8 霜柱を押し上げる芽のように
夢を見た。
目を開けた途端、記憶は朧気になる。さっきまでの現実は、頭から抜け落ち、すでに細部が思い出せない。しかし、感情までは忘却できなかった。
拠点に担ぎ込まれてから早数日が経過した。ダリアとの逢瀬は名残惜しくも終わり、目覚めた俺を待っていたのは、頭目のいかつい熊面だけ。彼女との楽園の思い出が台無しだ。
何でもこの世のものとは思えない衝撃音と咆哮が聞こえ、何事かと駆けつけた仲間が昏倒した俺を発見したらしい。これもきっとダリアの気遣いだろう。俺のために迎えを呼んでくれたのだ。
熊男が言うことには、俺はうわ言でも彼女を求め、傷口を覆う手を払いのけていたそうだ。
"花"を盗るなと叫ぶ俺を見て、頭目は機転を利かせ、庭に運ばせた。薬草で作った軟膏を塗ったくってやっと静かになったらしい。それからずっと、ここで治療を受けている。
濃い薬草の香りが身と心を癒すも、夢で見た光景がこびりついて離れない。無意識が勝手に作った虚構のくせに、俺の不安を容赦なく暴きたてる。
ただひたすら、悲しい夢だった。
何もかもぼんやりとした背景。建物の中か外かも曖昧な空間だが……ダリアがいるというのはわかる。
彼女は腕いっぱいに花束を抱えていた。赤、青、紫……またはその中間色した花たちは、どれも美しい盛りに見えた。やわらかい花弁が俺を誘っている。
何としてでも触れたい。きれいな花を直に愛でたい。その思いを、視線で訴えかけた。
彼女は俺に笑いかけてくれるが、近づきはしなかった。俺は我慢ならず、言葉より先に手を伸ばし……
「ダメよ。ハーヴにはあげない」
彼女は身を引き、俺の手を避けた。
視界にすら入れないよう背を向け、花を隠してしまう。
「だって、あんたすぐに寝ちゃうもの。おかげで私はほんの数秒しか本気を出せなかった。この花はあんたにはもったいない」
「……そんなこと言わないでくれ。次の対戦からうまく立ち回る……二度とおまえの前で意識を飛ばさない! 最後まで殴り合うって誓う!! 俺を信じてくれよ……!」
「無理よ……私、もう行くわ。ハーヴと戦っても楽しくないもの。この花は、あんたなんかよりずっと強い人にあげるの」
そう言ってダリアは歩き出す。弱い俺を置き去りにし、強者を求めて世界を巡るのだ。
再戦を呼びかけ追いかけた。けれど、ダリアとの距離は開くばかり。振り向かせることも、拳を届けることもできなかった。俺と彼女の間には、乗り越えきれない力の差がある。
身の程を知れと言われた気がした。彼女の花は俺のために咲かない。本気の拳を受けて、立ち上がることのできなかった俺は、彼女と戦う資格などない……
「行かないでくれ! 約束する、ダリアが満足できるよう、もっと強くなるから!! だからその花を、俺に……!!」
叫んだところで目が覚めた。夢だったからといって安堵することはできない。心のなかは後悔だらけ。不甲斐ない自分を責める時間が続いている。
なぜ再戦の約束ができなかったのか。
どうして、これからというときに体力が尽きてしまったのか。
せっかくダリアが本気を出して向かってきてくれたのに、俺はすぐ動けなくなり、情けない姿を晒した。
再度、拳を合わせて確信したのだ。彼女は強い。俺が憧れてやまないほどの力を持っている。
その実力は大勢から賛美されるべきだ。女だからといって不当な評価を受けるなど考えられない。
こんな小国など抜け出して、いっしょに広い戦場へと旅立ちたい。誰にも止められず、好きなだけ殴り合い、一番近くできれいな花を見ていたい。
しかし、それは俺の勝手な思いだ。
そんなの、彼女の所属する軍と同じ……弱い奴のなかに強者を埋没させるのと何が違う?
ダリアはきっとがっかりしたろう。大見得切って、真の力を見せろと謳った俺は、彼女にとって口ほどにもない相手だった。
戦いが好きという、本心を解放した彼女はもう自由なのだ。今まで押し込めていた激情のまま、好きなだけ好きな相手と戦う……俺などに構っている暇などない。
それが怖い。再戦を申し入れ、断られるのが怖い。
二度と戦えないなど耐えられない。だが、最強を目指す求道者なら、一度倒した相手を捨てるのは、当然の判断。
俺にとって彼女は所詮、高嶺の花だったのか……
「お、起きたか」
「頭目……」
またしても小言を吐くつもりなのか、庭に頭目が険しい顔で訪れた。
俺としてはもう何を言われてもいい。不安に飲み込まれず済むなら、こんな来訪も大歓迎だ。
「あの、これまで……勝手なことばかりして悪いと思ってます。いろいろすいません。あと……ありがとうございました。手当てのことも……こんなに薬を使わせてしまって……」
「いいさ。仕事上、信じられるのは互いだけなんだ。仲間を助けるのは当然だろ。それに、その傷を癒しているのは、おまえの育てた薬草だ。在庫の心配なんてしなくていい。怪我の治りが早いのは、育ててくれた恩返しのつもりなのかもな」
怒鳴られなかったのは意外だった。彼は巨体を揺らし、俺が横になってるござの隣へどっかと腰を下ろす。
長居するつもりなのだ。おそらく、俺を倒した相手のことを聞きたいのだろう。しかし、ただの情報収集とは違った思いを、つぶらかな瞳に感じ取った。
……彼はたまにこうだ。商家や貴族の屋敷を襲うときは豪快に戦い、力強い声で指示を出すのに、俺の庭を見るときだけ、どこか悲し気な顔をする。
「なぁ、頭目はどうして俺にかまう? なんというか……あんたは時折、俺に甘い気がします。こんな協調性もないやつ、普通の盗賊団ならとっくに追放だ。俺だって、ここに来るまでは、ずっとそんな扱いだった」
「そりゃあ、ハーヴは変わっているからな。普通、花好きの盗賊なんていやしねえ。綺麗な花や強い奴を欲しがる夜盗なんて、世界でおまえくらいだよ。だが実際、うちに抱えてみれば……何かと役に立った」
「違う。そんな理由じゃないでしょう? あんたは植物に何か思い入れがある。だって、俺の庭をそんな眩しそうに見てる奴……ほかにいなかった」
見上げる巨体は驚いたように身をすくめ、それからしゅんと項垂れた。
俺はまずいことを言い当ててしまったのか。気に障ったのなら立ち去ればいい。しかし、彼は不動のまま、何事か考えている。
「ハーヴ。俺はな……」
やがて頭目は口を開くも、話はいったん打ち切りとなった。
膨大な圧力を感じて声も出せなくなる。轟音が近づいたと思えば、大地に炸裂した。
空が割れる、地面が砕ける……
世界が……俺たちに牙を剥く。
「……娘がいたんだ」
その図体から考えられぬほどのか細い声で、頭目は過去を語った。
「だが……隣の国が吹っ掛けた戦争で、俺の留守中に村は滅ぼされ、一族全員死んだ」
言葉とともに、口から血がこぼれる。豊かな髭の下からでも容易にわかるくらい、その赤はあまりに鮮やかだった。
見渡す限りを白銀が覆う。冬が再びやってきたようだ。拠点は季節外れの吹雪と氷結に蝕まれた。
ただの冬ならまだしも、この冷気には殺意があった。鋭い氷柱が乱舞し四方を無作為に貫く。分厚い氷の壁が退路を塞ぎ、俺たちを死に至らしめようとしている。
大地転動。震撼の脅威から未だ立ち直れない。これは誰かの魔法だ。それも広範囲にわたる氷の魔法攻撃。
……ありえない。できるとしたらそいつは、人の枠を越えている。
即死を免れた幸運も喜べない。頭目は身体中を氷の槍に貫かれた。俺は直撃を避けたものの、氷壁からなる隙間に閉じ込められた。
逃れられぬ死の宣告を受けたようなものだ。出口の方向など見当もつかない。この場は魔法でひっかき回され、いずれは崩壊する。
「あの子は花が好きだった……俺が雑草と間違えて、育ててた花を引き抜いた時なんか、大泣きしていた。好きな植木を買ってやると言ったが……あの子は拒否して、ちぎれた花を水に挿し、育てた」
こんな状態でも頭目は話し続けた。俺は適当に相槌を打つ。
そうする以外、意識と正気を保てそうにない。他にも生きている奴はいるだろうが、うめき声は静寂に潰されていく。
「……しばらく経ってから、あの子は喜び勇んで花瓶を見せにきた。そこに挿していた花はな……きれいな綿毛になっていたよ。小高い丘でいっしょに飛ばした……あの子の優しさがなければ、できなかった種だ」
話すのをやめろとは言わない。俺も、頭目にも、時間は残されていないのだ。せめて、その時を迎えるまで好きなようにさせてやる。
咳き込み、血を吐いてもなお、巨漢は声を出し続けた。
「おまえならわかってくれるだろうな……植物は強い。俺たちは首や胴がちぎれたら死ぬし、手足を欠いたら、絶対に次が生えたりしてこねえ。でも、そいつらは違う。燃やされても、切り倒されても……また根を張り、種を作って世界に広がっていく……もう永遠の存在だと言っていい。そう考えると、あの子の飛ばした種が、今もすぐ近くにあるような気がしてくる」
「……頭目」
「ハーヴ。おまえは花が好きだと言った……おまえが今まで育ててくれた植物の中に、あの子の花があったかもしれない」
身じろぎをする巨体を氷槍が深々と抉る。動いても傷が増えるだけだ。やめるよう呼びかけても、彼は俺のいる方向へ身体を傾ける。
「……なあ、そこに緑はあるか? 草花は無事なのか……?」
目も霞んでいたか、頭目にはこの景色が見えていない。そうでなけりゃ草木があるか、なんて馬鹿な問いはしない。土の色はおろか、元の地形さえ留めていないのだ。緑など見えるわけがない。
だから、俺は……率直な気持ちで答える。
「……ええ、無事です。こいつらにとって、この程度の寒さ、大したこともないでしょう。いずれ雪は全部溶ける。ここが崩壊して土に埋まっても、いつか地上に芽を出すんです。今が冬だとしても、必ずそのあと春がくる……あんたの娘が助けた花も、四季の連鎖に還っていった。代を経て、きれいに花を咲かせ、また種を作る。永遠に世界の一部となったんです」
「……そうか。そうだな……ありがとう」
頭目が死に、仲間の声も数を減らしていく。動ける者は出口を求め、傷を抱えた者は見苦しく死ぬ姿を恥じて、氷の奥へ歩いていく。
そして、いつしか……生きている者の気配は絶えていった。
確かに俺たちは好き勝手に生きた。いつ死ぬともわからない、死線や危険を踏んで歩いてきた。やってきた行為のほとんどは、人に顔向けできるものじゃない。
盗賊、人間の屑、卑しい物盗り……それが俺だ。何も残せず、ここで朽ちるのがお似合いなのだ。
身体の芯まで冷え切っているが……俺は上着を脱いだ。震える手で袖をめくり、腕に巻かれた包帯も取り去る。沈痛のために塗った軟膏から、薬草の香りが極寒の地に広がった。
「……ダリア」
別れの切なさを込めて、猛々しい闘士の名を唱える。頭上に掲げた右手には、彼女がくれた"花"がまだ赤々と咲いていた。
俺は腕を顔に押し当て、無情な現実と自身の無力を嘆く。わずかな熱がそこから零れた。
心残りが山ほどある。無念で胸が張り裂けそうだ。
俺たちが二人だけで戦えたのはたったの一度。初めて会ったときから、焦がれるような戦意が芽生え、拳を交わしてさらに育まれた。ここまで来て花咲けないなど惨すぎる。
ここで終われない。終われるわけがない……!!
こんなところで最期を迎えるなんていやだ。死ぬのならダリアに殴り殺されたい。彼女からの大輪の花を抱いて眠りにつきたい。
魂だけは憤激に煮えたぎるも、周囲の雪を溶かすことはできない。
意識が薄れてゆく。何もかもわからなくなり、永遠の冬に閉ざされる……
「ハーヴ!!」
燃えるような気配に、凍てついたはずの意識が覚醒する。氷の壁を透かした向こう……どんな障害物があってもわかる。強者の闘志が俺へ伸びる。
彼女は疾走した。氷の棘を踏みつけ、砕きながら助走を稼ぐ。闘争の衝動を滾らせ、踏み込み、美麗に拳を唸らせる。
俺の眼前で、ダリアの本気が弾けた。
「……ダ、リア……ダリア! ……どうして、ここに……?」
「だって……草の匂いがしたから」
呼気が止まるほどの驚愕から覚め、彼女の存在が夢ではないと確信してから、俺の心は絶望で満ちる。ダリアはこんな場所に来るべきではない。その拳はもっと激しい戦闘のために振るわれるものだ。
こんな、いつ崩壊するかわからない死地にいてはいけない。俺をここから出すために、拳に血を滲ませ、壁を殴ることも……
「ハーヴ! ねえ、ハーヴ!! いつまで萎れている気!? 私への闘気はどこにいったの。いいから、早く出てきて!」
「ダリア……やめてくれよ! なんで来たんだ!? おまえは戦いが好きだって認めたはずだ。なのに、果し合いじゃなく、こんなところで犬死にするつもりか?」
彼女の拳は止まらない。発現者はどれだけ魔力をかけたのか。魔法でできた分厚い氷は、本気の攻撃を受けてもひび一筋出さなかった。
俺はやめろと訴え続ける。急いで止めねば、彼女の拳が砕けてしまう、強さが損なわれてしまう……!
最高の"花"を生み出す力が、俺のせいで永久に失われる。そんなことがあってはならない。
「俺なんか放って逃げろ! おまえの力はこんなところで使うためにあるんじゃない!! 広い世界で……俺よりずっと強い奴との闘争で使え。もう迷いは振り切ったんじゃないのか? ……俺のことなんて忘れて、自由に生きてくれ。おまえはこんなところで倒れていい戦士じゃない!!」
騒音に負けないくらいの大きさで、ダリアがわかってくれるよう、近づいて話す。
返事は拳で表現された。彼女は俺の顔目掛け、今までで最高威力の一撃を放ったのだ。
「馬鹿っ!! そんなこと言ってないで、ハーヴも早く壁を壊してよ! あんたはここから出たくないの? 私と戦いたいっていうのは嘘だったの!? ……同じ思いだって言ったじゃない、戦闘が好きなら早く出てきて! 私と戦って!!」
氷壁のみを隔てた距離で俺たちはただ見つめ合った。近くで見てやっと、その口元の赤が紅でなく、俺の贈った"花"だと気づく。
触れたいと思って伸ばした手は、あえなく氷に阻まれた。
「勝手に私の対戦相手を決めないで! ハーヴ!! 私はあんたと殴り合いたいの! あんたとの戦いが好きなの!! ここで死ぬとか言わないでよ……馬鹿っ! ……どうせ、死ぬんなら……私との戦いで……私の手にかかって死んでよ……!!」
「……ダリア!!」
鈍い衝撃。後からやってくる氷の冷たさ。変色する拳。こんなの俺が求めていた感触ではない。俺が殴りたいのはダリアだけだ。
涙目でうつむいていた彼女が、はっと俺を向く。まるっこい瞳に俺が映っている。その無防備な顔に拳を打ち付けた。ああ、なんて邪魔な壁なのだ。
「……同じことを考えていた。俺だってここで死ぬのはいやだ……! もっとおまえと戦いたい!! ずっと、何度だって相手になる……命果てるなら、おまえとの死闘がいい……!!」
「……!! ハーヴっ!!」
もはや壁など視界に入らない。早くこのもどかしい感触をどけてしまいたかった。
余計なものを通過して、俺たちは闘志を燃やし、打撃を繰り出し続けた。名前を叫び合いながら、この手が互いに届くことを強く望んだ。
衝突音が音色を変えていく。壁を削る音か、それとも俺たちの身体が砕ける音か。なんにせよ躍動は止まらない。
これは前哨戦に過ぎない。霜柱を押し上げる芽のように、氷壁を割り、光浴びるまで続いていく。
早く戦場へ行って、真の戦いを始めよう。明るい陽の下でこそ、花は鮮やかに映えるものだ。
ここから出たら、何度だっておまえに"花"を贈ろう。
何よりも赤く、大輪の花を……