いえ
最近、いつも同じ夢を見る。高校に入学して一ヶ月と少し経ったくらいから始まったそれは僕を眠れなくするには充分なほど気持ちの悪い夢だった。
とても広い、ただ真っ白な空間に僕ともう1人知らない男が立っている。初めの頃は人の形すらわからない遠くに立っていたその男は一日、一日、少しずつ僕に近づいてきていた。男は常に僕に向かって何かを叫んでいるが、残念ながら夢のせいか声は何故か聞こえない。叫んでいるその男が何を伝えたいのかまったくわからない。ただ、その男の必死の形相は声が聞こえなくても鬼気迫るものがあった。…この夢が始まって三ヶ月、この男は僕の三メートル前まで近づいてきていた。
「…あ〜気持ち悪い。」
目が覚めた後も、ふとした瞬間に男の顔が脳裏をよぎる。まるであの男の顔がまぶたの裏にこびり付いてるみたいだ。
時計を見るとまだ5時近く、…だが、眠る事は無理そうだ。僕は体を起こし、登校時間まで今日の学校の予習をすることにした。
学校に着くと僕はすぐに机に突っ伏した。…眠れないとはいえ、体は睡眠を欲しているし、頭はまったく働かない。今ではこれが僕の生活スタイルになっているといって過言ではない。
「よう、相変わらずよく寝るな。」
僕の横から声をかけてくる生徒A。横の席でよく話をするが名前がまったく覚えられない。彼が自分の名前を言わないせいだと僕は思う。
「…まったく寝てない。」
「嘘をつけ、お前が寝てない日を見る方が珍しいくらいだぞ?」
寝てるわけではない、体を横にしているだけだ。…そう言ってもわからないだろうな。
「知ってるか?お前、周りから居眠り王子って呼ばれてるんだぞ?」
「…なんだそれ?」
「クラスに着いて授業中もほとんど寝ている。なのに成績は学年トップ、いったいいつ勉強してるのかみんな不思議がってるぜ?」
「…授業はちゃんと聞いてる。」
「注意して問題を当ててくる教師もお前のクマを見てるうちにそっとしてくれるようになったもんな。」
「…ちゃんと答えてるからだろ。」
「今じゃ、お前の居眠りは学校公認だからな。替わって欲しいぜ。」
…この苦痛と替わってくれるならいつでも替わってやるよ。
僕はため息をつく、本当にこの悪夢はいつ終わるのだろうか。夢の男はもう既に目の前まで来ている。これが何を意味するかわからないが、早くしないと僕は死んでしまう、そんな気にさせる程には僕は弱ってきていた。肉体的にも精神的にも。
今日もまたこの男が僕の前に立っている。昨日よりもずっと近い、ここまで来るとこの男がどんな姿かはっきり見える。体型は肥満型で上は黒のTシャツ下はジーパン、髪はボサボサに伸ばして黒縁の眼鏡をかけた中年の男だ。そして、声の聞こえぬ声で僕に向かって叫んでいる。
…まったく見覚えがない。いったい何故この男が僕の夢に現れるのか?そして僕にいったい何を伝えたいのだろう?
テレビでよく夢は深層心理の現れだと聞いたことがある。つまりこの男は僕の心の訴えなのかもしれない。そう思うとこの必死に叫んでいる言葉には何か意味があるのかもしれない。僕は彼の口の動きを見ることにした。彼は常に二言、それをずっと繰り返している。間違えてなければこの男は〝い〟と〝え〟を僕に向かって叫んでいる。
…そう〝言え〟と。
いったい何を言えというのだろうか?見たこともない男に。それとも、他に誰か言う相手がいるのか?
…少し考えてみると一つだけ心当たりがあった。これが僕の深層心理ならこれしかない。
僕は基本学校ではほとんど机に突っ伏した状態で生活している。青春を謳歌するでもなく、学業に勤しむでもなく何も考えずただ体を机に委ねている。…そんな僕だが、一応この学校にも楽しみがあったりする。もう生き甲斐というか癒しというかそのためにここに来ているというか夢なら覚めないでほしいと悪夢を見る僕が願ってしまうような存在が僕の横の席にいる。
…もちろん、生徒Aではない。僕の右の席に座っている女子生徒、枇杷雪子。
入学当初、初めて彼女を見た。身長はあまり高くなく顔はまぁ、人にはよると思うけど普通に可愛いと思う。肩口辺りまで伸ばした栗色の髪はあまりに綺麗で思わず触りたくなる。
…要するに一目惚れしてしまったわけだ。この数カ月で会話なんて一回か二回しかしてないけど僕的には頑張った方だと思う。出来るなら一日に一回話しかけたい。
…うん、たぶんこれだろう。
思わず恥ずかしさで身をよじりたくなる。寝不足の原因が思春期のアレで夢の原因が欲求のアレだ。…分かってしまうとあれだ、笑えてくる。こんな事で僕は眠れなくなっていたのかと思うと本当に情けない。言わなければいけない。そして、彼女に話しかける。勇気はいると思うけどこの苦しみから解放されるためにもやるしかない。僕は覚悟を決めた。
「お、おはよう。」
朝、教室に入ると僕は覚悟を決めて彼女に話しかけた。
「え、あ、おはよう。」
彼女は少し驚きながらも僕に対して挨拶を返してくれた。それはそうだろう、いつも挨拶すらせずに机に突っ伏している僕がいきなり話しかけてきたのだから。
「は、話があるんだ。……放課後、屋上で待っていてくれないか。」
「えっ!……うん。」
彼女の顔が赤くなった。……そりゃあ、わかるよな。いきなりクラスメイトから放課後に呼び出されるなんて理由はそうないだろう。………まぁ、合ってるし。
僕はそれを聞いていつものように机に顔を突っ伏した。眠かったわけじゃない。ただ、恥ずかしかった。
そして放課後、僕は彼女に告白した。
なんとOKだった。
聞いてみると彼女も僕に好意を寄せていてくれたみたいで、いつも僕の方を見ていたらしい。だけどいつも眠っているから話しかけるタイミングを掴めなかったらしい。自業自得だが、もっと早くに勇気を出していたらあんな夢は見なかったのかもしれない。
その勢いなのか、彼女の家にお呼ばれされた。『今日はお父さんもお母さんもいないの』と言われた時は彼女は今日も僕を寝かさない気なのかと戦々爛々していたがどうやらお兄ちゃんはいるらしい。
再婚同士の子供で血は繋がってないのだがとても優しい兄でいつも彼女の相談に乗ってくれていたらしい。ちなみにその相談というのも僕と仲良くなるためにはどうしたらいいのかと言う事だったらしくインターネットで調べてきたおまじないや経験談などを色々教えてもらい応援してくれていたんだと。だから恋人になれた事を一番に報告してあげたいらしい。
彼女の家に着いてお兄さんを紹介してもらった時に僕は心臓が止まるかと思う程驚いた。
初めて会った気がまったくしなかった。というより毎日顔を合わせていた顔だった。
そう、夢の中で僕にいえと言い続けていたあの男だったからだ。
向こうは僕をじっと見たあと何かを諦めたかのように薄く目を閉じて、そしてゆっくりと彼女の方を向いてよかったね。と言ってそのまま部屋に入ってしまった。
未だ驚きから解放されていなかった僕はお兄さんが見えなくなってようやく思考が回り始めた。
1.悪夢を見るようになったのが入学して少し経ってから。
2.お兄さんは彼女から仲良くなりたいと相談されていた。
3.インターネットでおまじないや経験談を調べていた。
4.夢に出てきた男は彼女のお兄さん。
全てを照らし合わせると分かった。………お兄さんは恋のキューピッドだったみたいだ。
彼女の家から帰って、自分の部屋で少し考える。
たしかに、あの悪夢がなければ彼女に告白しようなんて思いつきもしなかったかもしれない。でもどうせならもっと別の方法が良かったと思う。夢にお兄さんが出てくるなんて意味がわからない。どうせなら彼女が出てきてほしかった。それなら間違いなく幸せな夢になったと思うのに。
…………まぁ、いいか。全て解決したわけだし、きょうからグッスリ眠れる!僕は少し早めに布団に入り目を閉じた。
いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!いえ!
すぐさま布団から跳ね起きる。
「……なんで。」
目を閉じたそこには、僕の目の前にまで近づいていた男が怒りの形相で叫び続けていた。口の動きが、聞こえないはずの声をまるでダイレクトに頭に響いてきているような感覚に襲わせた。
「……もう悪夢は見ないと思っていたのに。」
いったいこれ以上何をいえと言うんだ!
震える手で目を擦り、時計を見る。
「……3時20分か、」
次に目を閉じたらどうなるか。……考えるだけでも恐ろしい。もうこれ以上眠れない。肉体的にも精神的にも限界だった。……僕は明日、お兄さんと話をしようと心に決めた。夢に出てくるのはお兄さんなんだ。お兄さんなら必ず何か知ってるはずだ。僕は日が昇るまでの間に何を聞くのかを何か理由があるのかをコーヒーを眠気がなくなるまで飲み続けながら考える事にした。
日が昇る頃には僕の腹はコーヒーでタプタプになっていたがなんとか眠ることなく時間を過ごすことに成功した僕はすぐに玄関を開けて外へ飛び出した。朝の8時と人に会いに行くには少し早い時間だったがこれ以上待てなかったために昨日来たばかりの彼女の家へと少し小走りに近い速度で歩いていた。……周りが少し騒がしい事を気にしながら。
……彼女の家に着いて。
僕はお兄さんに……会えなかった。
僕に会うなり彼女は僕の胸に飛び込んできて泣きながら言った。
“お兄ちゃんが死んだ”と。
……自殺だったそうだ。
死んだ時間は3時20分。
それを聞いて……僕は全てを理解した。
昨日まで一緒にいたのに!なんで!と僕の胸で泣き続ける彼女を僕はギュッと抱きしめる。
「…………。」
そして心の中でゴメンと彼女に謝る。
お兄さんが死んだのはきっと僕のせいだ。
「…………。」
お兄さんはきっと彼女の事を愛していたんだ。……兄妹なんかじゃなく。
……どうしてお兄さんが夢の中に出てきたのか今ならわかる。
……お兄さんは僕にずっとずっと“いえ”と言っていたんじゃないんだ。
目を閉じて思い出す。口の動きは
いえ じゃない
しね だったんだ。