聞こえる声
「 」
「 」
「 」
「 」
僕の世界に、彼女の声はない。
あのときから、世界は僕に冷たくなった――。
今でもあの事故を思い出すと背筋が震える。
知り合いが運転する車に乗っていたときのことだ。車線変更しようとした車がタイミングを間違えて、僕の彼女が座っていた後部座席に激突してきた。僕は彼女をかばってとっさに覆いかぶさったのだが、頭にものすごい衝撃があって、意識を失って、病室で気づいたときには耳が聞こえなくなっていた。
正確に言えば、まったく聞こえないわけじゃない。
音を感知する内耳から奥の部分に問題があって、音を聴き分ける能力が欠けてしまったのだ。
それはつまり、聞こえる音と聞こえない音があるということ。
僕の場合高い音が全くだめで――女性の中でも高音の部類に入る彼女の声が、聞こえなくなった。
『ごめんね、本当にごめん』
『わたしの代わりになってくれて、ごめんなさい』
震える文字でメモ帳に書きつけられた彼女の叫びが、僕の涙腺を刺激した。
彼女を守れて後悔なんてしてないけど、僕はどうして彼女に苦しそうな顔をさせてしまうんだろう。苦しい。
「……もう、彼女のこと、おまえから解放してやれよ」
そんな僕らを見かねて友人が告げた言葉は、僕の胸にストンと落ちてきた。
そうか。
僕の存在そのものが、彼女を苦しめるなら。
僕のそばに彼女がいることが、お互いのためにならないのなら。
「そうだね。彼女とは、別れたほうがいいの……かな」
「ああ、もう会わないほうがいい」
友人のバリトンボイスは、欠陥モノの耳にもよく通る。
沈痛な面持ちで、だけどはっきり告げてくれる彼は、昔から僕の良き相談相手だ。
小学校からの付き合いだから……もう15年近くになるのか。
「おまえには俺がついてる。一生な」
彼がこの先もそばにいてくれるというなら、僕は独りじゃない。それなら、きっと大丈夫。
僕は彼女のために、彼女にさようならと告げた。
いや、それは言い訳で……本当は、彼女の涙をこれ以上見るのが辛かっただけだ。彼女のためなんかじゃなく、僕は、僕の安寧のために彼女との別れを決めた。
でも、その瞬間の彼女の取り乱しようは尋常じゃなかった。僕に付き添ってくれていた友人に掴みかかり、見たことのない形相で何かを叫んでいた。
僕には何を言っているのか、わからなかったけれど。
「 !!!」
「彼が俺を選んだんだ。君との未来ではなく。君は彼から解放されたんだよ。もっと喜べばいい。」
「 ! !!!」
「君は振られたんだ」
揺さぶられている友人のほうがひょうひょうとしている。彼女は何を言っているのだろうか。彼の言葉に傷ついた表情を浮かべ、僕が見たくないと願った涙をぼろぼろこぼす彼女は。
思わず手を差しのばしたけれど、その手を取ったのは彼だった。
「さあ、もう行こう。彼女は混乱している。君を傷つけないとは限らない」
「でも………」
「ほら、君の体にもこんな傷ができるかと思うと、俺は耐えられないよ」
見せられたのは、彼の手首。ひっかかれたのか、二本の赤い線が走っている。
僕が傷つくのはいい。けれど、関係ない彼にこれ以上傷を負わせるのはだめだ。この場は離れなくては。泣き叫ぶ彼女に背を向け、僕らはその場を立ち去った。
彼女に会ったのは、それが最後になった。
その日、携帯電話が壊れ、彼女はおろか、知り合い全ての連絡先が分からなくなったのだ。
共に住み始めた彼だけは別として。
彼は何くれとなく世話を焼いてくれた。僕とのコミニュケーションにもなんの問題もなく、僕は自分の耳の欠陥を忘れることができた。
幸せだった。幸せになれた。だから、彼女があの日なんて叫んだのか、やがて考えることがなくなった。
『その男はあなたを私から取り上げたいだけなのよ!!!!』
END
(181211)
ライバルの声が聞こえなくなったことに内心小躍りしている「俺」と「俺」の恋情に気づいていた「彼女」と何も気づかない「僕」。