた言葉と共に、スピーカーからアップテンポな曲が流れ出す。人の心を強く震わせ、高みへと連れてゆく、その曲。
「旗手はもちろん、アントニオ猪木。山本小鉄、木戸修、柴田勝久、魁勝司――藤波。爾来、47年の時が流れた。栄光の日々も、苦難の時代もあった。冬の時代、暗黒期、プロレスは終わったなんてささやかれた時も――くっ」
「……崖乃下さん、な、泣いてるんですか」
「うるさい!」
椿はレースのハンカチ乱暴に目元を拭った。
「でも、そんな辛い日々は過去のこと。彼らは厳しい冬を乗り越えた。2019年現在、彼らはドームを埋め、城ホールを埋め、そして、そして、ついにプロレスの聖地・MSGにまでのぼり詰めた! 今や誰にはばかることもなく言えるわ! 日本――いえ、世界最高の団体は新日本プロレスであると!」
ハンカチをびしゃびしゃに濡らし、椿は指示棒でスクリーンを叩いた。映し出された画像が切り替わる。大きなビルを遠景から写したものだ。
「去年は過去最高利益を更新。ごらんなさい、東急目黒ビルにこんな立派なオフィスまで構えたのよ」
画像はさらに切り替わる。スーツ姿の男性だ。壮年の外国人で、穏やかな笑みを浮かべている。
「こちらが新日の最高経営責任者、ハロルド・ジョージ・メイ代表取締役。通称ハロルド社長。日本で二番目に有名なメイちゃんと覚えなさい。2018年の就任以来、高い経営手腕と精力的なファンサービスで新日オタのハートを奪った愛されCEOよ。特技は企業の立て直しとコスプレ。試合会場で遭遇するとステッカーがもらえるわ。レアポケモン的存在ね」
三度、画像が切り替わる。薄緑色の屋根が特徴的な大阪城ホール。大阪城をバックに濃い木々に囲まれた大きな建物だ。
「社長が初めてファンの前に姿を現したのは2018年夏のビッグマッチ・城ホールでのことよ。試合開始直前、テンションMAXのホールで唐突にVTRが流れて。『え? サプライズ?』、『誰か新規参戦すんの? 聞いてへんけど!?』、『カード変更ちゃうやろな』ってざわつく客の前に披露されたのが、まさかの社長煽りVのよ。しかも寸劇仕立てよ。そりゃツッコんだわよ。客が全員。全力で。『お前のんかい!』言うて。ああ、もちろんツッコミは愛なんだけど、関西的には。そのあとの現役選手もびっくりの華麗なリングインでの登場とあわせて、あの日、ハロルド社長は城ホールをさらったわね。笑いにシビアだと言われる関西勢を前にあれだけの歓声と爆笑を巻き起こしたのは、さすがと言うしかないわ。そうそう、社長は公式サイトで<ハロルドの部屋>っていうコラムを連載しているの。あんな風にフロント側の声を直接的に届けてもらえるのはファン的には嬉し――」
立て板に水と流し続けていた言葉の洪水を、椿は唐突に止めた。
緩慢な、しかし美しいフォームで右手を振りかぶる。弧を描いた腕から銀の光が一閃、すさまじい速度で放たれ、そして――
「ぎゃああああっ!?」
「寝るなアホ!」
「なっ、ちょっ、危なっ!」
銀の指示棒はソファの背、ヒナの頸動脈の至近距離に突き刺さって黒い煙をあげた。
「なんで寝てんのよ! 聞きなさいよ!」
「すいませ……。薄暗くて、気持ちよくて、つい」
「どこまで聞いてたの!?」
「日本で二番目に有名なメイちゃん、くらいですかね」
「序盤!」
じゅる、とよだれをぬぐって、ヒナは眉を下げた。
「だ、だって、歴史の授業みたいだったんですもん……」
「授業ならなおさら起きてなさいよ!」
「無理ですよぅ。わたし、午後の授業はお昼寝タイムって決めてるんです」
「あんたなんのために学校来てるの!?」
椿は頭痛を抑えるようにこめかみをもんだ。
「いいわよ、わかったわよ。あんたみたいなアホの子に、この厚い、熱い歴史を理解しろってのが土台無理な話だったのよね」
言いながら、椿はワイヤレスキーボードを取り出した。いつだったか、鳥子が使用していたのと同じ物のようだ。
「プロレスってほんとは<点>で見るより、流れや因縁を踏まえた<線>で見た方が絶対おもしろいんだけど……」
椿の操作にあわせてスクリーンにインターネットブラウザが立ち上がる。
「あっ、なにか試合見るんですか?」
「よく分かってるじゃない」
椿が少しだけ気をよくしたように片眉を上げて見せた。
「前に鳥子さんに動画配信サービス?っていうのでDDTの試合を見せていただいたことがあって」
「あの女……、ほんっとあらゆる動画サービスに入ってるわね。節操のない。――これは新日本プロレスの動画配信サービス<新日本プロレスワールド>よ」
「でもなんで急に試合見るんですか?」
椿は操作の手を止めないまま、切れ長の目をちらりとヒナに向けた。
「動きがある方が、あんたも眠くならないでしょ?」
「えっ」
「肝心なのはどの試合にするかだけど……。やっぱり二年連続プロレス大賞受賞のオカダ・カズチカVSケニー・オメガ? いいえ、あれはちょっとすさまじすぎるわね。すさまじすぎてこの子吐くわね、多分。じゃあTHE鉄板カードの内藤VS飯伏? ダメダメ、この子が真似したくなったらマジ危ない、あれは。劇薬だもの。天龍引退試合……ダメ、あれはあたしが泣く。じゃあジュニア? オスプレイならどれでもハズレ無しの神試合よね。まあハズレ無しって意味なら石井ちゃん。うーん、初心者向けならもっとわかりやすーい構図の方がいいのかしら」
セルリアンブルーの爪をあごに当てて、椿は真剣に考え込んでいる。
「あの、崖乃下さん……」
「うるさい! 今、あんたにぴったりの試合考えてるんだから邪魔しないで!」
「すいませ……ん?」
(い、意外に気づかいの人なんだね、崖乃下さん)
ヒナが18杯目のラテに完璧なリーフを描き終えたのと同時に、椿はようやく口を開いた。
「――うん、決めた」
キーボードを叩く軽やかな音。エンターキーを叩いてから、椿はソファに座るヒナの横に腰かけた。
つづく