2 みどりの指
拠点の中の小さな池……身内から"水たまり"と呼ばれる湧水地に、不健康な男の顔がある。
つまり俺だ。くすんだ金髪はベッドに使った後の干し草に似ている。薄暗い周囲に合わせ、明度は落ちるのは仕方ないとしても、ぱっとしない髪色なのは変わりない。
この場に繁茂する草木のみずみずしさもない。羨むように手を伸ばせば、葉に溜め込んだ露をくれた。そのまま触れた一枝には重い蕾がついている。開花はもうじきだろう。
ここは俺の庭。逃避行から戻ってくれば、育てている草たちが、夕日を撥ねて帰りを出迎えた。緑を見て気分が落ち着いたあと、"水たまり"にかがんで襟をくつろげ、皮鎧を外していく。
始まったばかりの春はまだ、花びらを広げるには厳しい世界だ。ここだって名も知らぬ野草が寄り集まって葉を出すも、花弁を見せびらかすものはひとつもない。けれど……
水面に映った俺のみぞおちには、一足先に赤い花が咲いていた。
衝撃的な出会いから逃れてきても、女兵士の姿は脳裏から消えなかった。この国の兵士とは、何度か戦ったが、いずれも腰抜けの雑魚ばかりだった。心躍る戦いなんて到底望めない、そんな骨のない連中だと思っていた。
同じ軍装を纏えど、彼女は明らかに異常だ。どうしてあれほどの業を身につけたのか。本気の彼女はいかほどの強さか……そんな逡巡は、庭に月光が降り注ぐまで続いた。
いくら考えれど埒があかない。俺は諦めて寝転び、目の前でそよぐ緑を見つめる。
植物はいい。いつまでこうしてても飽きない。どんなに萎れていても、何度踏みつけられても天に向かって葉を伸ばす。与えられた水や肥料を素直に喜んで、全身で生を謳歌している。
同意を得られたことはないが、俺はこいつらが好きだ。ガキだったころから緑のつやめきに心惹かれていた。昔、俺にもいたという家族の記憶より、草原を見ている思い出のほうが多い。
俺は捨て子だったらしい。引き取られた施設には薬草を育てる庭があり、言いつけられたわけではないが、進んで栽培を手伝った。何かにつけては緑を眺め、その成長に喜びを感じていた。
ただ……草花の世話に勤しむ俺を、少女趣味だと笑う奴は大勢いた。
相手は同じ施設にいた年上のガキ、学び舎の同級生等々……俺はそれらすべてに喧嘩を売ってぶちのめしてきた。凹んだ土と同じように踏みつけ、引き抜いた花の倍ほど傷を贈った。
繰り返せどなくならぬやり取りは、俺がその国の兵士に追われるまで続いた。
今もやることは変わらない。俺の趣味はよほど男にとって軽く見られるものらしい。
喧嘩は強かったから、その技術を手っ取り早く生かせる盗賊となった。腕を買われて幾多の盗賊団から勧誘の声がかかったが、あまり長居できたためしがない。
荒くれ共が集まる場所に俺の嗜好を理解する奴はおらず、少しでも目を離せば庭が荒らされ、報復に励むこととなった。
地面から伝わる振動が意志を持って近づく。足音は先ほどから聞こえていたが、どうやらこちらに向かう用事が生まれたようだ。寝そべる俺の足元に大柄な気配が留まる。
視線を上げると厳つい髭面が目に入った。逆立つ髪と顎髭には威嚇の効果がある。着込んだ毛皮も似合いすぎて元から生えていたのかと思うほど。本当に熊としか例えようのない巨漢だ。
通常の熊なら、人間から狙うのは命だけだが、この男は加えて金銭と身ぐるみを要求する。
「ハーヴ」
熊が人語を介した。発したのは俺の呼び名。
"万能草"の通称もまた、この男が仲間に広めたものだ。
「どこにいるかと思えば、おまえ……また草の世話かよ」
「なんか用すか、頭目? むしらせる薬草ならもうねえです。軟膏も品切れ。ほしかったら、馬鹿どもに言ってやってください。毎日怪我ばかりこしらえてんじゃねえって。あいつら、やれ薬が欲しいだの葉を噛みたいだのほざいて、ここを荒らしてく……」
ここの草花に薬用と……その他お楽しみの効能があると知ってから、仲間たちは庭に殺到し、植物の使用を求めた。俺は別に役に立つから育ててるんじゃない。好きだからやっているだけだ。
無頼の集団は葉の独占を責め、造園を馬鹿にし勝手に株を持ち去ろうとしたが、数度の殴り合いを経るだけで大人しく俺の趣味を容認した。
手下の物分かりはいいのは、この巨漢の統率の賜物か。
「心配すんな。薬草を狙ってるんじゃない。おまえの育てた芥子も、まだ備蓄がある」
「じゃあ何しに」
「今日、手強い女兵士とやり合ったそうだな」
無意識に顔が強張る。それだけで肯定の返事となり、頭目は納得したように頷いた。
こちらの気持ちを理解している、とでも言いたげな態度が苛立たしい。俺の混沌は一向に晴れないというのに。
「おまえと同じくそいつと遭遇して、派手にやられた奴が何人かいるんだよ。女に負けたのが悔しくて言い出せなかったんだと」
「は? あいつら、あの女のことを知ってて黙ってたのか!?」
「怒るのも無理はない。今になって騒ぎ出したのは……仮にも戦闘派のおまえが、その女に苦戦したと知ったからだ。それほどの相手にやられたんなら、恥にはならないとでも思ったんだろう」
俺は半身を起こし、頭目を睨み上げた。苦い実を噛んだ時と同じ思いが胸に広がる。
急ぎそいつらを締め上げないといけない。彼女の存在を秘匿していた者どもに、報告を怠った責任を味あわせないと。
もし、事前に彼女のことを聞いていたら……
あんな出会い方には、ならなかったはずだ。
「ハーヴも仕返しがしたいようだな。心配せずとも、情報はちゃんとくれてやる」
「違う。俺は……」
「わかってるさ。俺はおまえの実力を信じている。だからこそ、うちに来いって声をかけたんだ。今回は不覚を取ったんだろ? そうでなきゃ、女なんかに退くわけがない」
本当に違う。俺は報復がしたいんじゃない。あの女兵士と二人だけで戦いたいだけだ。
性別だけで侮るなど馬鹿の考えだ。一瞬でも拳を交わした俺ならわかる。彼女は本物の強者、これまで会ったなかで随一の戦士だ。だから……だからこそ俺は、どうしようもなく惹きつけられてしまう。
「……そういや、前から思ってたんだが……なんでハーヴは花とか草が好きなんだ? ……違うぞ。おまえを笑ってるわけじゃない。純粋な興味だ。喧嘩っ早くて短気で好戦的なお前が、なんでまた植物に執着してるんだ?」
緑に視線を落とした俺へ、熊男が疑問をぶつける。これまでにも言葉を変え、相手を変え、何度も訊かれた問いだ。毎回俺は率直に答え、率直に笑われ、率直な殴打を食らわせてきた。
自らの気持ちに嘘はつかない。今もまた、正直に打ち明ける。
「そんなの決まってる。きれいだから…………戦うのが好きなのも、同じ理由です」
きっかけはずっと前から。大事にしていた草木をむしられ、庭を荒らされたとき。俺は実行犯のにやけ顔へ、怒りのまま拳を振るった。
……そして気づく。
「殴った痕。花といっしょだ、きれいな色をしている」
欝血。紫斑。打撲痕。
思い通りにつかぬ形もまた、自然の成す一輪らしい。武器による裂傷も千々の赤を散らすが、一番きれいなのはやはり、拳によってつけたものだ。
その色彩は一律ではない。赤から、青、紫と……時に移りゆく。いくら見ていても飽きない。相変わらず、同意を得られたことはないが……
意外なことに、頭目は笑わなかった。熊ほど巨体のくせに瞳だけはつぶらかで、苦労して奪い取った宝玉を見るようにして、俺の庭を眺めている。
「たとえ、人を殴る手だろうが……おまえは美しい花を咲かせてきたな」
この男がどんな感傷を重ねて、俺の庭を見ているかなどわからない。暗黙の了解として、盗賊となった奴の経歴は尋ねない。俺のように"好きなことを追求してこうなった"奴を除けば……皆、身を落とすに相応しい過去がある。
「なあ、ハーヴ……"みどりの指"って知ってるか?」
「……いいえ」
「昔……故郷で聞いた話だ。身体が緑色をしてるってことじゃねえぞ。もちろん比喩だ。どんな植物も育て上げ、喜ばせる力を持っている……そんなやつの手を"みどりの指"って言うらしい」
まさしくお前のことだ、頭目は低く笑った。
盗賊にもおとぎ話の力が宿るんだと、しみじみ呟く。
……いいや、違う。俺にそんな力はない。
頭目から視線を外して周囲を見る。俺たちが来るまで、ここは荒れ果てた廃墟だった。俺が手を加えた後は草花が生い茂り、緑の潤いが生き生きと満ちている。
指先には開花間近の蕾が重たげに揺れていた。最低限の日当たりだけで、ここまで育つのは珍しい。だが、それでも俺は満足しない。
「あの女は、俺よりずっと……きれいな花を咲かせる」
指は自然とみぞおちを探る。やわらかな花弁に触れるように、女兵士につけられた痣をなぞる。出会いから何時間も経っているのに、そこは激しい熱を持っていた。
必ず会いに行こう。
俺は、まだ……彼女の名前も知らない。