7 冬の日に
ハーヴとの戦いの記憶は数日経っても色褪せず、私の心に焼きついている。
まっすぐで素直な思いは拳に乗って伝わった。切れて赤く染まった口元を見るたび、そばにいなくとも彼の熱を感じられた。いつか痕が消えてしまうとしても、私はずっと覚えている。
私はひとりじゃなかった。
戦いが好きという……同じ思いを持つ人が、ちゃんとこの世界にいたのだ。
あの白い二輪の花を見たとき……行かなければと思った。ハーヴは私との戦いを諦めていない。熱い闘争心を保ったまま、待っててくれている。
私はすぐに先輩に頼み込んで、見張りの仕事を替わってもらった。先輩は急な申し出に驚いて逃げ出そうとしたが、退路を絶ってから真剣に説得すると、わかったから殺さないでくれと言って、快く引き受けてくれた。
職場を飛び出しても目的地なんてわからない。ハーヴたち盗賊の住処はまだ割り出されていない。山中をさまよえばいつか見つけられるとしても、それまで待てそうになかった。
だから、私はあの場に行った。ハーヴが初めて私を見つけてくれた場所なら、もう一度だけ奇跡が起こると思って。
果たして彼は現れた。
私たちの思いは通じ合っていたのだ。
「あらあら。最近はずいぶんとご機嫌だねえ、ダリア」
昼食をとる手が止まっていたのを、給仕のおばさんは目ざとく見つけ、声をかけた。知らぬ間に笑っていたのかもしれないと思うと、恥ずかしさに顔へ熱が集まる。私は急いで匙を持ち直し、平然としている風を装った。
「そ、そうかな。どうしてそう思うの?」
「だって、ずっと楽しそうに笑ってたじゃない。何かいいことがあったんだねえ。誰か素敵な人でも見つかったのかい? ダリアも年頃だからねえ。いつ恋人ができてもおかしくないわ」
「ちょっと、おばさん! やめてよ!! そんな……まだ、ハーヴとはそんな関係じゃないの!」
「うふふふ。"ハーヴ"っていう名前なのね、その人。緑が綺麗な若草の名前……そうかい、ダリアにもついに春が来たってことね」
名前まで口走ってしまい、もう誤魔化せない。私は赤面した顔を覆う。
こういう話は今まで経験がなくて、どう対応したらいいかわからない。おばさんに指摘された気恥ずかしさと、ハーヴが私と親しい関係になってくれる可能性を気づかされ、戸惑いでまともに返事もできない。
おばさんはあわあわしてる私に優しく微笑み、仕事の続きをすべく去っていった。
本当にそんな深い仲じゃない。私たちの戦いはまだ始まったばかりなのだ。
けれど、私は期待してしまう。もしもハーヴが私の……"好敵手"になってくれたら、すごく嬉しいって。
でも……この関係を続けたら、彼は一体どうなる?
門番の仕事に向かう途中で気がつく。この廊下は外へと続いているが、曇天の空の影響で夜のような暗さだ。思い出すのは、戦い終わってからのハーヴの表情……
本気の拳を受け止めた後、彼は私の技がきれいだと笑って、気を失った。あまりの安らかさに、幸せな夢を見ているようだと思うほど。私は彼に手当てを施し、ちゃんと仲間に見つけてもらえるよう地盤を砕いたり、咆哮したりして轟音を放った。
今回、命に別状はなかったけど、いつか……幾度目かの楽しい戦闘の時間に……私がハーヴを倒し、彼はそのまま二度と目覚めなかったら……?
「……そんなの、やだ」
無意識に呟いた恐れは、漆黒に消えていった。目の前が不安でぐるぐる歪んでいく。それ以上進むのを恐れるかのように、私は動けなくなる。
ハーヴは私に再び夢を思い出させてくれた。世界で一番強くなるという、私の願いを否定せず認めてくれた。
私たちは戦いが好き。それも……命を懸けた、血みどろの闘争に心惹かれている。でもそれは、人を慈しむこととかけ離れた行為だ。
戦いが好きでいる限り、私たちは強くなるだろう。拳を競い、技を磨き合う。攻防の一挙一動、火花散る熾烈の撃ち合いは、いつかどちらかの死を招き、私たちを永遠に引き離してしまう。
楽しい時間は一瞬だけ、その後は彼のいない人生をたった一人で歩まなくてはならない。
矛盾した感情が心を覆う。私は彼を失いたくない。けれど、彼と本気で殴り合いたい。
他には何も望まない。生死をかけた激烈な時間を、ハーヴと共に過ごしたいだけ……
"いいや。おまえさんは、最も大切なものを奪おうとしておる"
"それは、人の命じゃ"
暗幕を背景に過去の記憶が蘇る。剣の先生はこれを警告していたのだ。最強を目指すという夢の実現には、同じ武の道を極める者を、残らず打ち倒さないといけない。大切な理解者とて例外ではない。
先生は手遅れにならないうちに、この夢を捨てるべきだと言った。でも、もう遅い。私は言いつけに逆らい、本気でぶつかり合う楽しさを知ってしまった。そうなってしまった今、命のやり取りのない戦闘など、何の魅力も感じない。
一つの迷いが晴れても、また次の迷いがやってくる。この方法で喜びを感じる限り、私は常に破滅的な矛盾と隣り合わせだ。
暗い廊下を出た後も、外は私を冬の日のような薄暗さで出迎えた。
私の惑い、悩みは一生ついて離れぬと思っていたが……門の前にいる存在を認識した途端、注意のすべてが奪われた。
男が立っている。背に負う装備からして、旅人だろう。
城門の中に入りたいのか、先に見張りについていた先輩と押し問答をしている。つばの長い帽子を脱いで、私たちに見せた素顔は砂煙に汚れていた。一つに結わえた長髪は紫苑の色。緩くうねって風に流れる。
陰影はっきりとした顔のつくりは彫像のように整っており、常に何かを思案しているのか、銀の瞳は遠くを向いていた。汚れを拭って磨き上げれば、美丈夫として見る者を惹きつけるだろうに……彼は古びた石像のまま苔生すに任せ、外套という名のぼろきれで身を包んでいる。
「……君は、私を中に入れないと云うのか」
「だからさっきからそう言っているだろう! 許可証のない者は通過できない。貴様のような素性のわからぬ者だとなおさらだ。回れ右して、とっとと失せろ!!」
「そうだな。きちんと名乗るべきだった。私は"不死なる賢者"……と言えば、君も少しは知っていよう。私は旅人。私は賢者。永劫続く命を掲げ、久遠へと思想を運ぶ者。そう……私は"不死者"。世界を流転し揺蕩う不滅の万物だ。すべての知識を民衆へ説こうと、この地に来た」
「はあ? 何を言ってる。貴様は"不死者"だと? ふざけたことを」
先輩が取り合わないなか、私はその男から目が離せなかった。全体的に兵長はじめ職場のみんなは、他者からの気配に無頓着なきらいがある。相手の強さを見極めるのは、戦士として初歩の能力なのに、誰も身につけていない。私がここで女だからと舐められるのがいい証拠だ。
だからこそ、先輩の悠長な態度が信じられない。
普通に戦闘を修めている者なら、"この男が人間じゃない"ことくらい、すぐに気づくはずなのに……
「不死者……"賢者"?」
私は小さく聞き返した。男と先輩、両名の視線がこちらに集まる。もし、この長身痩躯の男が"不死者"なら、それはとてつもなく強者のはずだ。
昔、道場の師範代が教えてくれた。この世界における絶対強者、"不死者"……この世界に数名のみ存在するという、死を超越した不滅の魂を持つ者たち。彼らは例外なく最強の魔法使いである。
途方もない量の魔力を有し、ありとあらゆる事象を魔法として発現できる。目の前の男も、その気になれば、こんな国を一瞬で滅ぼすなどわけない。
「ふむ。そちらの女性は知っているようだ。いかにも私は不死者。"思想家"……あるいは"流浪の賢者"と呼ぶ者もいる。私はこの身で培った叡智を……特に術式の知識を、全世界に広めるべく旅をしている。信じられぬと言うなら、証を見せよう」
そう厳かに言い、彼はすっと右手を上げた。さては極大魔法を放つかと思い身構えたが、発動の光は見えない。
代わりに……彼の手がほろほろと崩れていく。白くやわらかな粒子が、風に吹かれて飛ばされるように、腕を始点にして男の姿が欠けていく。
先輩は悲鳴をあげて城門の中へ駆け込んだ。確かに常人にはできない魔法だ。そんなもの、何の経験を具象化したら発現するのか。どういう術式を紡げば肉体を変化させられるというのか。
……いや、違う。人ではないと感じていたが、彼は"雪"でできている。氷雪の塊がこの男の正体だ。
ありえない現象を恐れるより、私はひどく焦りをおぼえた。
男の魔法を止めなければいけない。門の前の景色はハーヴが美しく整えてくれたもの。春のぬくもりを謳歌する草木が、再び冷気を浴びてしまう。凍てつく冬が緑を覆い隠してしまう。
彼の身体の一部だった雪が、あの花の方向に流れるのを見て、私は思わず叫びそうになった。
「大変申し訳ありません! 不死者の御方とは知らず、部下が失礼な振る舞いを……!!」
大声の主は振り向かずともわかる。隊の守護兵長が禿頭のてっぺんまで蒼白にして、男の前に跪いた。
いつも傲慢な上司だが、この緊急事態に矜持などこだわっていられない。少しでも不死者の機嫌を損なえば、この場全員の命はないのだ。
「なんとも、お詫びのしようもありません。ここ最近、我らは盗賊の被害に遭い、警備を厳重にしておりまして……どうぞ、お通りください! 我が王家に御面会給わりたく申し上げます!! この国一同、賢者様を歓迎いたしますので。ささ、中へ」
最初から彼に敵意はない。国の者へ知恵を広めたいという目的は真実のようだ。第一、本当に入りたいと思えば、城壁など障害でも何でもない。魔法で吹き飛ばすもよし、その身を粉雪に変えて侵入することだって可能。
賢者は兵長らの案内で貴族たちの街へと向かう。ただ通り過ぎる瞬間、彼が呟いた言葉に身の凍る思いがした。
「盗賊か……安心なさい。この私が制裁を下そう」
「あ……あ……」
他の兵士が珍しい人物の姿を拝みに行ったあと、私は一人残って門前に立ち尽くしていた。どのくらい時間が経ったかわからない。賢者が街に入り気配を追えなくなった頃、手や身体に震えがくる。右手に握りしめる槍の、柄を握りつぶしたのにも気づかず、喘ぐように息をする。
価値観が根底から崩壊する。私はあまりにも幼稚だった。世界を知らなすぎた。
戦いが好き? 世界で一番強くなりたい?
"彼"を見てから、本当にそんなことが言える?
面と向かって、倒せるか倒せないか測ることもできない。殺意を向けたら最後、一方的な蹂躙がはじまるのみ。彼が去ってから思考しても、勝利の可能性など皆無。それくらい強大な力を、あの男は手にしていた。
この世には、決して覆らない力の差があったのだ。
「やだ……そんな、ハーヴが……!」
その力は、民衆の敵へ降り注ぐ。
震える身体をなんとか動かし、再び不死者のもとへ行く。これからやることが無茶だとわかっている。誰も取り合ってくれないことも。仮にもこの国の"兵士"である私が、盗賊の助命を求めるなど……
それでも私は……どうしても嫌だった。いつかその時を迎えるとしても、ハーヴが私との戦いでなく、他人の手で逝ってしまうのが。
「放せよ! ちくしょう、放しやがれ!!」
決死の覚悟は怒号で破られた。粗野な男の声と、その主を先輩兵士たちが押さえつける音。
みすぼらしい身なりの男が牢屋へ連行されていく。その顔に見覚えがあった。忘れもしない……私がハーヴと初めて出会ったとき、彼といっしょにいた仲間の一人だ。でも、どうしてこんな場所にいるのだろう。もしかしてハーヴも近くに……?
私は一瞬で距離を詰め、先輩の一人の手を取って問いかけた。
「あの、すいません! いったい彼はどこから……?」
「ひっ……おまえか! あ、あいつはな、例の盗賊の一人だ! いつの間にか街に潜伏していたらしい。家屋に火を放とうとしていたのを取り押さえた……なんだその物欲しそうな顔は? 奴の仲間と戦おうとしても無駄だぞ。あの"賢者様"は盗賊退治に意欲をみせた。国のために悪党どもを討伐されるそうだ」
「そんな! 不死者のあの人は、もう王宮へ行ってしまったの?」
「やっ、やめろ! 力を込めるんじゃない、腕を折らないでくれ! 話す、話すから!! ……そうだ。あの方は真っ先に国民の不安を除こうと、奴らの巣窟に魔法を放つと……っ!!」
「……なっ!?」
地響きがした。
遠く、深く……大地を伝って振動が届く。
何か……恐ろしく強大な力が上空を通過した。この場から離れた位置に衝撃が沸き起こる。立っていられないほどの強い揺れが波紋の如く襲い来る。まるで、世界そのものが壊変したかのようだ。
私は先輩を突き飛ばし、城壁の最上部を目指し走った。嘘だと言ってほしい、これが悪い夢ならいいのに。おそらく頭上を駆けたのは、不死者の発した魔法。それが貫いたのは……その方向は……
先行く者をなぎ倒す勢いで駆け上がった階段。古くとも強固な障壁、その頂上への扉を開ける。
晴天の鋭利な光が、私を待ち構えていた。
さっきまで外は見渡す限りの曇り空だった。暗く墨色がどこまでも広がり、地表の緑に春雨を降らすように見えた。広がりかけた新芽たちへ、成長の糧となるよう、平等に与えられる恵み。雲の名残は左右の空に見られる。だがそれは、無残にも切り裂かれ、散り散りに消えてゆく。
王宮から放たれた魔法は、春の空を裂いて進み……ひとつの森へ命中した。
私とハーヴが会った場所。激闘を繰り広げ、互いの思いを確かめた地。
思い出の景色を含んだすべてが……氷に閉ざされていた。
「わははは!! はははっ、素晴らしい。これが不死者の力か! なんと偉大で凄まじい。忌々しい盗賊どもは、何が起こったかわからぬうちに全滅だ!!」
「……兵、長」
城壁の見張り台にて、禿頭の上司が狂喜していた。部下たちも連れず、一人で変わり果てた景色を眺め、彼方を指さして笑っている。一番いい席で、魔法の着弾と氷山の展開を見物していたのだ。
盗賊たちの本拠地は未だつかめていない。しかし、出没の多い地域は把握済みだ。不死者は盗賊退治に赴かず、彼らがいるであろう場所のみを尋ね、山ひとつもろとも葬った。
大雑把で確実。大量の魔力に任せた攻撃だ。
なんて……ひどい。貴族や王族は遠方の土地などどうでもいいというのか。不死者はなぜ安々と依頼を請け負い、こんな形で叶えてしまったのか。
兵長の耳障りな歓声が滔々と流れるなか、ついに思ってしまう。
なんで私は、ずっとこの場所を守っていたんだろう。
「……兵長、すいません」
この場に一人と思い、はしゃいでいた上司の顔が固まる。口を動かすも言葉が出てこない。私から目を離さず、じりじりと後ずさっていく。
今、どうしてもこの場で伝えたいことがある。本来なら紙とペンで表すものだけど、残念ながらそんなものは見当たらない。でも、思いを伝える方法なら、まだ有効な手段が残されている。
「私……この仕事、辞めます」
「な、ななな……おまえ、は……!!」
拳を作って、型通りの構えをとる。
兵長は見苦しく喚き、怒鳴っても効かぬとわかれば、嗚咽交じりに命乞いを開始する。こんな人でも一応は上官だったから、私は尊敬を込め最上技を選ぶ。彼は足をばたつかせ逃れようとするも、私の間合いから脱するには、城壁を飛び降りるしか手はない。
「これは辞表の代わりです。受け取ってください」
返事は人語で発されず、春の空を背景に上司の身体が舞った。
これが最後の挨拶だ。もう私は兵士じゃない。ただの一介の戦闘狂。至高の戦いを実現するためなら、国でも……不死者でも、何にだって立ち向かってみせる。
立ちはだかる先輩兵士に別れの拳を贈り、私は牢屋に押し掛けた。職場を辞す前に、忘れ物があってはいけない。鍵を探す手間が惜しかったので鉄扉を殴り壊して開ける。
隅で震える盗賊の虜囚を招き、外へ連れ出した。
「命が惜しかったら、あんたたちの拠点へ案内して」
邪魔な元同僚たちをどかしつつ、男を道案内に、まずは出口へ向かう。途中、掃除用具を持ったおばさんを見かけた。非常に驚いた顔をしている。
当たり前か。私は国と兵士のみんなを裏切り、罪人を脱獄させ、不死者が滅ぼすはずの盗賊を助けに向かおうとしているんだから。
でも、もう他の人にどう言われようと気にならない。私は精一杯笑って手を振った。
これが私の本心。どんなに時を経ても、環境が変わっても……決して失わない、彼への思い。
「おばさん! ごめんなさい。今までありがとう!! 私……ハーヴといっしょにいたいの!! 彼と二人で生きていきたいの!!」
おばさんは満面の笑みで手を振り返す。まだ事態の重大さに気づかないゆえの行動だろうが、それでも……私たちに祝福をくれた。
「行っておゆき、ダリア! しあわせにね!!」