第二試合 お嬢さまと基本のルール
ウバ紅茶の香りは芳醇で華やかだ。
強い味わいのその茶葉が選ばれたのは、今日のお菓子がチョコレートであることを計算に入れてのものだろう。親指の先ほどのトリュフは、今、銀器の上で山を成している。こっくりと濃いカカオ色の宝石は、口に入れたとたん愉悦にも似た甘さをもたらす。
「うわあ、おいしい……!」
ふくらんだ頬を両手で包んで、緑川 ヒナは幸福そのものの笑みを浮かべた。
「これも鳥子さんの手作りですか?」
「ええ。<スクールボーイ>という名前ですの。小さく丸まった感じが、こう、似ているとお思いになりません?」
優雅にカップを傾けて微笑むのは、白瀬 鳥子。
今日も今日とて、ヒナは鳥子の招きで<舞藤館>を訪れている。
館で待つのは極上のお菓子とお茶、麗しい上級生の笑みとそして――プロレスだ。
「さて、さっそくですけど、観戦と参りましょうか。今日の試合はすごいですわよ。超ビッグマッチですわ。内藤選手の試合なんですけど、このかたのバンプは本当に超一級品で……」
鳥子がいそいそとワイヤレスキーボードを叩き、部屋に据えられた巨大なTVモニターに表示されたブラウザを操る。
その楽しげな横顔に水を差すのはためらわれたが――。
「……あのう、鳥子さん」
「なにかしら」
「今さら、こんなこと言うのって申し訳ないんですけど……」
スカートの上に追いた手を所在なく組み替えていると、鳥子がはっとしたように両手で口をおさえた。
「まさか……プロレスがおいやになった!? ああ、なんてこと! わたくしのせいね!」
「い、いえ、そうじゃなくて!」
ヒナは慌てて言いつのる。
「わたし、実は未だにプロレスのルールってよく分かってなくて……。あの、相手の人をやっつけたら勝ちっていうのはわかるんですけど、ほんと、それくらいで……」
己のふがいなさが情けなく、ヒナは目を伏せた。鳥子は、あれほど親切に色々と教えてくれたというのに。『プロレスのこと、勉強します!』なんて大見得を切った自分。早々にそれを裏切ったヒナを鳥子はどう思うだろう。きっと、軽蔑されてしまう。
肩を落として自分の爪だけを見つめていたヒナはしかし、あまりにも長い沈黙に、おそるおそる顔を上げた。
「あの鳥子さ――!? ととと、鳥子さんっ!?」
が、ヒナの視界に入ってきたのは冷たい軽蔑の眼差しではなく、プリーツスカートを花びらのように広げて床に倒れ伏す姿だった。
「いやあああっ! 嘘! 鳥子さん! しっかり!」
「ああ……。ヒナさん」
ヒナに肩を抱かれて助け起こされ、鳥子が閉じていた目をゆっくりと開く。
「ごめっ、ごめんなさい! 勉強しようとは思ったんです! でもテスト前でどうしても時間がとれなくて! 今度も数学で20点以下だったら、補習だし、おこづかい減額だし、お母さん怖くて……っ!」
「いいえ、ヒナさん」
鳥子がそっとヒナの手をにぎった。その氷のような冷たさにヒナの背筋が震える。
「謝らなくてはいけないのはこちらのほう。自分という人間に嫌気が差しますわ」
「鳥子さん?」
「わたくしったら、あなたにプロレスの基本ルールをお教えすることを忘れていなんて! いくら舞い上がっていたからって、なんて自分勝手な! こんな体たらくでよくも<プロレスの魅力をお伝えする>なんて大見得を切れたものですわ! ヒナさん、どうぞわたくしをなじってちょうだい! 蔑んでちょうだい!」
「いや、そこまでの、ことじゃ……」
あふれ出る涙をぬぐいもせず、鳥子は言葉を続ける。
「ヒナさん、わたくしに挽回のチャンスをいただけて?」
「も、もちろん」
断ろうものなら、鳥子は自責の念で舌でも噛み切りそうだ。
「ありがとう、ヒナさん。わたくし、全霊を賭してこの失態を償ってご覧にいれますわ」
「いえ、ですから、そこまでのことじゃ、ない……」
すっくと立ち上がった鳥子の凜とした背に、もはやヒナの言葉は届かない。
午後の柔らかな日差しに満ちた舞藤館の居室。ヒナはちんまりとソファに腰かけている。
先ほどまで部屋の主役であったTVモニターは、まるで初めから存在しなかったように取り去られている。
(どこからともなく、すごい人数の執事っぽい人が現れて片付けてった……。どこに隠れてたんだろう……。ていうか執事、初めて見た……)
代わりに、ヒナの目の前には、テーブルを挟んで大きなホワイトボードが出現していた。
(すごい人数のメイドっぽい人が運び込んできた……。メイド……ファンタジーの存在じゃなかったんだ……)
「お待たせしました。ヒナさん、今日は趣向を変えて<第一回 初めてのプロレス講座>を開講しましょう。わたくしが先生役、ヒナさんが生徒役ですわ」
ホワイトボードの横に立つ鳥子の白い顔には、黒縁のメガネがかけられている。鳥子は曰く「元井さんリスペクトですわー」だそうだが、ヒナにはよくわからない。鳥子が楽しそうなのでよしとしよう。
「は、はい! よろしくお願いします、先生!」
「そう固くならないで。ただ授業をするだけではヒナさんも飽きてしまわれるでしょうから、クイズ形式にいたしましょうね。クイズに一問正解するごとに、この<スクールボーイ>を差し上げますわ。がんばってくださいね!」
サイドテーブルの上には、輝くトリュフが山のように積まれている。
「さて、それでは第一問ですわ! プロレスの試合の<勝ち>と<負け>はどのように決まるでしょうか?」
「えっと……」
ヒナはあごに手を当て、しばし考えてから言った。
「相手のひとを、やっつけたら……?」
「正解! さあ、ごほうびをどうぞ」
ヒナの目の前の白いお皿にトリュフが一粒、供された。
「解説をいたしますわね。どうぞ召し上がりながらお聞きになって」
おほん、と小さく咳払いをして、鳥子は続ける。
「例えば、Aという選手とBという選手がいた場合、AがBの<両肩をマットに押しつけて3カウント>を取られると、Aの勝ちになりますわ。逆もしかりですわね」
「3秒ですか? 短いんですね」
「まあ! 素晴らしい点にお気づきですわ! もはやこれは正解扱いですわ!」
トリュフがまた一つ、皿に載せられた。ちなみに、給仕しているのはメイド服の女性だ。見事なまでに気配を消し去っていたので、ヒナは今、彼女の存在に気づいた始末だ。
「<カウント>と<秒>は、全く別物ですのよ。3カウント=3秒ではありませんわ。このカウントの長さは、レフェリーの裁定に従います。ちなみに、レフェリーがなんなのかはご存じかしら?」
「白と黒のシマシマの服を着てて……、舞台……えっと、リングの床をよく叩いてる、審判? のひと……」
「正解ですわ!」
また一粒、トリュフが増える。
「まさにその<レフェリーがリングのマットを叩く>行為が<カウントを取る>ということですわ」
「つまり、相手をぎゅーぎゅー床に抑えつけた状態で、レフェリーのひとが3秒……じゃなくて3カウント数えたら、抑えてる方の勝ちなんですね」
口の中の濃厚な甘さにうっとりしながら、ヒナは確認した。
「その通り! これを<フォール>、<ピンフォール>、<抑え込み>と呼びます。最もオーソドックスな勝利条件ですわね。そして、選手がフォールに行くために相手を押さえ込む技を<フォール技>といいます。もちろん、抑え込まれている選手だって負けたくはありませんから、なんとか3カウント以内に肩を上げて<返そう>としますわね。キックアウトして派手に跳ね返る場合もあれば、片方の肩をほんの少し上げるだけ選手もいらっしゃいます。どのタイミングで、どのように技を返すかも、見所の一つでしてよ。――でも、勝敗条件はこれだけじゃありませんのよ」
きゅぽんと音を立ててペンの蓋を外し、鳥子はホワイトボードに向かった。白い盤面に書かれたのは、<場外カウント>、<ギブアップ>、<反則行為>の項目。
「<場外カウント>というのは、<選手が場外にいる状態で取られるカウント>のことです。プロレスの戦いというのは基本的にリングの上で行われます。プロレスラーがリングにいない状態でレフェリーに20カウント数えられてしまうと、その選手は負けになります。新日の矢野選手なんかは、対戦相手をリング外の鉄柵にテープでぐるぐる巻きにしてリングに帰ってこられないようにし、この形での勝利を狙ったりなさいますわ」
「テープでぐるぐる巻き!? ……いいんですか、それ」
「矢野さんですから、問題ないですわ」
問題――ないのだろうか、本当に。
鳥子は上機嫌で続ける。
「次に<ギブアップ>についてですけど……これは言葉で説明するより実際にごらん頂いた方がいいわね」
鳥子がぽんぽんと軽く手を叩くと、部屋の扉が開いた。入ってきたのは男性が二人。
(……さっきの執事っぽいひとたちだ)
双子のようにそっくりかつ特徴のない彼らは、よく見ればタイの色のみ違っている。片方は青で、片方は赤。
「仮に彼らをプロレスラーだとしますわね。こっちの青いタイを<青太郎>選手、赤いタイを<赤太郎>選手といたしましょう」
(ネーミングが……雑)
鳥子が軽く目配せをすると、二人の執事――選手は、すぐさま行動を開始した。青太郎の後ろにまわり込んだ赤太郎が、自分の右腕を青太郎の首に巻き付けるようなポーズを取る。
「これは<スリーパーホールド>や<裸絞め>と呼ばれる技です」
「……後ろから、抱きつく技ですか?」
「まあ、いいえ。これではまだわかりにくかったかしら? ――赤太郎さん」
鳥子に呼びかけられたことで、赤太郎の腕に力がこもった。首をぎりぎりと締め上げられる。瞬時に青太郎の顔に太い血管が浮き出た。
「ヒッ! な、なにしてるんですか! 首なんか絞めたら窒息しちゃう!」
「さて、ここで問題です!」
ぎりぎりぎりぎり、という不穏な音をバックに、鳥子は軽やかに出題した。
「青太郎選手は今、どんな気持ちでしょう? ヒナさん、お答えになって!」
「は? そんなの、息ができなくて苦しいに決まってるじゃないですか! 鳥子さん、クイズなんてしてる場合じゃ――」
「正解ですわ! さすがヒナさん!」
鳥子がはしゃいだ声をあげた。メイドの女性が、無表情でまたひとつ、トリュフをヒナの皿に載せる。
「スリーパーホールドは相手の頸動脈もしくは気管を詰まらせる技ですわ。トラディショナルな技ながらも未だに多くの使い手に愛される理由は、その伝わりやすさとダメージの確実性だと思いますのよ」
「鳥子さん、だから解説してる場合じゃないです! 青太郎さん、本当に死にますよ!?」
青太郎の顔色は、深紅から蒼白へ、そして土気色へ、華麗な変貌を遂げている。
「そうなんですのよ、死ぬほど苦しい技ですの。ですからそんな場合は――」
鳥子が軽くうなずくと、青太郎の手が己の首を絞め上げている赤太郎の腕を叩いた。抵抗ではなく、何かの合図のように。
とたんに赤太郎の腕の力が揺るんだ。
「こんな風に相手の体の一部かマットを叩いて<降参>の意思を伝えます。<タップアウト>ですわね。ギブアップの宣言ですから、当然、タップした選手の負けです。また、選手自身がタップしない場合でも、選手が失神したり、あるいは状況が危険ぎるとレフェリーが判定し試合を強制的に終了させた場合も、勝敗が決しますわ」
赤と青の二人の執事は、何事もなかったかのように直立不動の姿勢に戻った。青太郎の顔色は戻ってはいなかったが。
「さて、最後に反則についてです。ヒナさんはプロレスにおける反則行為にどんなものがあるか、ご存じかしら?」
「ええと、凶器攻撃っていうのがあるんですよね?」
「まあああっ! エクセレントですわヒナさん! 大正解ですわよ! よくお勉強なさっているわ」
「そんな。前にテレビでやってるのを見たことがあるだけです」
大げさに褒められて、ヒナは「えへへ」と照れ笑いした。メイドがトリュフをさらに三個、ヒナの皿に盛る。
「そう、おっしゃるとおり<凶器>を使った攻撃は、特殊な場合以外、基本的には禁止です。凶器を使うと<反則負け>を取られてしまいますわ。メジャーな凶器としてはパイプ椅子や木槌があげられます。珍しいところでは矢野選手ですわね。コーナーマットを外して凶器として使用なさいますわ」
「コーナーマット?」
「コーナーポスト……つまり、リングの四隅の支柱にセットされた長方形のクッションですわ」
「リング壊してるじゃないですか、それ! いいんですか!?」
「YTRですから、問題ありませんわ」
「でも、そんなのすぐ反則負けになっちゃうんじゃ……」
ヒナの疑問に返ってきたのは、全てを受容するような笑みだった。
「ふふ……、よくぞ気づいてくださいましたわ。あなたはなんて素敵な生徒さんなのかしら」
トリュフが、さらに三個。
「先ほど申し上げた3カウントしかり、場外20カウントしかり、リングの全権を握るのはレフェリーなのです。この反則行為もまた、判定はリング上の神たるレフェリーが行うのです。この意味がお分かりになって?」
トリュフをつまみながら、ヒナはしばらく考え込んだ。
「……ごめんなさい、分からないです」
情けなさそうに眉尻を下げたヒナに、鳥子が贈ったのは小さな拍手だった。
「ええ、ええ。それでいいんですのよ、ヒナさん。練習生はそうでなくては。鬼謀を巡らすには早すぎますわ」
トリュフが、五個プラスされる。
「もう一度申し上げますわね。リングの上でレフェリーは神。全権を握り、裁定を司る、まさしく全能の存在。しかし、受肉した神は悲しくも定命たる人の子。<全知>ではないのですわ。――つまり、神の目を盗むことは十分に可能なのです」
桜色の唇が妖美な弧を描く。濡れた瞳の奥には、狐火にも似た、炎。
「どういう、ことですか……?」
気圧され、声が震えた。
ふふ、と小さな笑みを漏らし、鳥子は言う。
「では、実際にご覧になって」
鳥子の言葉が終わらないうちに、控えていた赤いタイの執事が何かを取り出し――
「ギャーッ! なにやってるんですか赤太郎さん!」
その<何か>で相方である青太郎の頭を殴り始めた。
断続的に鈍い音を響かせるのは、木槌による殴打だ。
「今、赤太郎選手は青太郎選手に凶器を用いた反則攻撃を行っています。当然、レフェリーは止めに入りますわよね。今はわたくしがレフェリーだと仮定しましょう」
鳥子は小走りで二人にかけより、
「1!、2!、3!、4!」
と、カウントを始めた。
「5」の数字が鳥子の唇から発せられる直前、赤太郎はぱっと殴打を止めた。
「お分かりになったかしら? 今、赤太郎選手は4カウントで凶器攻撃を止めましたでしょ? これでは、<反則による失格>は裁定できません」
「反則負けにならないんですか!? 凶器攻撃なのに!?」
「ええ。5カウント以内に限り、失格にはなりませんのよ。そしてここからが肝心なのですが――」
再び殴打が開始された。ごん、ごん、ごん、と嫌な音が響き渡る。
「ウワーッ! とっ、とめてください、鳥子さん!」
ところが、鳥子はなぜか凶器攻撃に背を向けている。わざとらしく口笛まで吹いての「気づいてませんよ」アピールだ。
「なにしてるんですか、鳥子さん! ほら、反則ですよ!」
鈍い音は続いている。鳥子はよそを見続けている。
「反則ですってば! カウントカウント!」
ようやく、鳥子が振り向いた。
「さて、このように――」
鳥子の言葉と共に、木槌の音がぴたりとやんだ。
「レフェリーが反則に気づかなかった場合は失格とはなりません。裁定者であるレフェリーが気づいていないなら、反則行為は<なかった>も同然ですわ」
「そんな! そんなの不公平です! 反則が反則負けにならないなんて、卑怯じゃないですか!」
「ヒナさん……あなた、本当に完璧な反応をなさるのね」
鳥子は感極まったように、熱いため息をこぼした。
メイドはもはや、わんこそばの速度でトリュフを盛り続けている。
「そこがプロレスの面白いところなのです。悪役レスラーの中には、あの手この手でレフェリーの目を盗もうとするかたもいらっしゃいますわ。例えば場外乱闘をしてレフェリーの気をそらしたり、逆側のコーナーでわざと派手な反則行為をしてレフェリーの目を引きつけたり……。ヒールの深謀遠慮が光る見所でしてよ。デスペ・金丸組なんかはめちゃくちゃ巧者でいらっしゃるの。わたくし、このお二人のタッグワーク大好き」
「わ、悪いことですよ、そんなの」
「悪いですわよー。素敵ですわよー」
うふふふふ、と鳥子は目を細めた。納得できないヒナは、トリュフで頬をふくらませたまま唇を尖らせる。
「レフェリーのひとはちゃんと見てなきゃダメですよ。反則なんだから、怒らないと」
「ええ。やりすぎてレフェリーに超キレられる場合もありますわね」
「キレ……?」
「恐ろしいですわよ、レフェリーを本気で怒らせると。冷静で温厚な人ほど怒らせたら怖いって、わたくし、リングで学びましたわ」
まさに<神の鉄槌>ですわ――呟いた鳥子は、どこか遠い目をしている。
「さてと。この<3カウント>、<場外カウント>、<ギブアップ>、<反則>を理解していれば、ベーシックな試合は楽しんでいただけると思いますわ。――ああ、そうだ!」
鳥子はぱん、と軽く手を打ち鳴らした。
「最後にこれだけはお教えした方がいいですわね」
鳥子はペンのキャップを取り、ホワイトボードに近づいた。新たな項目がさらさらと書き加えられる。
「ろーぷぶれいく?」
書かれた文字を一本調子に読み上げたヒナに、鳥子は軽くうなずいて見せた。
「はい。わたくしも始め、この<ロープブレイク>の仕組みが分からなくてとまどったんですの。なんで途中で試合が止まるのかしらって。そうね、これも実際にごらん頂いた方がいいわね」
「えっ!? ご、ごらんいただかなくていいです! 言葉の説明でじゅうぶ――ああぁーっ! 青太郎さん!」
止める間もなかった。
すぐさま床にうつぶせになった青太郎に、赤太郎が後ろを向いてまたがる。赤太郎はそのまま青太郎の両脚を自分の両脇の下で抱え、腰を落とした。青太郎の背が海老のように反る。
「これは<逆エビ固め>、別名<ボストンクラブ>という技です。比較的ポピュラーな技ですわ」
「ギャーっ! 折れる折れる! 腰が! 逆に! ぐねって!」
「その通り。腰と背中に大きなダメージを与えられる技ですの。この状態になると、技をかけられている選手はどうにかして抜け出したいわけです。ならばどうすればいいかというと――」
鳥子がホワイトボードの足を指さした。
「ここがロープだと仮定しますわよ。そうそう、ロープというのリングの四辺に張られた三本の縄のことですわ。上からトップロープ、セカンドロープ、サードロープと呼びます」
「わわわ、分かりました! 分かりましたから早く!」
無機質な青太郎の額には、びっしりと汗が浮いている。ヒナは義務感にかられた。一刻も早く鳥子の話を終わらせなければ。
「逆エビから抜け出す方法は様々ですが、そのひとつがロープにタッチすることですわ。こんな感じで」
鳥子の言葉と共に、青太郎が動いた。腕立て伏せの要領で上体を起こし、腕の力のみで、自身を押さえつける赤太郎ごと前進する。ホワイトボードまでたどり着いた青太郎は、伸ばした手でホワイトボードの足をつかんだ。
「はい、ここにご注目ですわ。選手がロープにタッチしましたでしょ? こういうときレフェリーは……」
鳥子は小走りに二人に近づいて、早口に宣言した。
「ブレイク!」
赤太郎がぱっと手を離す。青太郎の背と腰は、ようやく通常の形に戻った。
「このようにいずれかの選手の体の一部がロープ、もしくはロープ外に触れた場合は技を解除しなくてはなりませんの。乱暴に言うと<仕切り直し>ですわね。これを<ロープブレイク>といいます」
「そ、そうなんですか……」
ヒナは冷や汗をしたたらせながら、横目で二人の太郎を見やる。哀れなことに、青太郎は未だ立ち上がれないでいた。
構わず、鳥子は続ける。
「このブレイクの宣言もレフェリーが行います。善玉のレスラーならレフェリーに言われるまでもなく技を解除することも多いんですけど、悪役となると話が違ってきますわ。さっき言ったとおり、巧いヒールはレフェリーの目を誤魔化すことに長けていらっしゃいますから、ロープブレイクがなかなか行われないこともあります。実際にお見せしますわね」
「へっ!? いや、だから、実際にお見せいただかなくても――」
ヒナの言葉を最後まで聞かず、鳥子はおもむろにメガネを取った。
「あらー、困っちゃいましたわー。レフェリーの目にゴミが入っちゃいましたー」
わざとらしい棒読みをしてみせる鳥子の後ろで、再び青太郎の背がCの文字を描いて反り返った。教科書にそのまま載せたいような、美しい逆エビ固めだ。
「わあああっ!? 鳥子さん、後ろ! 止めてください!」
背と腰をぎりぎりまでしならせた青太郎の震える手は、必死でロープたるホワイトボードの足をつかんでいる。が、<ブレイク>の宣言は行われない。
「これじゃなにも見えませんわー。後ろでなにが起きてるかなんて、分かるはずもありませんわー」
「ブレイクですよ! ブレイクブレイク!」
「目がー、目がぁー」
青太郎の体はCを通り越し、もはやVの字に近い状態になっている。明らかに、人体が実現してはいけない角度だ。
たまらずヒナは立ち上がり、二人を止めるために駆け寄ろうとした。母校を事件現場するのは避けたい。なんとしても。
が、しかし。
「あっ。ヒナさん、それはダメですわよ!」
「なんで、だって、止めないと、あのひと死――」
鳥子は両手を腰に当てて怖い顔をして見せた。擬音にするなら「ぷんぷん」だろうか。
「わたくしだって、一プロレスファンですもの。ヒナさんのお気持ちは分かりますわ」
「は?」
「プロレスを見てると……、特に素晴らしい技を見たときなんか、自分でもその技をかけたりかけられたりしたくなりますわ。ヒナさんが赤太郎さんと青太郎さんに混じりたい気持ち、わたくし、よく分かってよ」
「は? は? は?」
「でも、プロレス技というのは必ず危険が伴うものなのです。素人が安易に真似をするのは、絶対にいけません。あれはきらめくような才能に血のにじむような修練を重ねたかたたちであればこそ、なのです。良い子は真似をしてはいけないのですわ」
「は? いや、違っ――」
「あのお二人も、ああ見えて我が家の道場で十数年の修行を積んでいるのです。ですから、ね? ヒナさん、わたくしとお約束して。プロレス技をみだりに真似したりしないって」
「わ、分かりました、分かりましたから、止めてください! あああっ、青太郎さん、口から泡を、泡を!」
「ええ、ええ。それ以上おっしゃらないで。わたくしだってかけられてみたいですわ、<オリエンテーリングウィズナパームデス>」
「名前長っ――じゃなくて、止めてってば!」
「あれは異次元複合関節すぎて、どこが極まってるんだか極まってないんだか見てるだけじゃほんとに分から――」
「レフェリー! 後ろ見ろって!」
表情のないメイドは、もはや面倒になったのか、手にした銀器を傾けてザラザラと皿にトリュフを流し込んでいる。
ザラザラ、ぎりぎり、ザラザラ、ぎちぎち。
部屋に響く不穏な音ども。
どうか「ぼきん」だけは聞こえませんように、と。
ヒナはただ、夢中で祈った。
おわり