竹内直樹①
<1日目>8:00
「はい、履歴書をお預かりしますね」
直樹よりやや年上のスーツを着た女性が
会場の受付で履歴書を受け取る。
あれからアルバイトに申し込むと参加日時を伝えられ、
7月29日の午前8時、竹内直樹はアルバイトを募集している
HNP社という企業が指定した場所に最低限の手荷物を持ってやって来た。
「それではこちらの契約関係の書類をよく読んで
サインしてください。あ、印鑑は持ってきてますよね?
それがないと参加できないので気を付けてくださいね」
書類の束を渡され、別室に案内される。
どうやら本当に面接すらないらしい。
参加する人間がどんな人物なのか確かめなくていいのだろうか。
それともこれから始まる仕事は人格を気にしないような作業なのだろうか。
以前に一度だけ日雇いの軽作業のアルバイトをやったことがあるが
あれも履歴書さえ書ければ誰でも雇うような仕事だったので今回の仕事も
同じようなものなのではないかと連想してしまう。
受付の女性に案内された場所は大会議場のようになっており、
そこには既に30人近くの人間が椅子に座って書類を読んでいた。
いや、そのうち何人かは既に読み終わって寝ていたり、
本を読んでいたりと思い思いのことをしているようだ。
男女比は男7女3ぐらいだろうか。
年齢は全体的に若く、10代後半から20代前半までの人間が
そこには集まっており、若干だがやや年を食ってそうな男もいた。
直樹は空いている席に座ると渡された書類を机の上に置いて
鞄からボールペンと印鑑を出す。
書類は仕事内容の同意書や守秘義務の契約書があったが
この手の書類としてご多分に漏れず、字が小さく読みにくいものだった。
直樹はインターネットなどでの規約は真っ先に読み飛ばして同意するタイプの
人間であったため、最初の3行だけ読んで書類にサインをする。
「おいおい、ちゃんと読まなくていいのか?」
右隣に座っていた男性がこちらを見ていた。
どうやらこの男はもう書類を書き終えているらしい。
「こういうのは面倒でも読んで同意しておかないと
あとで厄介なことになっても知らねぇぞ」
恐らく同年代であろう男は軽薄な笑みを受けべながらも注意を促す。
「ほれ、こことか見てみろよ。『業務中に何らかのアクシデントが起きても
乙は甲に対して責任を持たないものとする』だってよ。
これじゃ何か起きる可能性があるって言っているようなもんだ」
書類を持ち上げてこちらに見せるが、そう言っている割には
この男も同意書にサインをしている。
名前は『佐藤剛』というらしい。
「何か起きたらそのときはそのときだ。別に死ぬわけじゃないだろ」
直樹は男のほうを一瞥すると書類のほうに向きなおり、
朱肉をつけた印鑑を押す。
「そりゃそうだ。たかがアルバイトで死ぬなんて聞いたことがねぇ」
直樹の軽口に笑みを浮かべるとこちらに興味をなくしたのか、
それっきり剛は視線を外してぼんやりと前を向く。
その後は直樹以外に数人の参加者が入ると、
それで最後なのか大会議室の扉が閉まった。
さらに20分もすると受付にいた女性が大会議室に入り、
参加者の書類を回収する。しかし慣れていないのか
書類の回収やサインの確認に若干手間取っているようだ。
受付にいたから事務の仕事をしていると思ったのだが違うのだろうか。
「それじゃ皆さん、一旦外に出てください。
それと申し訳ありませんが持ってきた荷物は
全てこちらで預からせていただきます」
「ケータイもですかー?」
誰かが間延びした声を出す。
「はい、ケータイもです。……そうですね、時計やお財布といった
小物は有りですが外部と通信できるものは預からせてください」
「なにそれ、俺たち監禁されちゃうの?」
「ご安心ください。検証が終わったらちゃんと帰れますよ」
受付の女性は冷やかし気味の冗談に対して余裕をもって返す。
ん? 検証が終わったらということは
それまでは帰れないということか?
「何、変な顔してんだよ。ちゃんと書いてあっただろ。
この仕事は次世代ゲームの検証で3日間の泊まり込みだって」
佐藤剛が表情の変化で察したらしく助言をしてくれた。
案外いいやつなのかもしれない。
確かに言われてみれば広告には泊まり込みでの業務となります、
といった一文があったことを思い出す。
着替えも全てここの会社が持ってくれるということで
余計な荷物を持っていく手間が省けたということもあり、すっかり忘れていた。
「それでは外にバスが止まっているので皆さん乗ってください」
その声を合図に直樹を含めて全員が荷物を預けて外に向かうと
そこには来た時にはなかった大型バスが2台止まっていた。
「まるで護送車だな」
いつの間にか隣にいた剛が呟くが確かにその通りで、
バスは護送車のように窓は塞がれ、中が見えないようになっていた。
これでは中に入っても外の景色を見ることはできないだろう。
「どこに連れていかれるんだ……?」
窓を塞ぐというのはつまり見られたくない場所に連れていかれるということだ。
機密に関する守秘義務の契約にサインはしたが、それにしたってこれは
やりすぎではないだろうか。
「どこか僻地に連れていかれて人体実験でもさせられそうな雰囲気だよな。
時給の高さといいこの仕事は怪しすぎるぜ」
誰にともなく直樹は呟いたが耳聡いのか、
剛がこちらの声に呼応して笑いながら冗談を返す。
時給3000円の仕事。
それはここまでしなければならないことなのか。
全員がバスに乗り込み、扉が閉まるとエンジン音が社内に響き、
バスが発車する。
まるで荷馬車に乗せられた子牛の気分だった。