異世界転生マニュアル
どこにでもあるような、B5サイズの大学ノートが道端に落ちている。
水色の体に青い背中。ノートと言ったら誰もが真っ先に思いつく、某有名メーカーのものである。
ただ、それの表紙に書かれている題名は、どこにでもあるようなものではなかった。
『異世界転生マニュアル』
それは印刷などではなく、人の手による筆跡を残していた。サインペンと思しき、深い黒の淀みない線の走り。
けれど、道行く人々は誰も興味を示さない。
一瞥して視線を元に戻す者、含み笑いをする者、一瞥すらしない者。誰一人として近寄りもしない。
アスファルトに佇む水色の長方形。
そこに記された題名に、誰もが愚者の兆しを垣間見たのである。
拾えない。近寄れない。近寄って、これの持ち主が自分だと思われたら普通に恥ずかしい。死ねる。
そういう意味である。
数刻が経ち、人通りは閑散としたものになる。数分に一度、一人か一組が通りかかって、またしても同じ反応を見せていた。
と、その時。
年の頃は二十代半ばほどの、ちょっと何で生きているのかよくわかんないくらいにやる気のなさそうな青年が通りかかるやいなや、
(マジか……!!)
ノートに興味を示した。
遠目から題名を確認すると目を輝かせながら駆け寄り、誰もが禁忌だと言わんばかりの反応を見せていたそれを、ひょいと持ち上げると同時、彼の手は震えだす。
(異世界に……転生だとっ……!)
それは青年の長年の憧れ。
ぼくがダメな人間なのは、ぼくが悪いんじゃない。ぼくを取り巻く環境が悪いんだい。
きっと中身も外見もイケメンに生まれ変わったら全部がうまくいくんだい。
そんな残念な思考回路を日々、巡らせて生きてきた。
今世は早々に諦めて来世で頑張ればいい。その、来世に良い条件を付加するにはどうすればいいのだろうか、なんて事も常に考えながら。
もっと他に考えるべきことは沢山あるのに、そんなことばっかり考えているから、彼の学歴や交友関係は悲惨なことになっていた。
彼にとってはそれでも良かった。
来世はきっと、ファンタジーな世界でイケメンになってハーレムを構築しつつ俺って強いねみたいな薔薇色人生が待っているのだから。
それでも良かったのだ。
その足がかりと成り得るかもしれないものが、今、眼前にある。
心躍った。
心躍るついでに体でも踊り、軽快なステップと珍妙なダンスをしながら彼は帰路につく。
割と高い確率で通報されるような動きであったが、彼は運良くそれを回避した。
まだ中は見ていない。帰ってからのお楽しみだ。
それでもワクワクが止まらないから、表紙を見つめていた。そして、某有名メーカーのロゴ、Kから始まる文字を見ると、青年は驚愕した。
(コ……ク……黒曜!? なにそれかっけえ……!)
ちょっと惜しい。
□
見るからに古い、六畳一間の安アパート。一応風呂トイレはセパレートだが、古い建物ゆえにユニットバスという概念が存在しなかっただけであって、むしろセパレートって何? という次元の話である。
トイレは和式だし、風呂だってシャワーなし。いちいちハンドルをカチカチ回して点火して、風呂釜に湯を沸かさなければお湯が使えないのだ。
もっとマシなところに住みたいと思ってみても、そんな資金はない。
自他ともに認めるダメ人間の青年ではあるが、自らにかかる費用は自ら捻出している。
好きでやっているのではなく、生きるために仕方なく、である。
だからその働きぶりは、意欲的とは程遠い。本人は働きたいと思ったことはない。ゆえに、生活費のギリギリをなんとか稼げる程度しか働いていないのである。
生活のランクを上げるために勤勉になるなんて選択肢は、青年にはない。
ニートが羨ましいくらいだ。青年にはそんな家族はもう――いない。
進路も決めずにとりあえず高校卒業はできた。
大学も行かずに、その後の身の振り方はどうするのかと問われれば「働くのだけはないわー。ニートがいい!」と返答。
激怒した両親に「もうお前を子とは思わん!」「お前ももう親はいないものと思え!」「さっさと出て行け!」等々、怒鳴り散らされ荷物を勝手に纏められ、実家を叩きだされたわけである。
その後、紆余曲折を経て今に至るのであった。
働きたくないのに働いてきた。勤労は苦痛だった。
だが、それも今日までだ。ノートを見つめる青年の表情は明るい。
帰宅して早々、座椅子にどっかりと座り込み、早まる鼓動を抑えながら、その表紙をめくった。
【はじめに】
あなたがこの本を手にとったということは、さぞ異世界への羨望がおありのことでしょう。
これから書かれていることをその通りに実践していけば、夢の異世界生活はあなたのものです。
難しいことはありません。
ほんの少しの行動力と勇気があればいいのです。
なお「この本の通りに行動したのにうまくいかなかった!」などという苦情は受け付けません。
それは、どこかであなたが本の通りではない行動をとったに違いないからです。
さあ、それでは次ページより詳細を明らかにしていきましょう。
青年は何かに導かれるように、ページをめくる。
【異世界に転生するための、その1】
まずは死にましょう。転生するのですから、死ななくては始まりません。
首を吊るなり手首を切るなり、てめーの勝手ですが、トラックにはねられるのが一番メジャーです。
本書では、トラック転生を指針とします。
運転手の今後は悲惨なものになると思いますが、知ったことではありません。
あなたの転生が第一なのです。
彼は家を飛び出した。
【異世界に転生するための、その2】
トラックは見つかりましたか?
実は、転生時の条件を良くする方法があります。
それは、自分の命と引き換えに誰かの命を救うこと、です。
子供なり老人なりじょしこーせーなり、猫や犬でも構いません。ってかもう割と何でもいい。
命を救うという行動が、神様に「すまんかった!」や「あっぱれじゃ!」と言わせるのです。
神様は、神様のくせにこんな喋り方をするらしいです。威厳の欠片もないよね。
向かったのは、交通量が多く、かつ、人目につきにくい場所。道路に飛び出すのを誰かに止められるわけにはいかない。
つまり、高速道路の入口。またはその付近。トラックのメッカと言っても過言ではないだろう。交通量は多いが、沿って歩く人は少ないはずだ。彼はそう思っている。
青年の住処から走って行けるくらいの場所に、それがある。
彼は運命めいたものを感じていた。
走り、走り、ようやくたどり着くと、彼の予想通り様々なトラックが行き交っていた。
しばし眺める。
色とりどりのトラックが走っている。しかし通行人はいない。だから誰も轢かれそうになっていない。
交通量は多いが、沿って歩く人は少ないはずだ。彼はそう思っている。
ダメじゃん。
人が轢かれそうになっているなどという、ドラマのようなシチュエーションに、都合よく思い立った時に立ち会えるはずもないのだ。
悔しさと焦燥が、彼の胸に飛来する。
くっそう。身を挺しての人命救助とか、燃える展開なのに!
俺の人生はまるでダメなものだが、しかし最期こそ輝きたい。輝いてから、次へ繋ぎたい。
トラックにひかれそうな子供を助けたい。老人をじょしこーせーを、助けたい!
そのためなら俺は――。
それを道路に突き飛ばす!
青年は踵を返し、駆け出した。
幸い彼の住居は都心から離れている。だからか公園なども結構ある。
近場から片っ端に、なんかいないか探し回った。
ターゲットは子供である。同伴者がいるものはNGだ。
一人寂しく公園で遊んでいて、なるべく頭の出来の悪そうな子がいい。
飴玉の一つでも手渡して「もっと美味しいお菓子をあげるからお兄ちゃんについておいで」とでも言えば諸手を上げて喜んで付いて来るような子が。
だが、真っ昼間だというのにどの公園も静まりかえっていて、人の気配はしない。
(くそ! ガキめ! 元気に公園で遊びなさいよ!)
歩き回っていると様々な人々とすれ違うが、大人ばかりだ。
うまいこと道路におびき出して突き飛ばせるはずもない。
それなりの重量がある相手だと、非力な彼の力では突き飛ばそうとしたところで、二、三歩よろけさせるのが精一杯である。
そもそもいきなりついて来いと言って付いて来るような気がしない。そんな話術もない。
だから御し易そうなガキを探しているのだ。しかしいない。
人通りの中にあって、子供が皆無というわけでもないのだが、決まって親がそばにいる。
青年は発想の転換を試みた。
(こうなりゃ犬か猫だな)
犬か猫、とひとくくりにして考えてはみたものの、野良猫を探すつもりであった。
野良犬というものは昨今において、希少性すら感じさせるものだからだ。
断然、猫の方が野良率が高い。野良犬が稀有であるのは、一昔前から続く狂犬病への対策が原因となっているのだが、今そんな話は関係ないからどうでもいい。
青年のファインダーは野良猫にピントを合わせ、あちらこちらをサーチする。するとほどなくして、珍しくもない白と黒のブチ模様のそれを発見した。
「うおおおおお!!」
雄叫びを上げつつ疾駆する。
一気に距離を詰める。が、
「ギニャー!」
一気に消えた。
まさに目にも留まらぬ速さで姿を消したのだ。
野生の動物を捕まえられるような運動性が、この人にあるわけ無いでしょ。
□
時期は夏。
暑いのに動き回っていたのだから、彼はもう汗だくになっていた。その汗に釣られてか、蚊が寄ってくる。
いつの間にやらそれが腕に着陸していたことに気づき、彼は反射的にたたきつぶした。と、その時閃いた。
(蚊でもいいんじゃね?)
何でもいいのなら蚊ではダメだということもないはず。
そう考えた彼は、また別の蚊を、今度は優しく手の内に包み込んで駆け出した。手の平めっちゃ吸われてると思うけど気にしない。
(ふふふ、もうすぐだ。待っていろ異世界!)
再び高速道路付近にたどりつくと、意を決して手の平を開く。蚊は真上に飛び立っていった。その時彼は思った。
(蚊じゃダメじゃね?)
蚊をトラックの軌道上に持っていく方法がない。あと手が痒い。そもそも蚊って車にひかれるの?
昆虫に視野を広げた彼は、他の虫ならどうだろうかと考えてみた。
羽のあるものは飛ぶからダメだ。なら、アリとかダンゴムシとかならどうだろう――トラックが来たタイミングで投げ込んだとしても、風圧で跳ね返ってきそう。じゃあ小さすぎるものは総じてNGだ。ということは、
(虫もダメか……)
虫VSトラックでは土俵が違いすぎる。でっかいイモムシなんかを道路に設置すればあるいは、とも考えたが、それの用意も容易ではない。イモムシとかなんかキモいし。
他の手段を講じてみることにした。
といっても、ペットショップでなんか買うくらいしか、もう思いつかない。
(そんなの、この辺にあったかな……というか)
ジャラ。
ポケットから全財産を取り出す。262円。無理だと悟る。
(どうしたものか……)
コーラを飲みながらあてもなく歩く。残金142円。もうだめだ。
ふと視線を泳がせると、熱帯魚を扱っている店の看板が見えた。
(あ、これでいいや)
□
「ありがとうございましたー」
三分の一くらいの水位がある細長いビニール袋は、酸素が注入されてパンパンに膨らみ、風船のようになっている。そこにちょこちょこと泳ぐ小さな魚。
グッピーである。一匹130円なり。
青年はいそいそと先ほどの場所に戻るとタイミングを見計らい、それを投げ込みながら自身も飛び出した。
ビニール袋を肩で弾き飛ばすと同時に耳をつんざくクラクション。一瞬遅れて激しい衝撃が彼を襲った。
【異世界に転生するための、その3】
死んだ? ねえ死んだの? こんなの信じて死んじゃったわけね。メデテー。
さて、無事死ねたあなたの前には神様がいることでしょう。
白髪の老人がたわわに髭を生やしているのがスタンダードですが、様々な種類があります。
希に人外もあるそうですが、ほとんどは人間の形をとっています。
老人だと【その2】にあったように、「~のじゃ」と喋ることが多いです。
若くて美しい女神様だと、だいたい金髪でウェービィな髪の毛で、軽い喋り方をするのが多いですし、最近だと普通の格好をした若い男や女、少年や少女の姿をとる時もあるようです。
少女の場合も「~のじゃ」と言います。ロリババアと覚えましょう。
ロリババアはあっても老婆は少数派です。他は大体の年齢層を網羅しているのに。老婆かわいそう。
「うん。ここまではオッケーだ。」
マニュアルをパタンと閉じて前を向く。
壁そのものが発光しているような、白に囲まれた広い空間。
そこには真っ白な髭がわんさか生えてる老人がいた。
(ち、量産型か)
「えっと……君ね、死んだんだけど」
青年の想像とはうらはらに、えらくフツーの喋りである。のじゃパターンには当てはまらない。
まあそこは全く問題ではないと思い、気にはしなかった。
「あっぱれじゃ?」
聞いてみた。
「アホか」
なんか怒られた。
「えっとね、全然あっぱらないよ、うん。どうして君の行動があっぱるわけ? 自分で考えてわかんない? おかしいよね?」
何を言っているのだ。ほとんどマニュアル通りのはずだ。どこがおかしいのだ。
青年は首を傾げた。
「えっでもグッピーを助け」
「てないよね」
遮られた。人の話は最後まで聞かないとダメなのにー! 神様のくせにー!
なんつー神様だ、なんて悪態をつく間もなく、
「あのさ、焼けたアスファルトに魚放り投げたらどうなる? 放っといたら死ぬよね? わかる? そんでさ、放っとかなくてもあのうっすいビニール破けたらピチピチッ! てなるじゃん。ピチピチッ! て。死ぬよね? そうしたの誰? 君でしょ?」
「あー……そこまで考えて」
「うん、考えようね。普通に考えたらわかるよね。でさ、運良く破けなくてもあっつい道路に放置されたらどうなる? 水温あっという間に上昇するでしょ? そしたらどうなる? 煮えるよね。プカーだよプカー」
「ええっと、結局どうなったんですか?」
「プカー」
「……」
神様はひょっとしてお怒りなのだろうか?
130円とはいえ生命は尊いものだ。ましてや神様ならその傾向は顕著なはず。
選択を誤ったか……。カエルとかにしとけばよかったのかも。
……いや、大丈夫なはず。マニュアルに沿っていることは確かなのだから。
「つまり俺が殺したのだと」
「他にいねーよ。そもそもグッピーぶん投げといて救っただ救わないだ、どの口が言うわけ?」
「じゃあ、俺は地獄送りとかそんなんですか極悪人ですか」
「グッピー一匹で地獄送りになるんだったら地獄は満員御礼で大変なことになるよね。肉だの魚だの、何も食べれなくなるじゃん。そもそも愛情込めて育てようと思ってもすぐ死ぬんだあいつらは。アクアリストならわかるでしょ?」
「アクアリストじゃないです」
「うん知ってる」
「何で聞いたし……」
どうにもつかめない。
とどのつまり神様は一体、何を話しにきたのだろう。
おかしいなあ。ノート《マニュアル》に書いてあったことは嘘なのだろうか。
「俺は結局どうなるんですか」
「生まれ変わるよ」
「えっ。いいんですか」
「いいも悪いもねーよ。みんな平等に輪廻転生を繰り返すものなの。君みたいなアホでも。そういう話をしにきたわけ」
「ヤッター!」
マニュアル通りだった!
【異世界に転生するための、その4】
とりあえず神様が出てきたら、転生させてやろうみたいなことを言ってくるはずです。
だいたい黙っていても剣と魔法のファンタジー世界に飛ばされるのですが、ここは重要ですので確認をとっておきましょう。
世界観は大切です。もしも原始的な世界だったらどうするのですか。ウッホウホウンババウンババ言いながらマンモスを追いかけて一生を終えたいですか。
こんな本を手に取るなんて中二病に決まっていますから、あなたは中世ヨウロッパ風、剣と魔法のファンタジー世界に行きたいのだと決めつけて話を進めます。
何が悲しくて石槍で獲物を追いかけまわさねばならないのだろうか。
狩りにはロマンがあるが、これじゃあない。なんか違う。まっぴらごめんである。
「ファンタジーな世界に転生したいんですけど」
「うっわー……でたよ。最近多いんだよねー、それ言うやつ。まあ構わないけど。どこでもいいんだし」
「マジか! よっしゃあー!」
思わず拳に力が入る。
神様が何やら痛々しいものを見るような目をしているけれども、気にしない。
【異世界に転生するための、その5】
そして、もう一つ重要なことがあります。
ただ単に転生しても意味がありません。
あなたがあなたとして転生できるのか……つまり、記憶を引き継げるのか。これが重要です。
これがないとどうしようもありません。前世の記憶がなかったらただの他人です。あなたの物語にはなりえない。
これは前提なのです。何が何でも獲得してください。
神様は慈悲の象徴です。頼み込めば多分うまくいく。
弱みに付け込みましょう。
「前世の記憶は残りますか」
「綺麗さっぱり消えるけど」
「嫌です」
「……は?」
「嫌です。残って」
「いや、でもさ」
「残って。残って。残って残ってー! 残ってー! 残って残ってー!!」
「うるせえわ! 相撲か!」
「残る?」
「あーもう仕方ねえな……うるせえし……。こっちも忙しいから、いいよもう」
「ヤッター!」
慈悲というか、なんだか投げやりな気がしたが、うまくいったといえばうまくいったのだから良しとしよう。
「ええっと、じゃあ次は……」
「……」
【異世界転生するための、その6】
次なるステップに進みましょう。
つまり、何に生まれ変わるか、ということ。
ファンタジーにはつきものの、勇者や騎士、魔術師や剣士や賢者、魔王や魔神、邪神。剣と魔法の世界らしく、それらを駆使して戦いに身を置くものです。これらは職業ですね。
それとは別に、身分というものがあります。生まれた時から勝ち組の、貴族や王族。成り上がりでカタルシスを望む平民や貧民、孤児。人外に育てられたパターンも燃える展開ですね。竜に育てられた子だなんて、誰もが胸躍ることでしょう。
書ききれないほど、本当に色々あります。それらを組み合わせれば、選択肢は何通りとなるのでしょう。
神様との交渉次第で、それらに自由が効くのです。まるで夢のよう。
あなたの夢は、何ですか?
青年にとっての、夢。憧れ。
異世界に転生して薔薇色人生を歩む、というのは夢にあったが、具体的に何になる、とまでは、考えていなかった。
それは自動的に与えられるものだと思っていたから。
そんなところまで選ぶ権利があるのならば、と考えて数秒、青年はすぐに決意を固めた。
「勇者になって世界を救いたいっす!!」
「何言ってんだこいつ」
ベタでも王道でも何番煎じでもいい。
勇者。そのワードに焦がれない男などいようものか。
心強い仲間と共に悪を討ち滅ぼし、死闘を演じ抜いた暁には英雄と讃えられ、なんかどっかの美女とかプリンセスとかとハッピーエンド。これ以上何を望むというのだ。
世界なんて本当はどうでもいいし、自分さえ良ければいいのだけれども、ただ、崇められたかった。
何か凄い事を成し遂げて人々に讃えられ、高みから周囲の人間を一般人め、と見下ろしたかった。それの最上級が欲しかったのだ。
しかし、神様の反応は芳しくなかった。
「えっダメなの?」
「逆に、どうしていいと思ったの?」
だって頼み込めばいいって書いてあるもん。そんな思いを膨れっ面で表しつつも、青年はそれでもマニュアルを信じた。
「お願いします! お願いします! お願いします! お願いします! お願いします! 勇者になりたいんです! 世界を救いたいんです! 勇者! 勇者! ゆ! う! し! やー!! せーかーいー!」
「うっせー!」
「……じゃあオッケー?」
「…………」
「お願いします! お願いします! お願いします! お願いします! お願いします! おねが」
「ああもうわかったわかりました!」
「ヤッター!」
【異世界に転生するための、その7】
続いて『贈り物』が何なのか、これも確認してください。『特典』『庇護』『加護』『ギフト』名称は様々ですが、要は次の人生を有利にするためのものです。
強力な武器や魔法、チートやスキルというものです。困らない程度に好きなだけもらっておきましょう。
例を挙げるならば、自分や他人の能力を数値化して表示できる『ステータス』や、無限に物を収納しておける『アイテムボックス』が有名です。
ステータスはどのパターンも大差ないですが、アイテムボックスは袋だったり鞄だったり、自分の影や何もないところからいきなり、など、多様化しているようです。
もう四次元的なポッケで統一すればいいんじゃねーかと思う今日この頃ですがいかがお過ごしか。
青年には確かに覚えがあった。ネット小説などを漁っている時に、ステータスとアイテムボックスのスキルは頻繁に目にしていたのだ。
あれば確かに便利だろう。しかし彼としては、それよりも自己の能力の特化の方が重要に思えた。ゆえに、この二つは後回しでいいと考えた。
「強いやつなんかください」
「具体的に言えよ……なにそのふわふわした感じ」
「あとは……んーどうしよっかな。あ、ハーレム欲しいです。そしたら絶倫とか必須ですよね。あと眠らなくても大丈夫、みたいなやつ。今夜は寝かさないぞー、なんつって、こっちが眠くなったらカッコ悪いですもんね。ハハハ」
「聞けよ」
【異世界に転生するための、その8】
欲しいものは、交渉して勝ち取ってください。
思いつくままに、限りなく欲望をさらけ出してください。
ここで妥協してはいけません。死活問題なのです。
クレーマーが如き理不尽さ、粘り強さをこの場だけでも無理矢理にでも発揮してください。
いいですか。生まれる前に全てがかかっているのです。
ここが正念場なのです!
人間、生まれ落ちた瞬間に勝ち組か負け組か決まっているのです!
神なんて死ねばいいのに!!
「ちょっと待ってくださいね。欲しいスキルを今、一生懸命に考えてますから」
「待つと思うの?」
「ハーレムには、後なにが必要ですかね?」
「そればっか考えてんのかよ。知るわけねえし。そもそもハーレムだ何だって、そんな卑猥めいた願いは聞き入れられないよ?」
「えっ」
「驚いてんじゃねえよこっちがびっくりだわ。……えっとね、実際問題、頼まれると極力願いを聞き入れるようにしなきゃなんないの、こっちは。神だからね。でもハーレムだ絶倫だって、そんな卑しさを前面に押し出したようなのは、ダメ。神がそんな下半身を重点に置いたような願いを聞くのって、おかしいでしょ」
「…………」
「そういうのは欲しけりゃ自力でなんとかするんだな。悪いこと以外なら、こっちは善処しなきゃなんねえんだから」
神様は頼みごとには弱い。やっぱりマニュアルに書いてあったことは正しかったのだ。と、彼は言質が取れたことに幾ばくかの満足を得た。
神様からの視点で、悪いこと以外ならば善処して頂けるのだ。じゃあ絶倫だなんてダイレクトに言わずに、底知れない体力、とかそんな言い回しをすれば良いのではないだろうか、などと考えを深めていると、
「……で、こんなことをバカ正直にも言ったのは、なぜだと思う?」
神様が手のひらを彼に向ける。目は光り、口はにやりと笑っている。
さっと血の気が引く気がした。彼は一瞬で察して、慌てて口を開こうと思ったが、相手は全知全能の神なのだ。敵うわけがなかった。
「相手してらんねーからさっさと転生してもらうことにした! さいなら!」
彼は一瞬にして意識をぐちゃぐちゃにされた。喋るなんてもってのほか。自分を保っていられなくなる。
自分を構築している大切なものが、分解されていくように感じた。
そうして青年の意識は、闇に吸い込まれていった。
□
とある世界。
お決まりみたいなファンタジー感が漂う世界に青年は生まれ落ちた。
願い通りに前世の記憶を継承したまま。
生まれてすぐそれがわかった彼は、歓喜した。
この願いが叶っているということは、他の願いも叶っているということなのだろう。
つまり、後年、勇者となり世界を救うことになるのだろう。
それだけで十分だった。
もっと色々欲しかったのは本当だけれども、欲を言えば限りがない。
青年あらため赤ん坊は、やがてくる冒険の日々に思いを馳せながら、時が過ぎるのを待っていた。
□
五つになった頃、彼は自分が幸運なのだと気づいた。
神様と交渉できた時点で幸運なのだが、それとは他に、だ。
周囲と比べて自分の環境は、裕福な方だと気がついたのだ。
親の仕事はどうやら金融関係のようだった。
商品を渡すでもなく、金貨だけを渡したり渡されたりしているのを見た。
徐々に覚えてきた言葉からも、そうであると窺えた。
要は金貸し業である。
それにより少なくない富を得ているようで、周囲に比べて自分の家は裕福だった。
そのうち魔王を倒しに行く時の資金にも困ることはないだろうな、と、彼は順風満帆な人生を思い描いていた。
□
十になる頃、大変なことに気づいてしまった。
自分が勇者になるのは確定だとしても、討伐すべき対象、つまり魔族や魔物の類といったものが、どうやらこの世界には存在しないようなのだ。
この世界の人類にとって恐ろしいのは地震や雷、火事などの災害であった。あと親父。
勇者といえば魔王を倒すものだろう、と思っていたが、このままではそうもいかない。
そのうち湧いてくるか、今は息を潜めているのだろう、と、楽観的に考えていた。
人類を脅かすような存在もなく裕福で、彼はそのうち自分で使命と感じていたものを、忘れていくようになる。
親の仕事を継ぐため、日夜修行の毎日が始まり、その忙しさの中にも楽しさを覚え、魔族とかどうでもいいやと考えるようになったからである。
□
それから十年。
彼は正式に親の仕事を継ぎ、なんとか業績を落とすことなくこなせていた。世間では彼のような金貸し業を総じて“融資屋”と呼ぶようだ。
彼の日常は、いきつけのカフェでコーヒーと朝食を摂ることから始まる。
コーヒー豆は最上級のブルマンジャロ。朝食は栄養価の高いスーパーフード。どちらも一般市民には手を出しにくいものであった。
大きめのボウルに盛られているブルーベリーに似た果実。
一般市民であれば一粒一粒じっくり味わうだろう。しかし彼は大胆にごっそりと掬って食べる。裕福であることの現れである。
ただ、それだけ、だった。
毎日贅沢な果実を食べて普通に仕事をこなして生きる。
それだけだった。
果実の名はセカイー。近年になって注目された、生産数の少ない果実。
融資屋になってセカイーを掬う。ただそれだけの人生だった。
それから四十年、人生を大いに謳歌した彼に最期が訪れる。
その、最後の最後にふと気づいて言葉を発した。
「…………騙された」