第一試合 お嬢さまはDDTがお好き
聖シーニュプローズィ女学院の一角、白樺の木立に守られるようにして建っている瀟洒な木造建築の名を<舞藤舘>という。
緑川 ヒナがその建物を訪れるのは三度目だった。
舞藤館は限られた特別な生徒のみ使用が許可されている。
ヒナは<特別>などでは全くない。平凡で没個性、取り柄と言えば人畜無害なことくらい。我ながら、そう思っている。
その彼女がなぜ、この白亜の館をたずねたのかといえば、単純に、招かれたからに過ぎない。
招いた人の名は、白瀬 鳥子。
良家の令嬢など珍しくもないこの学院においてなお、<孤高の白薔薇>と賞され、憧憬と羨望を一身に集める上級生だ。本来、一般大衆代表たるヒナと接点などあろうはずもないのだが、奇妙な偶然と勘違いが彼女たちを結びつけた。
(鳥子さんがプロレスのファンだったなんて……)
白瀬 鳥子とプロレス。取り合わせの違和感がものすごい。例えるなら、ふわふわのクリームブリュレの下に極厚のレアステーキが隠れてました、みたいな。スイーツもステーキも美味しいが、ごっちゃにするのはいかがなものか。
しかし、そんな衆愚の思惑などおかまいなしに、白薔薇は宣言した。
『絶対にプロレスの魅力を伝えてみせる』と。
正直、ヒナはプロレスにいいイメージがない。プロレスも含め、格闘技全般が苦手だ。だって、殴ったり殴られたりするなんて、怖い。単純に。
それにルールも難しそうだ。<相手を倒したら勝ち>なのだろうけど、他にも細かい決まりがきっとたくさんある。ハードルが高い。
だが――。
プロレスについて語るときの、鳥子の幸福感に満ちた笑顔、子どものようにはしゃぐ様を大切にしたいと思ったのも、また事実だった。
そうして、ヒナは今日も金色の獅子がくわえたノッカーを手に取る。
かぁん、かぁん、かぁん、かぁん。
開幕の音は、ひたすらに高らかだ。
「いらっしゃい、来てくれて嬉しいわ。お出迎えできなくてごめんなさいね。手が離せなくて」
「とんでもないです。こちらこそ、勝手に入ってすみま――」
せん、という二音は、喉の奥に引っ込んだ。
先日も案内された居心地のいい部屋は、様変わりしていた。
繊細な草木の描かれたソファのオリーブ色――これはいい。
背の低いテーブルの飴色――これもいい。
その上に並べられたボーンチャイナの白――これも問題ない。
銀のトレイを抱えて今日もひときわ麗しい鳥子――なんの問題もない。
問題なのは彼女の背景にでんと居座る長方形の黒だ。
あまりにも大きなTVモニター。60……いや、70……、80……ひょっとしたら、100インチをこすかもしれない。父親のボーナスで新調した緑川家のTVの倍はありそうだっだ。
「鳥子さん、あれって……」
「購入しましたのよ」
白い頬がぽっと染まる。
「だって、今日は初めてヒナさんと一緒に試合を見るんですもの」
試合――とは、当然、プロレスの試合のことだ。
「記念すべき初観戦なですから、迫力があった方がよろしいでしょう? もちろん生にはかないませんけど」
「わ、わたしのためにこのテレビを……?」
「当然ですわ!」
当然――で、あるはずがなかろう。
たかが友達とのプロレス観戦のために、このばかでかいTVを買うなんて。
そういった当たり前の言葉は、ヒナの口からは飛び出さなかった。鳥子の体が、ふらりと傾いだからだ。
「鳥子さん!?」
あわててかけより、細い肩を支える。
「どうなさったんですか!? 具合でも――」
「大丈夫、ただの寝不足ですのよ」
いつもよりほんの少し疲れた顔で、鳥子が微笑んで見せた。
「昨夜、お見せしたい試合の動画を選んでましたの。気づいたら夜が明けてました」
「徹夜したんですか!?」
「つい夢中になってしまって。だって、ああ、名勝負ばかりなんですもの!」
目を輝かせる鳥子に邪気はない。
だが、それゆえに――
(めっっっっちゃ期待されてる――!)
ヒナは徹夜明けの鳥子より、顔を青くした。
繰り返すが、ヒナはそもそもプロレスに良い印象はないのだ。プロレスが持つ「戦い」のイマージュは容易に「暴力」という負のワードと結びつき、彼女を怯えさせる。正直、そんなもの見たくはない。大体、まともにルールも知らないのに、楽しめるとは到底思えない。
「準備しますから、少しお待ちになってね。その間にお菓子を召し上がって。今日のケーキは<ノーザンライツ>と名づけましたのよ」
極光の名を与えられたレアチーズケーキは、なるほど、その名の通り表面に輝くドレープが描かれている。しかし、ヒナはその出来映えに感心するどころではなかった。
(どうしよう。「見たくないです」なんて言ったら、鳥子さん、がっかりするよね。でもわたし、ケンカとか血とかほんとにダメ……。たぶん吐く……)
「それにしてもいい時代になりましたわよね。いつでもどこでもいくらでも試合を拝見できるなんて。ひょっとすると、この世で一番インターネットの恩恵を受けているのは、わたくしたちプロレスファンかも知れませんわ」
ヒナの心中をよそに、鳥子は上機嫌で膝の上のワイヤレスキーボードを操っている。
「インターネット……。Youtubeとかですか?」
「まあ。いいえ」
ころころと鳥子が笑う。
「近年では多くのプロレス団体様が、動画配信サービスを提供してらっしゃいますのよ。リアルタイムの試合中継ばかりでなく、過去の試合や選手のドキュメンタリー、バックステージインタビューなんかも視聴できますの。でも……」
そこで鳥子は悩ましげなため息をついた。
「月額がおおむね、千円前後なんですのよ……。そんなにお安くていいのかしら……、採算とれてるのかしら……、いえ、もちろん一ファンが心配するなんて大きなお世話なのでしょうけど……」
「はぁ」
「さあ、できた」
細い指がエンターキーを叩くと同時に、スピーカーから大きな歓声が流れ出した。
その音につられてモニターに目を向けたヒナが目にしたのは――
「ギャーッ!? こ、これ、お、お、お尻!?」
巨大なモニターに大写しになった、臀部。ナマの。
白桃のアップ、という平和な可能性がヒナの頭を一瞬かすめたが、引いたカメラがすぐさま彼女を裏切る。画面の中では下半身に極小のT-バックをまとった金髪の男性が、腰を突き出していた。
「な、なんで男のひとの、お尻……、と、鳥子さん……!?」
「あっ、間違えた」
鳥子はなんてことないみたいに呟いた。
「これは昨夜わたくしが見てた試合ですわー」
「見……っ!? 鳥子さん!? お尻を見てたんですか、昨夜! お尻を!」
「ええ。最高でしたわよ」
「さいこう……」
真っ赤な顔でヒナは呆然と呟く。脳内には大量の白い尻が乱舞している。
「このかたは男色ディーノ選手とおっしゃいますの」
「だ、だんしょ……っ!?」
「ファンは敬愛を込めて男色先生とお呼びすることもありますわね。偉大なレスラーですのよ。先生の必殺技・<男色ドライバー>ならびに<男色四十八手>はもはや芸術の域と言っても過言でありませんわ。わたくしは<ナイトメア>が一番好き――」
「ま、待ってください! このお尻――じゃなくて、この人、プロレスラーなんですか!?」
「ええ」
鳥子の言う通り、改めて見直せばモニターの中の男性が立っているのは四角いリングの上だ。リングの周囲にはパイプ椅子が並べられ、大勢の観客で埋まっている。格闘技に詳しくないヒナでもイメージできる<プロレス会場>の一般的な構図だ。
(ぷ、プロレスラーって普通、お尻出したりする!? しないよね!? プロレスって、いかつい人が怖い顔で殴ったり蹴ったりするやつで……)
ヒナの動揺をよそに画面の中の観客は大盛り上がりである。
試合にまた新たな展開があった。金髪の選手――鳥子が言うところの<男色先生>が、対戦相手に近づき、そして。
「ギャーッ!? と、と、鳥子さん! この人、キスしましたよ!?」
対戦相手の頬をホールドし、がっつり唇を奪う男色先生。相手はひどく苦しそうだ。
「<リップロック>ですわね。先生の得意技ですわ」
「技なんですか!?」
「もちろん」
「あっ、今度はお尻を相手の人の顔に押しつけて……! 窒息しちゃいますよ! お尻で! あっ、いやっ、セコンドの人は関係ないじゃないですかっ、脱がしたらダメです先生! ああっ、セコンドの人にまでお尻を……!」
「男色先生はゲイレスラーでいらっしゃいますからねー。お顔のきれいな若手選手は大好物なんだと思いますわ」
「あああっ! 今度は客席のおじさんにまでキスを……!」
「ゲイレスラーでいらっしゃいますから。女性客にはおイタをなさいませんし、男性客にとってはご褒美ですから問題ありません」
「いやああ! ダメです先生! おじさん逃げて! ああああっ!」
「…………」
勝利を収めたらしい偉大なるレスラーは、唇に蠱惑的な笑みを浮かべ、股間を彩るパンツのフリンジをたなびかせながら花道を後にする。観客の爆笑と拍手が、その大きな背を追いかけた。
衝撃が未だ冷めないヒナは、ぼんやりとした頭で考える。
今のは――今、自分が目にしていたのは――なんだったのだろう。
本当に、現実の光景だったのだろうか。
夢でも見ていたんじゃないだろうか。極彩色のブルーとピンクが織りなす妖しくも美しい――悪夢。
夢幻の余韻をひきずっていたヒナは、鳥子の様子にようやく我に返った。美しい上級生は、胸を押さえてうつむいている。
「鳥子さん! どうしたんですか。やっぱり具合がお悪いんじゃ……」
「いいえ」
きっぱりと鳥子は首を振り、頭を上げた。あらわになった瞳は熱っぽく輝いている。
「あまりにも楽しくて! ああ、ヒナさん、あなた素晴らしいわ! なんて新鮮な反応! そう……、わたくしたちファンはこういう気持ちを忘れちゃいけませんのよ!」
「は、はぁ……、そうですか」
鳥子はうきうきとキーボードを抱え直した。
「ヒナさんが男色先生の試合をお気に召したんでしたら、このまま男色祭りをしてもよいのですけど――今日、見ていただきたい動画は実は別ですのよ」
インターネットブラウザを軽快に操っていた鳥子は、お目当ての試合を見つけたようだ。
軽いクリック音を合図に、動画が始まる。
「これからご覧頂くのは、<DDT>という団体様の試合です。正式名称は<DDTプロレスリング>。先ほどの男色先生も所属していらっしゃいますのよ」
「あのお尻のひとも……」
「はい。多彩で個性的な選手を数多く――というか、個性が炸裂している選手しかいない団体様ですわ。2018年にサイバーエージェント様が全株を取得なさったことで、AbemaTV様での試合中継も始まってますわね。今後は強力なメディア展開も期待できますし、わたくしほんとに楽しみ――」
「あのう、鳥子さん。お話の途中にもうしわけないんですけど……動画、間違ってませんか?」
「はい?」
鳥子は小鳥のように愛らしく首をかしげた。同じように首をかしげながら、ヒナはTVモニターを指さす。
「だってこれ……森の中ですよ?」
モニターに映し出されているのは、鮮やかな緑の木々だ。初夏の頃なのだろうか、きらめく木漏れ日が美しい。ハイキングや森林浴にうってつけの穏やかさだ。木陰から聞こえてくる鳥のさえずりが、いっそうののどかさを演出している。当然、リングや客席といった設営はない。プロレスとはなんの関係もなさそうな、場所。
「あらあら」
鳥子がいたずらっぽく口元をおさえる。
「大丈夫、間違ってませんわ。ほら」
鳥子の言ったとおりだった。
画面には木立を背景に数十人程度の人が映っている。みんなこれからピクニックにでも行くみたいな軽装で、とても楽しげだ。彼らをバックにして立っているのは、特徴的な白と黒の縞のシャツを着た男性――どう見てもレフェリーの装いである。
「……えっ」
体格のいいレフェリーに続いて、これまたどう見てもプロレスラーとしか言えない人が映し出される。鍛え上げられた体をタイツとブーツに包んだある種<プロレスの制服>であるその姿は、背景ののどかさとのミスマッチ感がすさまじい。
「えっ、えっ」
ヒナが困惑している間に、あっさりと試合は始まった。
挨拶代わりの逆水平チョップ。皮膚と皮膚がぶつかり合う激しい音と観客の歓声が、森に響く。森に。
「なにしてるんですか、この人たち! そこ、お外ですよ!? 屋外ですよ!」
「DDTお得意の<キャンプ場プロレス>ですわ」
「そんな場所でプロレスしていいんですか!?」
「DDTは他にも工場や公園やモノレールや本屋さん、あとはサイバーエージェント様の社屋なんかでも試合をしてらっしゃいますわ。総称して<路上プロレス>。路上はDDTの主戦場の一つと言ってもいいですわね」
「社屋……普通のビルですよね? 社員のひと、かわいそう……」
「あら、社長さん始め、皆さんめちゃくちゃ嬉しそうでしたわよ」
鳥子はおっとりとポットのお茶を注いでいる。
「どうかしてますよ!」
「どうかしてるのがDDTのいいところですわ。さあ、おかわりをどうぞ」
香り高いアッサムは、ちょうどいい温かさだ。
ひとまず落ち着こう、そう、お茶でも飲んで――。
くらくらする頭でヒナはお茶を口に含み、そして、
「ギャーッ!」
次の瞬間、全て吹き出した。
TVからは派手な炸裂音が響いている。ただよう白い煙。こちらにまで火薬の匂いがただよってきそうなそれは――
「花火ーっ!?」
花火を人に向けて撃ってはいけない。そんなことは3つの幼児でも知っている。
しかし、画面の中ではいい大人がいい大人に向かって、景気よく打ち上げ花火をぶっ放していた。逃げ惑う相手選手、のみならず客にまでも被害が。美しい森は阿鼻叫喚の地獄に変わり果てている。
「あああ、あぶなっ! とめて、レフェリーさんとめて!」
ヒナの懇願も虚しく、大柄なレフェリーはなにもしない。どころか、手首にぶら下げたビニール袋に詰め込んだ花火を、いそいそと選手に渡したりしている。
「わーっ! なにしてるんですか、レフェリーのひと!」
「わたくし、松井さんのレフェリング大好き」
「花火なんて、花火を人に向けるなんてダメですよ! 狂ってますよ!」
「飯伏選手ですからしょうがありませんわ」
舞う火花、弾ける火薬、軌道を描く白煙。悲鳴。絶叫。
暴力、とか、反則、とか。そういった次元ではないだろう。
もっと別の、もっと純粋な――狂気。
鳥子はうっとりと目を伏せる。
「<いぶしに花火>……。後世に残りますわよ、この慣用句は。<鬼に金棒>的な」
(そんなことわざ――厭だ)
体をふるわせるヒナに、鳥子は笑いかける。
「プロレスを好きになるコツは、お気に入りの選手を見つけることですのよ。自然に、応援にも熱が入りますからね。ヒナさんはいかがかしら。この中で気になるかたはいらして?」
「この中ですか……」
画面では、複数の選手が入り乱れている。
その中の一人が、目を引いた。プロのアスリートらしく体は鍛えられているが、顔に浮かぶ笑みは柔和だった。
「ええと、この中ならこの人、ですかね……」
「まあっ、お目が高いわヒナさん!」
鳥子がはしゃいだ声をあげる。
「HARASHIMA選手ですわね。DDTを代表するエースですわ」
「ハラシマさん、ですか」
「ファンは親愛の意味を込めて<HARA>とお呼びしますの。とても人気のあるかたですのよ」
「そうなんですねー。ハラシマさんかー」
にこにこと穏やかに微笑むその選手の様子に、ヒナはほっと息をついた。ヒナが苦手とする暴力や戦いといったイメージからはほど遠そうな雰囲気。
(うん、この人なら危ないことはしなさそうだし)
が、しかし。
さわやかな笑みのまま、彼は地を蹴った。躍動する体がまっすぐに駆ける。駆ける。駆ける。目指す先は、地面に座り込んだ別の選手だ。
(なにするんだろう。あっ、助けてあげる、とか? ハラシマさん、やさし――)
ヒナが納得しかけたその時、黒と青のロングタイツに包まれた足が、跳躍した。鍛えられた筋肉は、長い弧を描く軌跡をもたらした。折りたたまれた刃の切っ先のような両膝は、重力と自重を味方に付け、無防備に座り込んだ選手の顔にめり込――。
「ウワーッ!?」
ヒナはたまらず絶叫した。本当に絶叫したいのは勢いよく突っ込んできた膝を顔面から受けた選手だろうが、とにもかくにも絶叫した。
「膝が! 膝が! 膝が! あああっ! か、完全に体重乗ってたじゃないですか!」
「出ましたわ、HARASHIMAのランニングダブルニー――<蒼魔刀>! なんて美しい……、相変わらず完璧……」
「あ、相手の人、大丈夫なんですか!? 首、もげちゃいません!?」
「大丈夫ですわよ。なぜかって、それは……」
そこでなぜか、鳥子は高々(たかだか)と片手をあげた。
「<鍛えてるからさー>!」
「はあ……? そう、ですか……」
鳥子がひどく嬉しげなので、ヒナはそのことへの言及は止めておいた。
その後も本来とは別の用途で使われ続けたキャンプ場には、悲鳴と歓声が響き続けた。
登場する自転車――選手たちは当たり前のように轢かれた。
白いトラック――もちろん、選手たちを轢くためだ。
その天井によじ登って背面宙返りで空を舞う狂気――「二階からいぶし」という新たな慣用句を鳥子は生み出した。
選手たちは草むらに突っ込み、池に叩き落とされ、なんだかよくわからない棒でしばき上げられる。
<良い子はまねしないでください>という普遍的な良識を宇宙の彼方まで吹き飛ばし、行われたのは、ただ、饗宴であった。
「ひっ、今度はスクーター!? 轢かれる! みんな逃げて! 鳥子さん、これ、絶対大丈夫じゃないヤツですよね!? 偉いヒトとかに怒られません!?」
「えらいひと……?」
「責任者の人とか……」
ああ、と鳥子はうなずいた。
「責任者のかたでしたら、あそこにいらっしゃいます」
「あそこって」
「だからあそこ」
画面には、けっこう深そうな水たまりに突き落とされた選手がいた。なぜかガンダ――否、白と青と赤のロボットのコスプレをした彼に、容赦なく花火が撃ち込まれている。
「あのひとが……責任、者?」
「はい。DDTの高木三四郎大社長ですわ」
「ええと、<大社長>って、ニックネームとかではなく? ガチの?」
「ええ。代表取締役でいらっしゃいます」
「なにしてんですか経営者!」
「<ふぁいあーっ>! ですわよ!」
狂ってる。上から下まで、徹頭徹尾、狂っている、この団体。
しかし――。
ヒナはそこで初めて気づいた。
笑っている。
観客たちは嬉しげに、楽しげに、笑っている。
悲鳴をあげ、逃げ惑いながら、それでもなお。
目の前で繰り広げられている狂態に、誰も彼もが、ひどく幸福そうだ。お祭りの最中の少年のように、遊園地にはしゃぐ少女のように。お兄さん、お姉さん、おじさん、おばさん、親子連れ、カップル。誰もが笑って――
「ヒナさんとの初めての観戦、どの試合にしようかすごく迷いましたのよ」
彼らと同種の笑みを浮かべて、鳥子が言う。
「もちろん他の団体様、他の試合だって素晴らしいものばかりですけど……。ほら、普通のかたって、プロレスって<怖い>とか<ハードルが高い>とか、そういうイメージをお持ちでしょ? いきなりバチバチの試合をご覧になっても、かえって引いてしまわれるんじゃないかと思って」
まさに思っていたことを言い当てられて、ヒナは黙った。鳥子が言葉を継ぐ。
「DDTの試合には、プロレスを見る根源的な喜びが詰まっている気がしますの。純粋に<プロレスって面白い>! っていう気持ちになりますわ。わたくし、ヒナさんにそういうプロレスの楽しさや自由さを感じていただきたかったんです」
確かに――。
<怖い>だとか<難しそう>だとか、最前までヒナの心を占めていた不安は、画面に向かって突っ込んでいる間に消えていた。
「鳥子さん、わたしのためにそこまで考えてくださったんですね」
「あら。ヒナさんのためばかりじゃありませんわ。単純に、わたくしがDDTが大好きだからですのよ。今日は大好きな試合をヒナさんと見られて本当に嬉しかった」
「鳥子さん……」
動画は、いつの間にか終わっていた。
鳥子が少し不安げに、それでも期待を込めた目で聞く。
「それで、その……、どうだったかしら? 少しは楽しんでいただけた?」
少し考えてから、ヒナは勢い込んで答えた。
「はいっ! すごく面白かったです! まさかお外でプロレスができるなんて思いませんでした」
「そう、よかった……!」
鳥子はほっとしたように、胸に手を当てて息を吐き出した。
「あの黒くておっきな人、始めはおっかなかったんですけど、ちょっとコメディっぽくて、なんだか可愛かったです」
「ああ、大鷲選手ですわね。元は力士さんでいらっしゃるのよ」
「おすもうさん!? どおりで大きいと思いました。あとはHARASHIMAさんがやっぱりかっこよくて――」
いつ果てるとも知れないおしゃべりは、しかし、晩を告げる柱時計の鐘によって終わりを告げた。
「ヒナさん、今日は来てくれてありがとう。またお誘いしてもいいかしら?」
舞藤館の玄関先で鳥子が発した問いに、ヒナはもちろんうなずいた。
「わたし、それまでにもうプロレスのこと少し勉強しておきますね」
「あら、それでしたらピッタリのものがありますわ」
鳥子はヒナに桜色の小さな紙袋を手渡した。あらかじめ用意してくれていたのだろう。
「これは?」
「DDTの試合をおさめたDVDですのよ。よろしければご覧になって」
「わー、ありがとうございます! 誰が出てるんですか? HARASHIMAさんだと嬉し――」
微笑みながら中身を取り出したヒナは、ケースの前面を見るなりピタリと固まった。前面に写っていたのは、今日の動画に出演していたどの選手でもなかった。
――というか、人ではなかった。
「……鳥子さん?」
「はい?」
「この人……って言うか、コレって……ダッチワイ――人形、ですよね? 空気で膨らますタイプの」
オレンジの後光をバックに表紙を飾るのは、樹脂とプラスチックの肌を持つ三体の人形。生気のない目が虚空を見つめている。
「いやだわ、ヒナさんったら。ご冗談ばかり」
鳥子は笑い声をたてた。
「彼はヨシヒコ選手ですわ」
「よし……ひこ?」
「またの名を地獄の墓掘り人形、またの名をオランダ・バッドアス。マッスル坂井選手の弟さんで、日本屈指の空中殺法の使い手ですわ」
「なに言ってるんですか、鳥子さん! これ、どう見ても人ぎょ――」
「かのカート・アングルやリック・フレアーも絶賛した名選手ですのよ。デビュー当時は体重の軽さが心配されましたけど、ビルドアップにも成功されますます隙のない選手になられましたわね。KO-D無差別級選手権試合は未だに伝説として語りぐさですわ」
「いや、だからこれは人ぎょ」
「それではヒナさん、ごきげんよう。来週、またお会いしましょう」
白亜の館の扉は、音もなく閉じられた。
ヒナは一人、呆然と立ちすくむ。手の中に残された一枚のDVD。
「……クレイジーすぎない?」
そう、DDTは狂っている。いつだって、極上の歓喜に満ちて。
おわり
<用語説明>
※DDTプロレスリング……名前の由来は「Dramatic Dream Team」の頭文字。1997年設立。「文化系プロレス」とも呼ばれるエンターテイメント色の強い試合が特徴。ファンが よく調教されている ノリがいいのも特徴。
※路上プロレス……とりあえずAmazon primeで「ぶらり路上プロレス」を検索してみよう。あれはいいものです。「旅番組と路上プロレスを合体させる」というどうかしてる企画自体が最高にDDT。「伊橋五番勝負」は神回。
※動画配信サービス……DDTでは「DDT UNIVERSE」にて絶賛配信中。有料会員ならLIVE及び過去の試合動画も見放題。期間限定の無料動画も豊富に用意されているため、まずはそこからチェックしてみるもよし。
※ヨシヒコ……DDT所属。身長120cm、体重400g。得意技は「輪廻転生」、「高速六次元殺法」など。余人には決して真似のできない予備動作のない技の数々で、デビューするやファンの圧倒的支持を受ける。