帰還
維月は、最近眠くなることが多かった。
頭がぼうっとして、普段から考えがまとまりづらい。前々から、眠くなることが多かったが、最近は特にそうで、判断がつかないことも多く、維心から離れているのも不安で仕方がない。維心は一生懸命傍に居ようとしてくれているが、忙しい身なのだ。無理も言えないと見送っている。しかし、維心と離れていると、何かいろいろなことを忘れてしまいそうで、不安で仕方がなかった。
いったい自分の状態がなんなのかわからないが、維心と抱き合っていると、その気が流れ込んで来て、体の調子も頭の霧も無くなって行く気がする…そうするととても安心するのだ。
なので、とりあえず自分が良くなるまでは、こうしてくっつかせてもらっておこうと維月は思っていた。
「…維月?」
維心の声がする。でも、眠くて目を開けることが億劫だった。維月は目を閉じたまま答えた。
「維心様…。」
維心はふと、気付いていた。維月は最近、眠っていることが多い。前は自分が黙っていても一人で快活に話していたのに、最近はただ微睡んでいるような感じで、気が付くと自分にもたれて眠っている…。それでも、自分が傍に居る時はいい方で、置いて出ると、帰った時に眠っていてなかなか起きない時もあった。
…前から、よく眠いと言っていたが、最近は殊にひどすぎる…。
「維月…体調はどうだ?大事ないか?」
維月は眠たげに言った。
「少し眠くて…ぼうっとするだけでございます。疲れておるのかも…。維心様の気が流れて来るので、今ははっきりしておる方でございますが。」
維心は維月の顎を持って顔を上げさせた。額に手を当てて気を探る…気は、少しも失われていなかった。
維心はホッとして維月の頬を愛おしそうに撫でた。
「…気は失っておらぬな。主の言うように疲れておるのか…分からぬが、我の気を分けて回復の手助けをしてやろうぞ。」
維心は青白い光を維月に向かって流し込んだ。維月はサアッと頭の中が流されるように鮮明になって来るのを感じた。
「維心様の気を頂くと、とてもはっきり致しますの。眠気もなくなりまする。」
維心は眉をひそめた。
「何であろうの…やはりどこか消耗しておるのだろうな。我の気は浄化もするゆえ。しかし、気もしっかりしておるし、どこも悪い所はなさそうなのだが…」と考え込むような顔をした。「やはり、里帰りは延期せよ、維月。そのような状態の主を帰すのは心配でならぬ。我の傍に居れば、気を補充するゆえな。」
維月は頷いた。
「はい、維心様。」
そのまま抱きしめていると、やはり維月は微睡み出して、眠ってしまった。その寝顔に、維心は言い知れぬ不安が湧きあがって来るのを感じた…何か、自分の知らない事態が、静かに進行しているのではないか…。
しかし維月は、維心の腕に抱かれて、幸せそうに寝息を立てていた。
十六夜は、焦っていた。
最近の維月は、声で答えると言うより、念で答えて来る事の方が多く、そしてそれは、とてもまともな返事ではなかった。いつも眠そうで、そして眠っている最中であるかのようで、十六夜にはそれが何を意味するのかわからなかったのだ。
そしてそんな時に、二月に里帰りするのは止めた方がいいと言って来たのは、維心だった。
最近は維月は疲れているようで眠ってばかり居るのだという。維心が気を補充すると、いくらかマシになるものの、それもつかの間ですぐに眠ってしまう。ただ怠いようで、口数も少ないのだ言う。それで、十六夜は龍の宮を訪ねた。
その時維月は、維心の腕に抱かれて眠っていた。その顔は安らかで、体調が悪いようには見えない。気もしっかりとしていて、命を失う様には見えない。だがしかし、起きていることが出来ないようだった。
「いったいいつからこんな風だったんだ?オレが月の宮でコイツに会った時は、元気だったぞ。」
十六夜は維月の額に手を当てて言う。維心は答えた。
「その月の宮へ行った辺りから少しおかしかったのだ。帰ってからも我から離れぬし、我はてっきり蒼と瑤姫のことを気に病んでおるのだと思うておったのだが、そうではないらしい。我から離れると、頭がはっきりせぬようだ…我は無意識下でも気を維月に向けておるゆえ、気が流れ込んで楽であったらしいの。ゆえに意識的に気を流し込むようにして、いくらか話も出来るようになっておったのだが、今はいくら気を流しても起きておることがほとんどない。いったい何が起こっておるのか…。」
十六夜は維月に呼びかけた。
「維月。オレだ。聞こえるか?」
維月は、う…んと唸った。瞼が動く。が、目が開かない。
「どうも聞こえてはおるが、起きられないようなのだ。」維心が言った。「どこが悪いのだろう…これほどに気は充実しておるのに…。」
十六夜は眉を寄せて考え込んだ。
「維月はオレと同じ命だって言っても、オレ自身が自分をわかってねぇからよ。どういうことか判断つかねぇんだよ。分かるのは、碧黎ぐらいのもん…」
維心と十六夜は顔を見合わせた。
「そうか碧黎!やつならわかる。あいつを呼んで、維月を見てもらおう。」
十六夜がそう言うと、いきなりパッと目の前に青い髪の人型が現れた。
「呼んだか?十六夜よ。」
明らかに寛いでいたような着物姿だ。十六夜も維心もびっくりして思わず退いた。
「まだ呼んでねぇ!きちんと呼んでから来てくれ、碧黎!びっくりするじゃねぇか!」
碧黎は眉を寄せた。
「どうせ呼ぶのだから良いではないか。で、我が子は我に何の用であるのよ。」
十六夜は、困ったように碧黎に言った。
「維月だ。」と維心の腕で眠っている維月を指した。「最近は起きてる時のほうが少ない。起きててもぼうっとしてる。なんでこんなことになってるんだ?放って置いても大丈夫なのか?」
碧黎は維月を見た。
「我が娘は、命に別状はない。」十六夜と維心がホッとした顔をしたのを見て、続けた。「人の体が、滅びようとしておるだけよ。」
二人は同時に碧黎を見た。碧黎は肩を竦めた。
「これは我のせいではないぞ?何もしておらぬ。もう少し持つかと思うたが、やはり子を生んだり何度も死した細胞を留めたりと無理をしたの。心配せずともこの体が滅んだところで維月は死なぬ。月へ戻るだけよ。その後は十六夜のように、エネルギー体で地上へ来れば良かろう。このように若いまま98年保ったのだぞ?子は何度生んだことか…大した体よ。」とツカツカと維月に歩み寄って、顔を覗きこんだ。「…もって三日。早ければ今夜。維月は月へ戻るだろう。十六夜、主は戻る時に教えてやるが良い。さすれば混乱せずに済む。」
十六夜は維月の手を握って、頷いた。維月が月へ来る…。
「この体は、どうなるんだ?」
碧黎は言った。
「そうよの、細胞に無理がかかっておるゆえに、霧散するであろうな。形は残らぬ。維月は光になって月へ戻り、地上へは十六夜と同じような形を取れるようになったのちに戻る…が」と碧黎は二人を代わる代わる見て言った。「維月は月へ戻ったことが一度もないゆえの。記憶がどの程度存続するのか疑問よ。それは覚悟せよ。」
維心が口をキッと結んで維月の肩を抱く手に力を入れた。小刻みに震えている。この体が無くなる。そして、記憶もどこまで残るかわからないのか。ならば我のことなど、忘れてしまうかもしれぬー。
十六夜が碧黎に詰め寄った。
「なんとか出来ねぇのか。体も心も残したまま、生かすことは?」
碧黎はため息をついた。
「ただの命でないゆえの。体は人であるのだ…生物よ。それが、無理な力で若い細胞のまま維持され、ここまで永らえた。まして子を何人も生んだ。もう細胞は限界よ。命を失わぬのだから、それだけでもよしとせねばの。万に一つ記憶を全て持ったままということもあるかもしれぬぞ?とにかく、体はもう諦めよ。これ以上の維持は我にも無理よ。」
十六夜は維心と顔を見合わせた。
「…わかった。すまなかったな、いきなり呼んでよ。」
碧黎は十六夜の言葉に微笑した。
「まだ呼んでなかったのではなかったか?」と軽く手を上げた。「我が子の頼みだ。なんでもない事よ。ではな。」
碧黎は、現れた時と同じように瞬間的に消えた。維心は、維月をしっかりと抱きしめた。
「…忘れるなど、死すると同じよ。維月は我を忘れてしまうだろう。共に逝くと約束したことすら…」と唇を噛んだ。「我のせいだ。何人も子を生ませたりしたから、人の体に無理が掛かってしもうた。自業自得よ。」
維心は下を向いて顔を上げない。十六夜は、維心の肩に手を置いて言った。
「維月の体は、あと数日だ。オレはその体から出た維月を月へ連れて行ってやる。それからはしばらく、お前に会いに来るのも難しいかもしれねぇ…維月の記憶がどこまで残ってるかで、そのスピードは決まる。なるべく早く実体化できるようにするからよ。」
維心は顔を上げずに頷いた。眠る維月はまだ幸せそうに維心に抱かれている。寝息を立てるこの体は、もう今夜にでも霧散してしまうかもしれない。
維心がじっと下を向いたまま黙っているので、十六夜は月を見上げた。自分は、いつもあそこで一人きりだった。だが、維月が帰って来る。これからは維月が背向かいに居る…きっと地上へ戻るだろうが、里帰りだって月へ戻れば簡単に出来る。オレの片割れの命に戻るんだ。だが、維月はオレを覚えているだろうか…。
どちらにしても、あと数日なのだ。十六夜は光になって月へと戻って行った。
その日の深夜、維心は自分の左に維月の気配がないことに気が付き、慌てて回りを見回した。まさか自分の気が付かない間に霧散してしまったのでは…!
しかし、維月は窓際に居て、月を見上げていた。維心はホッとすると同時に胸が痛くなった…ずっと思っていた、人の世にある、月に帰る女の話しのこと。まるでそれが現実に起こるような、そんな恐怖が維心を襲った。維心は慌てて維月を抱き寄せた。
「維月…!」
維月は維心を振り返った。
「維心様、お起こししてしまいましたか?」
維心は驚いた。維月が、常のようにしっかりとしている。もしかして、碧黎の言っていたことは間違いだったのではないのか?
「維月…気分はどうか?」
維月は微笑んだ。
「それが、嘘のようにすっきりとしておりまして。」と維心にもたれ掛かった。「霞がかかっているようだった頭の中が、すっきりとしてございます。」
維心は頷いた。
「しかし、無理はならぬ。さあ、寝台へ戻ろうぞ。」
維月は素直に従った。維心は寝台に維月を寝かせると、微笑した。
「ほんに良かった…主がこのようにはっきりと致して。」
維月は微笑んだが、下を向いた。
「維心様…聞いておりました、碧黎様のお話しを。」
維心はハッとした。そうか、眠っていても、耳は聞こえておるのだな。
「維月、だが、こうして意識がはっきりしておるではないか。きっと、大丈夫よ。」
維月は維心の頬に触れた。
「あれは真実です。自分の中で何かが崩壊して行くのが感じられます…きっと、私は月へ帰って行く。それがわかるのです。」
維心の目に、涙が浮かんだ。
「維月…。」
維月は維心を抱き締めた。震える肩を抱くと、優しく言った。
「維心様…きっと、私は忘れませんわ。一時的に忘れてしまうことがあっても、きっと思い出します。維心様のこと…共に逝く約束をしておるのですから。私達はずっと離れませぬ。きっとここへ戻って参ります。待っていてくださいませ。」
維心は、嗚咽を漏らしながら、何度も何度も頷いた。
「待っている。必ずここへ戻って参れ。愛しておるのだ…我を一人にせぬと約してくれ。我はどんな姿でも、主であれば良い…。維月…愛している…。」
維月は維心に口付けた。
「私も愛しておりまする。悲しまないでくださいませ。死するのではありませぬ。月に戻って、里帰りだと思ってくださいませ。いつものことです、すぐに戻りまする。」
維月の体が足元から光輝き出した。これは、見たことがある…十六夜が、月に戻る時にこうして足から光りに戻って行く。維心は必死に維月を抱き締めた。
「維月!維月!」
「維心様…」維月は維心に口付けた。「しばしのお別れでございまする。行って参りまする。すぐに戻ります。」
維心は涙を流しながら頷いた。
「気を付けて行くのだぞ。早く帰れ…」
腕の中の維月が見る間に霧のようになって消えて行く。人の体は一瞬にして消え去り、維月は光の玉になった。
「こっちだ。」十六夜が、窓辺で手を差し伸べている。「維月、オレと月へ帰ろう。」
十六夜の方へ、維月の光の玉は流れて行った。十六夜はその玉を愛おしそうに抱えると、維心に言った。
「オレが連れて行くから、心配ねぇよ。また連れて来てやる…待ってろ。」
維心は頷いた。そして、十六夜も光になり、二つの光は月へ向かって打ち上がって行った。
残された維心が寝台を見ると、そこには維月の来ていた着物が抜け殻のように残っており、そして、結婚指輪が着物の上に落ちていた。
維心はそれを拾い上げると、自分の左手の小指に挿した。きっと、我はこれをまた維月の指にはめる。約したのだ。維月は我を忘れても、思い出すと言った。我は待っている…戻って来るのを。




