わがままアリスの家出
「アリス様、きちんと集中してください。王族たる者、治癒魔法もきちんとこなさないといけないのですから」
ここはとある城の一室。壁も床も家具も白で統一し部屋の中には、一人の妙齢の女性と十一歳の女の子がいました。女性は右腕を女の子に差し出しています。その腕には深い切り傷があり、女の子はその腕に自分の両手をかざしていました。
女の子の名はアリス・ウォルコット。この国のただ一人の王女にして、高位の魔法使いです。しかし天才とはいっても、本人の気質のせいなのか、治癒魔法だけはちっとも上手くなりません。現に今も、家庭教師のメアリーアンの腕に付いたただの切り傷すら治せません。
「何よ、いいじゃない、別に。誰もわたしを傷つけることなんてできないんだから」アリスはメアリーアンの腕から手を外し、腕を組んでそっぽを向きました。「わたしを害そうとする奴はその瞬間に丸焼きか蒸発よ!」
アリスは得意そうにそう言って、ふんと鼻を鳴らします。彼女は周囲の熱を魔力として定義し、魔法を行使する熱魔法を最も得意としています。その出力と行使速度は高位魔法使いの名に恥じないもので、彼女はあらゆる物質を瞬時に気化させるほどの熱を発生させることが出来ます。
「確かにそうかもしれません。でも、大切な人が傷ついた時に、その人を癒せる力があるのとないのとでは随分と違いますよ」
メアリーアンはアリスに諭すように言ってから、自分の腕を瞬時に治癒しました。腕をかざすまでもなく、アリスが瞬きした瞬間に傷は消えていました。彼女は高位魔法使いでこそありませんが、治癒魔法に関しては一流の腕を持っています。
「それこそあり得ない話よ。お母さまが誰かに傷つけられるなんてことはあり得ないもの」
アリスは得意げにそう言いました。確かに、アリスの母親であり、この世界の女王でもあるヘーゼル・ウォルコットを傷つけることは誰にも出来ません。それは、彼女がこの世界に七人しかいない最高位魔法使いの中でも、最も強い魔法使いだからです。
だから、アリスの言っていることに間違いはありません。しかし、メアリーアンはその言葉を聞いて、悲しそうに視線を落としました。アリスは暗に、メアリーアンは大切な人ではないと言ったからです。しかしわがままなアリスはそのことに気が付きません。
アリスはずっと城の中で育ってきたので、彼女の世界はとても小さなものです。城には使用人と呼べる者はほとんどおらず、例外は歴史と社会を教えるアシュトンと治癒魔法を教えるメアリーアンの二人の家庭教師だけです。その二人にしても住み込みではなく、週に四回くるだけなので、アリスが日常的に接するのは実質、母親のヘーゼルだけなのです。
「今日は終わりよ! おなかが空いたわ」
そう言ってアリスは勢いよく立ち上がりました。フリルのたくさんついたドレスが揺れます。こうなるともう彼女は絶対に授業を受けません。
メアリーアンがため息をつきました。
「分かりました。何かおやつを持ってきましょう」
そう言って彼女が立ち上がりかけます。
「いいえ、その必要はないわ。あなたはもう帰っていいわよ。食事は自分で用意するから」
アリスはそう言って勢いよく部屋を飛び出していきました。
部屋に一人、メアリーアンが残されます。彼女はとても悲しそうです。それは当然でした。なぜなら、アリスに必要ないと言われたからです。直接ではありませんが、彼女の言葉はその意味を含んでいました。これが悪意からくる発言だったなら、メアリーアンも仕事だと割り切れたでしょう。しかし、アリスに悪意はありません。ただ思ったことを口にしただけなのです。そのことが分かっているので、メアリーアンはなおさら悲しくなりました。
「はあ、いったいどうすればあの子は変わってくれるのかしら」
その言葉は、誰にも届くことはありませんでした。
ところ変わって、アリスは城の外にある森にやって来ていました。当然一人です。その森は日の通りがよく、昼のこの時間は心地よい風が吹きます。城の周囲には民家どころか建物一つありません。ただ森が広がるのみです。この『ヘーゼルの森』と呼ばれる森には、たくさんの魔法生物が生息します。魔法生物とは、魔法によって生み出された、あるいは魔法によって遺伝子を操作された生物のことです。『ヘーゼルの森』にいる生物は皆、人を害さないように調整されており、アリスが襲われることはありません。
「今日は何にしようかしら。ウォールピグもいいけれど、エレファントキャトルもいいわね」
森を歩きながら、周囲の食料、もとい魔法生物を物色します。魔法生物はアリスを見ても逃げることはありません。逃げるという機能は、初めから備わっていないのです。
「よし、決めたわ。今日のごちそうはお前よ」
アリスは近くにいたエレファントキャトルを指さしました。エレファントキャトルはとてつもなく大きな牛です。肩高だけでも、アリスの身長の五倍あります。『ヘーゼルの森』のエレファントキャトルの肉はたいそう美味で、たまに市井へ流れると高値で取引されます。
アリスはエレファントキャトルの正面に仁王立ちになりました。エレファントキャトルがいるのは開けた場所で、あまり木は多くありません。
「お前はわたしの食料になることが決定したわ! ありがたく思いなさい!」
アリスは嬉々としてエレファントキャトルに話しかけます。アリスにとってこれは、普通の子どもが行うごっこ遊びの一種なのです。彼女には友達がいないので、この様な特殊な遊びをする子どもに育ってしまいました。
「言っておくけど、泣いたってムダよ。これは決定事項なんだから」
当然ですが、エレファントキャトルは泣いていません。それどころか身じろぎ一つしていません。
「え、何? ……仕方ないわね。いいでしょう。遺言くらい聞いてあげてもいいわ」
傍から見ればただのおつむの可哀想な子です。しかし、本人は楽しいのでこれでいいのです。
「……長いわよ!」
自分で妄想しておきながら癇癪を起しました。アリスはどこまでもわがままです。
彼女の言葉の直後、エレファントキャトルの首をオレンジ色の光の筋が横切りました。そしてすぐにぼとりと、その首が地面に落ちます。血は流れません。断面が高熱で焼かれたため、切断と同時に止血されたからです。
それはアリスの魔法でした。彼女は大気中の『熱』=『気体分子の振動』を操り高温の電離気体を発生させ、それをブレード状に凝縮してエレファントキャトルの首を切断したのです。
「ふん、他愛もないわね!」
彼女の想像の中では、一応エレファントキャトルは敵役でした。しかし、そのごっこ遊びももう終わりです。
「うーん、頭は要らないわね」
そう言った直後、エレファントキャトルの大きな頭が青い炎に焼かれ始めました。それを尻目に、アリスは大きな体の方に近づきました。そして、その体に手を当てます。
次の瞬間、彼女とエレファントキャトルの体はその森から消えました。
そしてアリスとエレファントキャトルの体は、城の中庭に出現しました。彼女が使ったのは空間転移です。高位魔法使いにとって、空間転移は必須魔法です。アリスも当然の様に使いこなせます。
空間転移の方法は人によってまちまちですが、アリスの場合は最も一般的な方法です。まず、自分を取り巻く空間そのものを魔力と定義します。そして、自分がいまいる空間と行きたいと思う空間のイメージを重ねて、その境界を曖昧にします。ここまでくるとあとはもう簡単です。重ねたイメージを自分が行きたいと思う場所に固定すれば、転移は完了します。
「さてと、じゃあ早速調理開始ね」
中庭の中央のきれいな芝生の上で、アリスは張り切った声を出しました。
雲一つない空の下、彼女はいつものように魔法を使って十秒ほどで調理を終えました。
『最高位魔法使いになりたければ、全てを自分で行えるようにしなさい』
母であるヘーゼルにそう言われて育ってきたアリスは、大抵のことは自分で出来ます。
エレファントキャトルの解体を終えた彼女は、転移でその肉塊を城の中の倉庫に運び込みました。そして自分が食べる分だけをとって、もう一度中庭に転移します。中庭は彼女のお気に入りの場所です。アリスは芝生の上にペタンと座り込み、程よく焼けた肉を食べ始めました。皿やその他の食器などは使っていません。肉は魔法で宙に浮き、一口サイズに切り刻むのも魔法で行われています。
ふわふわと浮いたその肉を、アリスは一切れ口に入れました。よく噛んで飲み込み、微笑みます。
そのまま食事を続けて、アリスは昼食を終えました。そしてもう一度倉庫に転移して、エレファントキャトルの慣れの果てを眺めます。
「…………」
彼女は途方に暮れていました。アリスはお腹が空いたからエレファントキャトルを調理しました。しかし当然アリスの小さな体にはその全ては収まりません。つまるところ、彼女は残った肉をどうするかまったく考えていなかったのです。
「どうしようかしら」
困り顔で、腕を組みます。
城の中には一応、物質の変化を止める保存用倉庫があります。そこに入れればいつまでも保存は出来るのですが、肝心の倉庫を使うためには、ヘーゼルの許可が必要になるのです。そしてヘーゼルは余り、その許可を出しません。勝手に使うとものすごく怒られます。だからアリスにその倉庫を使うという選択肢はありませんでした。
「……捨てちゃえ」
そう言って、アリスは転移で肉塊を『ヘーゼルの森』の城から離れた場所に捨てに行きました。そして、何事も無かったかの様に城に戻ってきます。
時間は正午を過ぎた頃です。この時間になると、アリスは母の元へお昼寝をしに行きます。向かうのは母のいる部屋。アリスは転移でその部屋の前まで移動しました。
廊下も部屋の扉も白一色で統一されています。城の外装も白色で、城の主ヘーゼルの趣味が伺えます。
アリスがトントンとノックして、扉を開けます。
「お母さま!」
そう言ってアリスは母親に抱き着きました。その顔は嬉しそうに緩んでいます。
彼女の母、ヘーゼルはベッドの上に腰かけていました。着ているのはアリスと同じ城のドレスです。
ヘーゼルはとても美しい女性でした。見た目は十代後半。透き通るような白さを持つきめの細かな肌。物腰は柔らかく、おっとりとしています。
本を読んでいた彼女はアリスに抱き着かれ、仕方なさそうに微笑むと本を隣に置きました。そして、アリスの頭を撫でます。
「アリス、ちゃんと勉強はしてきたの?」
「もちろん!」
「そう。でも、メアリーアンからは、途中で逃げ出したって訊いたけど?」
「う……」アリスは母から離れて、彼女の隣にちょこんと腰かけました。「に、逃げてない。ただ少し、早い目に終わらせただけだもの」
アリスは足をぷらんぷらんと揺らしながら言い訳をしました。
「ちょっとした切り傷すら治癒出来なかったって聞いたけど?」
ヘーゼルは微笑んでいます。当然怒ってなどいません。しかしアリスにはそれが叱責に思えました。
「うう、ごめんなさい」
ぽんぽんと、ヘーゼルがアリスの頭を軽く叩きます。
「治癒魔法は苦手?」
「うん」
「それはね、あなたが人体をきちんと理解していないからよ。いつも言っているでしょう? 魔法は魔力と定義する事象を正確に理解することで、その精度と効果を増すの。きちんと人体の勉強はしてる?」
「……してない」
「ならしなきゃいけないわね」
「わたし、解剖学嫌い」
「どうして?」
「だって、気持ち悪いんだもの」
「エレファントキャトルの解体は簡単に出来るのに?」
そう言われて、アリスはハッとヘーゼルの顔を見上げました。
「み、見てたの?」
「ふふふ、この城もあの森も、全てわたしの手中よ。あなたが何をしているかなんて、すぐに分かるわ」
最高位魔法使いにとって、自分の住処に探知魔法を張り巡らせるなど至極簡単なことです。
「……あれは人間じゃないもの」
確かに、昔から見てきた動物の解体ならともかく、人間の解剖を見るのは十一歳の少女にはきついことです。
「最高位魔法使いになりたいんでしょう?」
ヘーゼルの言葉に、アリスは下を向きます。
「うん」
「なら頑張らなきゃ。お昼からはわたしと一緒に解剖学の勉強をしましょう」
「いや。熱力学がいい」
「それはもうマスターしているでしょ?」
そう言われますが、アリスはいやいやと首を横に振ります。
「自然科学がいい。解剖学はいや」
アリスは自然科学の理解に関しては天賦の才能を誇ります。その才能は魔法にも発揮され、幼いながらも彼女は高位魔法使いの地位にいますが、解剖学だけは苦手としているのです。
「解剖学と考えるからでしょ? 生物の理解だって、立派な自然科学よ」
「それでもいやなの」
アリスは泣きそうになっていました。それを見て、ヘーゼルが困った顔をします。
「もう、仕方ない子ね。でも、まだ十一歳だものね。焦る必要はないわ。いずれ、あなたにも分かる時が来るから」
そう言ってアリスの頭を撫でるヘーゼルの顔には憂いがありました。しかし、俯いているアリスにはそれが見えません。
ヘーゼルは最高位魔法使いです。最高位魔法使いの多くは、多くのものを犠牲にして自らの魔法を高めた者です。それはヘーゼルも例外ではなく、だからこそ彼女はこれから娘が歩むであろう茨の道を憂いていました。
「アリス、たくさんのことを学びなさい。いずれそれらが、あなたの力になるわ」
アリスはそう言われて、ただただ頷いていました。
その日の夜、夕飯をヘーゼルと食べたアリスは、自室で本を読んでいました。本のタイトルは『原子論の歴史』。内容はタイトルの通り、原子論が完成するまでの歴史が綴られています。
原子論は今から三百年前に完成しました。それまでは世界を構成する物は火、土、水の三種類だと考えられていたのですが、ある人物が魔法を使って物質を拡大し続けていった結果、この世の物質は細かなら粒で構成されていることが分かったのです。
この類の本をアリスは毎晩読んでいます。それが彼女の趣味だからです。
本を読みながら、彼女は自分に足りないものについて考えていました。
答えは分かっています。それは経験です。しかし、その経験をどうすれば効率よく得られるのかが分かりませんでした。
そしてアリスはついに、一つのことを思いつきました。それは運命の閃きでした。
「家出よ。それしかないわ」
城で過ごし続けて十一年。この城で出来ることは大方やってきました。ではこれから先、経験をより多く得るにはどうすればいいのか。思えば簡単でした。まだ見ぬ外の世界に求めれば良かったのです。
しかし、母がそれを許してくれるとは思えませんでした。だから、アリスは今夜、密かに家出を決行することにしました。
そうと決まれば、行動あるのみです。アリスの行動力は、ヘーゼルの過去を知る最高位魔法使いたちも驚くほどのものです。一度思い立った彼女を止めることは、ヘーゼル以外には出来ません。
アリスは探知魔法に引っかからないように空間転移は使いませんでした。そっと部屋を抜け出し、忍び足で廊下を歩きます。廊下には外から差し込む青白い月明り以外、光源がありませんでした。しかし、アリスの目は魔法で赤外線を捉えることが出来るため、何の問題もありません。
母に見つからない様に慎重に動き、アリスはとうとう城を抜け出しました。
アリスはうきうき顔です。
「さあ、出発よ」
アリスは暗い森の中に足を踏み入れました。
一方その頃、ヘーゼルの部屋では、ヘーゼルとメアリーアンが共に食事をとっていました。テーブルの上には皿の上に載った料理が並べられています。そして、テーブルから少し離れたところに、ある映像が浮かんでいました。その映像は暗い森をスキップしながら進むアリスを映し出しています。
「本当によろしいのですか? このまま行かせて」
メアリーアンが心配そうに言います。ヘーゼルはそれを聞いて、微笑みました。
「いいのよ。どのみち、いずれあの子もここから旅立つことになるのだから。今から自分の進む道を探しておくのは悪くないわ」
「しかし、危険では」
「大丈夫よ。並みの魔法使いではあの子を傷つけることすら出来ないし、あの子より高位の魔法使いは皆わたしの知り合いよ。もし手を出したら、自分がどうなるくらい理解しているわ」
彼女がそう言うと、白い発光体が彼女の指先から出現しました。それはテーブルの上におち、少しだけ大きくなって消滅します。すると、その白の発光体と重なっていたテーブルの部分が綺麗さっぱり消え去っていました。
夜は更けていきます。
愛娘の家出を、母は暖かな目で見送っていました。
これから始まる物語は、『虚無の女王』、『虐殺の女王』などの忌み名で呼ばれていくウォルコット家の女王の中で唯一、『優しき女王』と親しみをもって呼ばれることになる一人の少女の冒険の物語。
わがままだけど優しい彼女は、この冒険で、どんな経験をしていくのでしょうか。
アリスの冒険が始まります。暖かく見守っていただければ幸いです。




