雨夢の幻
戦も、死さえも存在しない神世で、現の秩序を乱す輩を討伐…いや、殺戮する事を許された唯一の部隊があった。
その先鋒が現に降り立つ時、血風の吹かぬ試しなしと言う。
現るるは朔の夜。見分ける術は、虚ろな紫暗の瞳と闇を映す漆黒の髪。
血潮は幻惑の香。主命に従い、修羅さながらに、同族さえも屠るという。
人と神の系譜を継ぎ、 “陰の醜草”の異名を持つその者の名は…――
◆◆◆
「孵るまで、もう少しかかりそうだな・・・。」
呟いて、紫苑はほぅっと息を吐いた。
己の居室の濡れ縁に出て、遠く霞む望月を見るともなしに眺める。
彼が師と、父と仰ぐ男の邸宅の一室。宵闇はしんと、耳に沁みる静けさだ。
もう一度だけ、深く息をして。手の中の「それ」を軽く転がして弄びながら、
ゆっくりと瞼を伏せる。
と――・・・
「紫苑っ、約束通り来たよ☆」
「約束約束っ、紫苑〜」
静けさを破って、オナリ神の姉妹が邸内に駆け込んで来た。
「・・・間に合ったな」
揃いのぽっくりでころころと駆けて来る双子の様子に紫苑は少し破顔し、それからふと思い至って上目遣いに軽く首を振った。
途端にオナリ神達は瞳を輝かせ、顔を見合わせて唇に人差し指をたてる。
そうして笑い合うと、残りの距離をふわふわと忍び足で紫苑の元に辿りついた。
目顔で尋ねてくる2つの顔に頷いて、紫苑はそっと閉じていた指を開く。
「ぅわぁ、綺麗だね、紫苑」
「綺麗で、不思議だね」
一心に見詰めるオナリ神の黒曜の瞳には、藍味がかった硝子珠の様な物がいくつも映り込んでいる。紫苑の掌に転がるそれは、花豆くらいのものもあれば、露玉程しかないものもある。澄んでいるの、曇っているの。形に至ってはひとつとして同じものは無い。
紫苑は、静かに語り始める。
「これは雨夢の珠という。・・・約束だった、前の朔にお前達を置いて行った代償だ」
「アマユメ・・・?」
「アマユメノ、タマ・・・」
目前の珠にすっかり魅入られてしまっているオナリ神達に紫苑は柔らかい微笑を浮かべ、わざとらしくため息を吐いた。
「これを拾い歩くのに、昨夜は雨の中を遠く現の際まで散歩した」
「だって、今度こそ現に連れてってくれるって言ったのに嘘つくんだもん紫苑。
凛すっごく楽しみにしてたのにさ」
「苺も苺も。ね、だから紫苑っ」
「そう急くな。別に、勿体ぶっているのではない。ただ時を待っているだけだ。
・・・あぁ、そろそろこの藤色の珠が孵る――」
紫苑の声に、藤色に光っていた珠が震えて爆ぜ、溢れ出た感情と感覚の波が靄の様な形を取ってオナリ神達を包んだ。
雨の向こうを覗くように瞳を揺らして、オナリ神達はゆらゆらとした浮遊感に身を任せる。
始めに感覚を刺激したのは、暖かい空気。
…そして、静かで強い瞳の力。
◆◆◆
――幻想
さらさらと
空気が耳をくすぐる
水溜りの波紋
傘の振動
刹那のリズムが身に迫る
流されて
薄紅の欠片が降り注ぐ
細雪は激しさを秘め囁く
◆◆◆
ふいに景色とオナリ神達との間に細雪が降り込んで、世界が隔てられた。
オナリ神達がほぅっと息を吐いたのを見て、紫苑は2人の顔を覗き込んだ。
「小さな珠しか拾って来られなかったからな。あまり長くは見ていられないだろう。
だがそれでもお前達には少し強かったか?」
「! ううん!」「ね、次は? 紫苑」
はっとして言い返すオナリ神達に紫苑は苦笑した。
その手の中で、紺碧の珠が弾けて世界を埋める。
さっきとは違って圧倒的な香りがオナリ神達を力強く幻の世界へと引き入れた。
◆◆◆
――想起
潮の薫り
雨が薫る
溶けあって
そう いっそ
解けあってしまったら…
潮の香り
雨が薫る
◆◆◆
ゆらゆら、ゆらゆらと紫苑は次々と孵る雨夢をオナリ神の求めるままに示し続けた。
――萌黄色、藍白、灰青に瑠璃紺…
そして最後に紫苑の手の中で孵ったのは、最も大きな梅紫の珠だった。
◆◆◆
――観想
ふわふわと
風が空気を揺らす
ほかほかと
暖かさが肩に触れた
伺うと
朧げな虹がひとすじ
霧雨と夕陽に育まれ
今度は瞳から染みて拡がる
ほんの少し
はにかんで
また 快い眠りに身を任せる
白い月がいろづく時間
◆◆◆
全ての雨夢の余韻が消えるのを待ってから、紫苑は手に残った珠の欠片をそっと握り込んだ。息を吹きかけて風に乗せてやると、欠片は自然に戸外へ飛び去ってゆく。
「…どうだ? 凛、苺。面白かったか?」
「うん…」
「うん…、面白かった!」
双子の満足そうな顔に、思わず眩しげに目を細めながら、紫苑はくしゃくしゃと2人の頭を撫でた。
「これで朔の夜の代償は払ったぞ。」
と、不意に凛が口を開いた。
「紫苑。雨夢の珠ってどうやって拾うの?」
「うん? …そうだな。
雨夢の珠は、現で溢れ出した人の心が、たまさか雨に溶けて凝ったもの。
雨の夜にこの神世と現の際へ行くと、まだ孵る前の雨夢の珠を拾うことはできるだろうな。・・・ただ」
ふと一心に聞き入っているオナリ神達の顔を見て、紫苑は突然くすくすと笑い出した。
「それを暖めて孵すには、強い力が必要だ。
孵った雨夢を見ただけでそんなにくたびれている様では、お前達にはまだ孵せまい」
双子はうっすらとくまを作っている眼の辺りを慌ててごしごしとこすった。
「また見ようと言っても、それは難しい事だろうな。
俺とてこんなに疲れる事をただでしてやるほど優しくは無いぞ?
夜も夜中に起き出して、現の際へ行き。
…珠を拾い集めては神力を分け与えて…」
と、紫苑はその紫暗の瞳を揺らして長く息を吐くと、脱力して眠る様に目を閉じた。
「え…」「紫苑…?」
そうして片目を開き、覗き込むオナリ神達の心配そうな顔を見遣り言う。
「だが、そうだな。方法が無くもない」
紫苑はまるで秘め事でも囁くかのように、続けた。
「簡単だ。次の朔に雨が降る事を望めばいい。
俺は朔には決まって務めを果たしに現へ降りる。
その留守に、お前達は俺を待ち伏せるついで、こっそり雨夢の珠を拾う。
…要は俺を追い込む事だ。――さぁ、どうする?」
少しして、紫苑の言葉の意味を理解したオナリ神達の頭に両天秤が浮び、その途端、
顔が真っ赤に上気する。
――珠を拾うならば、現については行けない。
だが、現へは、どうしても行ってみたい。
現で紫苑に拾われた姉妹だったが、幼さ故に、朧げにさえ世界を覚えてはいなかった。
「〜〜〜〜〜〜〜闘鬼神!」
呼ばれた刹那、瞳に過ったもの振り払い、紫苑は片目をつぶる。
「いかにも」
いつか姉妹も自分たちの力で立てる日が来る。
そのために神力を磨くにしても、この法はよい遊戯ともなるだろう。
――…いつか、彼女たちを在るべき世に還してやれるといい。
修法は辛く苦しいものでなければならない、などとは思わない。
いつか来る、別離の日のために。それまでに持たせてやれるものは、やれるだけ。
…それは、形こそ違えど、かつて師が己に与えてくれたもの。
戦も…、死さえも存在しない神世で、現の秩序を乱す輩を殺戮する事を許された唯一の部隊があった。その中にあって、傑出した神力を揮い、常に先鋒を担ったその男を見分ける術は、紫暗の瞳と漆黒の髪。師を凌ぐ者と目され、“鬼の醜草”という畏怖を名とする彼は、笑うことなどないのだ。…とは、もっぱらの噂である。
――その日、神世の片隅で、オナリ神達の怒声と紫苑の笑い声が波紋した。