3-1 猛禽の眼(1)
夜の商店街を泰駿は一人歩いていた。太陽が西の空に沈んでそう経っていない刻限で、夜というにはまだ早い時間だった。商店街を覆う屋根の辺りに取り付けられているスピーカーからは、流行歌が流れている。テレビやラジオで聞きなれたそのメロディを口ずさみながら歩いていると、腹の虫が盛大に音を立てた。
通行人の邪魔にならないように、人通りのなさそうな路地の入り口へと身を寄せて左右を眺め回す。雑貨や食料品を扱っている店はシャッターを閉め始めており、買い物鞄を提げる主婦の姿はほとんど見られない。帰宅途中であろうサラリーマンやOLの姿が大半を占めている。
そんな往来を眺めつつ、泰駿は腕を組んで胃袋と相談し始めた。まだ夕飯を食べていないため、腹の中は空っぽなのだ。この商店街を歩いていたのも夕食を求めてだったのだが、店が多すぎて目移りしてしまい自炊にするか外食にするかも決められずにいた。
スマートフォンの時計を確認すると、八時になろうとしているところだった。飲食店は深夜まで営業しているところもあるため気にしなくていいが、食料品の小売店はそろそろ閉まりだす時間だ。早くしないと選択肢が限られてしまい、後悔の種になる。なのに胃のやつはあれもいいなこれもいいな、で決めようとしない。
自分で作ると最低でも一時間は掛かるだろう、その間、空腹に耐えるのも辛いし外食にしよう。そう決めてしまえば行動あるのみ、人の流れに乗り左右を見ながら商店街を歩いていく。居酒屋で軽く一杯引っ掛けるのもありだし、定食屋でのんびり食事を取るのもいい、焼肉屋でたっぷり肉に噛り付くのもありだな。
外食にすると決めたは良いが、やっぱり目移りしてしまって決められない。気づいた頃にはアーケード街の端っこに来てしまい、目の前には一軒家やマンションの立ち並ぶ住宅街が広がっていた。ここから先に進めば店舗はない、全く無いというわけではないがコンビニエンスストアぐらいだ。普段は世話になることが多いだけにコンビニ弁当は避けたい。
商店街に引き返すかと振り返ったとき、目の端に奇妙なものが移った気がした。空っぽの胃袋は無視してしまえと言ってきたが、どうにも気になる。このまま商店街に戻って食事を摂っても、ずっと頭の片隅に残ってしまいそうなしこりを作ることになりそうで、泰駿はその奇妙なものの正体を確かめることにした。
それはなんてことのない、浮浪者風の一人の人間だった。人間だということが分かると安心できるところもあるのだが、奇妙さは拭えない。この辺りは浮浪者がいない地域でもあるし、何よりその人物は雨が降っていないのに黄色の薄汚れたレインコートで身を包んでいるだけでなく、フードですっぽりと頭を覆い隠していた。
ブロック塀の前、ブルーシートの上に座り机の代わりらしいダンボール箱を置いている。その箱の上にはダンボールを切って作ったらしい札があり、そこにはミミズがのたくったような字で、占います、と書いていた。それに気づくと奇妙さは好奇心へと変化し、泰駿は浮浪者の前までやってきた。浮浪者は泰駿に気づいて顔を上げたが、その表情はフードに隠されており眼も見えないし口元すら見えなかった。
「占いやってんの?」
「あぁそうだ、私は見ての通りの占い師だ。何か占って欲しいことがあるのなら言ってみろ、私のこの目でお前の未来を見通し、そして告げてやる」
仰々しく偉そうな事を口にしているが、敷物は建築現場によくあるようなブルーシートだし机は段ボール箱だ。言動と乖離したビジュアルに口元が緩み、それを見られぬように手で覆う。
「幾らでやってくれんの?」
「一〇〇〇円で構わない」
路上の占い師ならそんなものだろう、高い値段ではない。この浮浪者の着ている黄色のレインコートと、フードで覆い隠された顔は物語に出てくる魔法使いのように感じられた。如何にも怪しいこの自称占い師が、果たしてどんなお告げをしてくれるのか。
興味本位で泰駿は財布から一〇〇〇円札を取り出すと、無言で段ボール箱の上に置き尻をブルーシートに着けない様にして屈みこんだ。
「どんな占いするか書いてないし聞いてないな、何で占ってくれるんだ? 手相か? それとも人相?」
フードが揺れる、声は無いが嗤ったとも受け取れる。
「私は言った、この目は未来を見通す。それだけではない、私はお前の全てを見通している。手相なぞ見る必要は無い、お前の顔を眺める必要も無い。私は運命を視る眼を持つ、未来、過去、私に見えぬものは何も無い」
随分な自信家であるが、そういうESP能力を持っているのかもしれない。相手の考えていることや、心の内を覗く能力を持っている人間はいないわけではなく、この浮浪者もそうなのかもしれない。
それにしてもこの占い師の言い方は仰々しい、手の動きも大きくどこか芝居がかっている。その演技がファンタジーの世界に迷い込んだ気分にさせてくれるので、見世物として一級品とまでいかなくとも金を出す価値は充分あるように思える。
「俺は今、夕飯をどうしようかということで悩んでいるんだ。下らない事だと笑うだろうが、食事が大事だということはあんたなら良く分かるだろう? 全てを見通すというなら、俺は何を食べればいいのか教えて欲しいな」
何度も黄色いフードが縦に動いた。泰駿の質問が終わると、占い師は俯きじっと地面を見ているようだった。身動き一つしないその姿は人形のようにも見える、背後からは流行歌が遠く聞こえていた。
「お前の運命は実に面白い。一言で言い表せぬ、波乱万丈ともまた違う。醜悪な、そして奇怪な超自然に満ちている。お前は出会う。同じ顔をした男だ、その男とお前の道は交わっている。そしてその男というのはお前である。お前は識ることとなる、宇宙に満ちる悪意を邪悪を。太古の昔に封じられし旧きものどもが蔓延る世界を実感することとなる」
相槌を打ちながら黙って聞いていた泰駿だったが、内心では不満が噴出していた。
まずこの占い師は、夕飯をどうすればいいという質問に一切答えていない。しかもその言葉の意味が全く持って理解できない。芝居で楽しませようとしてくれるのは結構なことだが、主題から外れることはして欲しくなかった。
「あー、うんうん。わかったわかった、俺はそのそっくりさんと会うことになるわけだな。じゃあ聞きたいんだが、そのそっくりさんと出会うっていう俺の運命でいいのかな。それと俺の晩飯、どういう関係があるっていうんだ」
「その男の名は――」
「質問に答えてくれないか? あんた占い師だろ、だったら俺の悩みを解決する手助けをするのが仕事なんじゃないのか? あんまりふざけた事を言ってると、金を返してもらうぞ」
また関係の無い事を喋りだそうとした占い師を遮り、まくし立て人差し指をフードの真ん中、おそらく鼻があるだろう辺りに突きつけた。
占い師は黙りこくり、泰駿に一〇〇〇円札をつき返す。その紙幣に視線を落としたあと、泰駿はぎろりと占い師を睨みつけたのだが、彼は動じた様子を見せない。平然と、胡坐を組んだまま座り続け、フードの影から泰駿の顔をじっと眺めていた。
「私の仕事は悩みを解消することでは無い。それは凡俗のすることである。私は、この運命を視る眼を用いて人々を導く。それこそが私のすべきことであり、仕事である。金は要らぬ、だがお前は私の言葉に耳を傾けねばならない。お前はお前の運命を、待ち受ける未来を識る必要がある」
とんでもないきちがいに声を掛けてしまったと後悔する。まったくもってこの浮浪者が正気であるとは思えない。ESP能力者だとも思えない、長い路上生活に倦み疲れ、結果として精神に異常を来たした哀れな患者のように見え始めた。
精神異常者に付き合う義理などどこにもないのだが、社会から脱落してしまった浮浪者を哀れむ気持ちというのはある。ダンボールの上の紙幣をしばらく眺め考えた後、泰駿はその紙幣を浮浪者の胸元へと押し付けた。
「金は要らぬと伝えたはずだ。私の成すべき事はお前に託宣することであり、糧を得ることではない」
「何であれ対価は付き物だ、あんただってそれはわかるだろう? 全部ではないにせよ、俺はあんたの言葉を聞いた、聞いてしまった。ならその対価を俺はあんたに支払わねばならないし、あんたはそれを受け取らないといけない。間違っても哀れみや同情ではない、それが社会のルールだからそうするだけだ」
「私はこの社会に生きてなどいない。よってお前たちの規範に従う必要も無い、私に糧は要らぬ。その価値ある紙を下げよ」
「そういうわけにはいかないな、あんたは社会に生きていないなんて嘯いているがそんな事は無い。まずあんたは最初、占いの代金が一〇〇〇円だと俺に伝えたな。ということは、だその時は金が欲しいと思っていたんだ。けれど俺はその後で怒った、それがあんたのプライドを傷つけたのかもしれない、それであんたは金が要らないなんてことを言い出したんだ。これらは俺の空想だが、全くの的外れというわけでもないだろう。さぁどうなんだ占い師さんよ」
「お前がそういうのであれば、受け取ろうとしよう。そして私は問う、お前は私の言葉に耳を傾ける気があるのか? 私はお前に運命を告げる、道の先を告げる。お前はそれを聞く気はあるか?」
一応は納得してくれたらしく、浮浪者は枯れ枝のように節くれだった指で紙幣を掴み、折りたたむとレインコートの袖口の中へとしまいこんだ。フードの奥にあるであろう二つの眼が、泰駿をじっと見据えているようである。
見えない瞳と視線を合わせるように影の中へと視線を向ける。眼球の輝きはそこはない、果たしてフードの中に顔があるのだろうかという疑問が湧いた。もしかすると、あり得ないことだと理解はしていても、そこには何も無いのではないか。もしここで、泰駿がフードを取り去ったのであれば、その瞬間にレインコートが地面に落ちてただの襤褸切れになるのではないだろうか。
ただの妄想である。どこからともなく浮かんできた、取り留めの無い想像を首を動かし振り払う。
「どうした、私の託宣を聞く気はあるか? 未知なる道を歩む者よ」
「聞こう。俺は俺と同じ顔をした男に会うことになる、その男の名前をあんたは言おうとしていたな。そこから続けてくれ」
「うむ、そうである。お前は、お前と同じ猛禽の目をした者と出会う。その男、名をオラウス・ウォルミスという。名は違えど、それはお前だ。辿る道が違った、お前そのものなのだ。そこから先はあえて言わぬ」
首をかしげながらフードを覗き込む。何も見えない、ぽっかりとそこだけ暗闇が穴を開けているようだ。
オラウス・ウォルミス、その名を泰駿は知っていた。ギリシャ語版ネクロノミコンをラテン語へ翻訳した人物の名である、その名がどうして浮浪者ごときの口から出てくるのか。彼が口にした内容に興味は無かった、ただその名前、オラウスの名をどうして知っているのか、そればかりが気に掛かる。
「行け、私がお前に言うべき事は何も無い。道へと戻れ、歩め」
泰駿は立ち上がらない。股を広げ腰を落としたまま浮浪者から視線を外さない。占い師は動かない、俯き気味に頭を傾けたまま。身じろぎ一つせず、黙りこくったその姿は唖のようである。
浮浪者は顔を上げた、腕が上がる。レインコートの袖口から、枯れ枝のような指が一本突き出て、それは夜空を示していた。釣られて泰駿は顔を上げたが、何も見えない。暗い夜空が広がっている、本当はどこかの星を指差したのかもしれない。しかし地上が明るすぎるために、天上の星の光が地上まで届かなかったのだ。
ビュウと一陣の風が吹いた。ほのかに熱を孕み、生暖かい風だ。どこか生臭さもあり、生き物の口から吐き出された息のようでもあった。乱れた髪を指で直しながら顔を下げると、ブロック塀が見えた。ブルーシートとダンボール箱はそのまま置かれている。即座に左右だけでなく背後も見たが、浮浪者はいない。例え人ごみに紛れようとも、薄汚れた黄色のレインコートは目立つ。遠くにいけるわけではない、見つけられない道理はない。
立ち上がり、上昇した心拍を下げるために呼吸を落ち着けながらもう一度、周囲に視線を巡らせた。人通りは多くない、黄色の衣は見当たらない。最初から、そこには誰もいなかったかのようだ。
煙草を咥え、火をつける。浮浪者に言われた言葉を頭の中に再生しようとしたが、上手くできなかった。言われた言葉は覚えていたが、彼の声が思い出せない。五分も経っていない、ついさっきのことなのに思い出せなかった。
ニコチンの助けを借りながら、必死になって頭の中でリピートしようにも、浮浪者の声は老人のようでもあったし若者のようでもあった。男のようでもあり女性のようでもあった、この世の誰のものでもあって誰のものでもない、あらゆる声という声が混ざった、名状しがたい多面的な声。
その浮浪者の指差した先を、もう一度見上げた。そこには暗い夜空が広がるばかり、泰駿の目に見えていないだけで、彼が指し示した先には何かあるのだろうか。暗黒の宇宙に浮かぶ天体のどれかを指し示していたのだろうか。考えても分からない。
煙を吐き出した、背筋がぞくりと震える。