菜食主義者(ベジタリアン)に物申す!
あらかじめ断っておくが、私は菜食主義が嫌いというわけではない。
健康にいい一面もあるし、別にその人が菜食主義だったとしても
私には何の影響も及ぼさないからだ。
あちらさんから積極的にこちらに関わってこない限り。
菜食主義者にも2パターンある。1つは普通の菜食主義者。
要は私が次にいう二つ目のパターンに分類されない人たちだ。
こういう人たちについては私は何ら否定的な感情を抱かない。
次に、私のように肉も食べる人を「野蛮」と言い、
「菜食主義者」より劣っている、もしくはそのような言葉で否定的、
もしくは侮蔑的に捉える、菜食主義者だ。
こういう人たちにおいては、はっきり言う。私は大嫌いだ。
彼らは言う。私達のことを
「命を奪ってその肉を食べている、野蛮人だ」とね。
私が思うに、彼らがこう考える理由は
「植物には命がない、もしくはあってもそれほど価値がない」
と思っているからではないのかと。
私は、「彼らは植物を見たことがない、もしくは
育てたことがないのだろうか」と思う。
確かに植物は動物と違い、その場で跳ね回ったりはしない。
一部の例外(オジギソウ・ハエトリグサ・ホウセンカとか)
を除いては、ね。
だから目の前の「植物の命」を意識できない、
という主張も分からない事もない。
だが、農家に生まれ、身近で「植物の生命」を感じてきた
私に言わせてもらうならば、
植物の命はある、それも明確に。
例えば、何でもいい、何かつる性の植物(朝顔とか)を考えてごらん?
どのようにして彼らは、
巻き付くよりどころとなる棒みたいなものを見つけるのか。
知ってる人は知ってるよね。
彼らはそのつるをぐるぐる回して何かぶつかるものを探すんだ。
でも単にぶつかったものに巻きつくわけではないんだ。
それがちゃんと巻きつける形であるか、安定しているか、
その他色々な事を勘定に入れて、巻きつくんだよ。凄いだろう?
もっと根本的なところで言えば、
種子の発芽だってとてもすごい事なんだ。
だって彼らは周囲の湿度・温度・日光の当たり具合とかを考えて、
自分にとって最適だと思うときに、芽を出すんだ。
頭いいと思わない? 私はそう思う。
温度を測り、湿度を測り、日光の照射具合を測り、
巻き付く対象物の形状を測り、
その他数えきれないほどの物事を計算して、判断する。
こんなすごい「生命体」に「命を感じない」なんて、
ちょっとおかしいと私は思う。そのくせ奴らは
血とか肉とかを見て「野蛮だ!」「汚らわしい」とかのたまう。
そんなこと言ったら、果汁とかは植物の「血」だし、
果肉とかは文字通り、植物の「肉」だ。
現に江戸時代、スイカの果肉は赤色ではないものが好まれていたんだ。
赤い果汁は「血」を連想させるから、という理由でね。
この点においては江戸時代の人のほうが、
よっぽど「正直」だと私は思う。
ここまでの話において、
「植物の命」という点においては理解してもらえただろうか?
それが理解できれば、
私が二パターン目の「菜食主義者」に対して抱く不快感にも
ある程度理解を示してもらえるのではないか、と思う。
要するに彼らは「菜食主義者」とか言いながら、
その根本にある「植物の命」を馬鹿にしているんだ。
「植物ごときの命など知ったことか」ってね。
ここに私は嫌悪感を抱くのだ。自らの生命が、
動植物達の生命によって支えられている、
その事を深く自覚しているがゆえに、ね。
この文をきっかけに、
身の回りにあふれている「生命」について、
考えを深めてくれると、私はとても嬉しい。
読んでくれてありがとう。