別れて
維心は、まだ維月をその腕に抱いて、書物を読んで座っていた。
あれから維月は不安だと小さく震えながら自分から離れないので、不憫でそのまま膝に横向きに抱いて座っていたら、安心したのかそのまますやすやと寝息を立て始めた。ホッとした維心は起こさないようにその状態で、宮からの報告書を読んでいたのだ。
ふと、維心は気配に目を上げた。誰かが入って来る。
思った通り、侍女が頭を下げた。
「龍王様、我が王と王妃、こちらへ参られましてございます。」
維心は少し驚いた。蒼と瑤姫がそろってここへ来たのか。
「…通せ。」
そう答えたものの、自分の膝で眠る維月をどうしようかと思ったが、少し横へずらして自分の横へ座った形に変え、肩を抱いて倒れないように支え直した。眠っている維月は、それでも維心から離されないように、ぴったりと身を寄せ直して来る。維心はそれを愛おしそうに見つめ、入って来る二つの気配の方へ向き直った。
蒼が頭を下げた。
「維心様。」
維心は軽く返礼した。
「蒼。」蒼は維月に視線を移した。それを見た維心が言った。「我が妃は心を痛めておっての。我から離れぬのだ。やっと落ち着いて眠ったところゆえ、起こすに忍びないのよ。このままで話そうぞ。」
それを聞いた瑤姫が蒼の背後で息を飲んだ。一見何でもないように感じたお母様も、私たちのことでお心を痛めていらしたのか…。
蒼が頷いて、伏し目がちに口を開いた。
「維心様には大変に申し訳ないと恐縮致してございますが…」
維心は苦笑した。
「知っておる。維月より聞いた。我に遠慮は要らぬ。主らのことは主らの良いように決めよ。」
蒼は目を上げた。
「このようなことになってしまいましたこと、お詫び申し上げます。全て私の不徳が致します所…。つきましては、瑤姫を維心様の結界内へ、どうぞ帰してやって頂きたくお願いを申し上げます。」
維心はすでにそのことを考えていたらしい。さして驚く様子もなく、言った。
「確かに龍の宮は瑤姫の里であるが、宮で受け入れるつもりは毛頭ない。それに、我の結界の内を許すつもりもない。」
蒼は眉を寄せた。好きにせよと言っておいて、瑤姫を里へ受け入れないって…だったら、オレはどうしたらいいのだ?瑤姫を手に掛けることなど絶対に出来ない。そうせよと維心様は言うのだろうか。
背後で瑤姫が黙って下を向いている。同じことを考えているのだろう。蒼は言った。
「維心様、結界の端でもよろしいのです。どうか、置いていただけませんでしょうか。」
維心は無表情に答えた。
「通常、龍姫が嫁いで帰って来るなどまずなかったのでな。そんな前例を作りとうないのよ。だが、瑤姫の行く場所は考えておる。」
蒼は幾分ほっとして聞いた。
「それは、どちらでございまするか?」
維心は言った。
「西か南よ。」維心は蒼をじっと見て言った。「先の戦で我が領地になった西の砦、もしくは南の砦。あそこは砦とは申しても宮のように建てられておるゆえ、女でも住める。西には我の子明維と晃維がおって守っておる。南は炎嘉。どちらでも選ぶがよい。」
蒼は瑤姫を振り返った。瑤姫は表情を硬くして言った。
「お兄様…それは、どちらかに嫁ぎ直すということでしょうか。」
維心はため息をついた。
「…主の年ではもう、嫁ぎ直すのなど無理よ。ゆえにこうして落ち着く場所を提供しようと申しているのではないか。」と少し考えて、「…おお、炎嘉のことか。心配は要らぬ。もしも主が南を選んでも、炎嘉は主を求めはせぬ。あれが望むものは、別にある。前世とはすっかり変わってしもうて、南は女っ気も全くないわ。」
そうか、瑤姫は炎嘉の前世で生きていた頃をよく知っているのだ。なので警戒したのであろう。確かに、炎嘉なら来るもの拒まずと言った雰囲気で、知っておる瑤姫は警戒もするだろう。瑤姫は、言った。
「・・では、西で。男のかたばかりの宮では、落ち着きませぬゆえ…。」
維心は頷いた。
「明維と晃維には申しておこうぞ。」維心はそう言って、腕の維月を見た。いつの間にか起きている。「おお維月、瑤姫は西の領地へ参ることになったぞ。」
維月は維心に寄り添ったまま、頷いた。
「はい。あそこならば落ち着いて過ごせますでしょう。たしか小さな対がいくつもあったはずですわ。あの子達がまだ若いので、私がたくさん侍女を連れて行かせましたから…女性も多いですし。」
維心は頷いて、瑤姫を見た。
「では、さよう取り決めてあちらから迎えを寄越させよう。数日後には出れるよう準備をいたせ。」
瑤姫は頭を下げた。
「はい、お兄様。ありがとうございまする。」
蒼はホッとして、相好を崩した。確かに寂しいが、これで宮が収まる…これからは気を引き締めてかからなければならない。
ふと、瑤姫が頭を下げて下がろうとした。維心が、自分の膝をパシッを打った。瑤姫がびくっとして維心を見る。
「…主はまだわからぬようであるの。我は下がる許可を与えた覚えはない。」
維心は険しい顔で瑤姫を見ている。瑤姫は慌てて頭を下げると、言った。
「…部屋へ戻る許可を。」
維心は瑤姫を睨み付けた。
「…愚かなことよ。やはり主には宮へ戻るなど無理であったわ。礼儀作法を覚えよ。」と、ふいと横を向いた。「下がって良い。」
瑤姫は下がって行く。その顔は真っ赤になっていた。それを見ながら、蒼は思った。思えば自分が結婚してからというもの、そんなものを求めたことはなかった。なので、瑤姫は神の世の作法をすっかり忘れてしまっているのだ…覚えてはいても、つい忘れてしまうのだろう。ならば、礼儀に厳しい龍の宮には帰ることが出来ない。維心様も、それで宮へ帰さないと言ったのだ…。
維心は蒼を見た。
「蒼、いくらここが人の世との懸け橋とはいえ、これでは先が思いやられるの。もう少し、外へ出しても恥ずかしくないような作法を皆に教えよ。でなければ、神の世では認められぬぞ。」とまたため息をついた。「いつもながら、我はここへ来たら口うるさい年寄りになった気分よ。己が嫌になる。維月よ、早々に帰ろうぞ。長居してしもうたわ。」
維月は気遣わしげに寄り添ったまま維心を見上げた。
「維心様…。」
維心はその心配げな維月の目に、フッと笑った。
「主は何も心配せずとも良いぞ。なぜに先程から、主はそんな目で我を見るのよ…我は主に気分を害した訳でもないし、それに主から離れたりもせぬぞ?」
維月は頷いて身を摺り寄せた。
「はい、維心様。」
蒼は少し驚いた。母から感じられるのは、偽の感情ではない。そんな必要はないからだ。本当に維心様にくっついて居たいと思ってくっついている…瑤姫のことは、そんなにもショックだったのだろうか。確かに娘として可愛がっていたものな。
一方維心は、維月を抱き寄せて、蒼が居るにも関わらず維月に口付けた。
「さあ、今度こそ帰ろうぞ。我が宮へ…。」と蒼を見た。「では、蒼よ。用も済んだので我らは戻る。瑤姫の件は明維に任せよ。主は己の宮のことを考えればよい。」
蒼は頭を下げた。
「大変にお世話をお掛けいたしました。また、是非にお越しください。」
維心は頷いた。
「来月にはまた参る。維月がここへ戻って来るであろうからな。十六夜が迎えに来ると申しておったわ
。我としては、あまり望ましくはないがな。」
またしても少し不機嫌な維心は、維月を抱き上げると、居間の戸口へ向かった。
蒼は見送りのために、維心についてそこを一緒に出たのだった。
維月は、不安げに維心の居間で一人庭を眺めていた。そこへ、維心が少し息を切らせて戻って来た。
「維心様!」
維月はその姿を見ると、喜んでそちらへ駆けて維心の首に飛び付いた。維心はそれを抱き留めると、息を整えながら言った。
「維月、今戻った。大事ないか?」
維月は頷いた。
「はい。寂しゅうございました…」
維心はホッとしたようにそのまま居間を歩き、定位置の椅子に座った。維月はベッタリとその横にくっついている。維心はため息をついた。
ここを出たのは二時間前、しかも宮の会合の間に行っていただけだ。だが、出掛ける時に目に涙をためて見送っていた維月を見ていただけに、気が気でなく、終わってすぐに走って戻っていた。最近は王が宮を走る姿をよく見掛けると臣下の間でも噂されていた。あの、瑤姫と蒼のことがあってから、維月は維心と離れたがらないので、本当は維心も連れて出たかったが、宮の仕事には将維も出ていることが多いので、連れて出ることも出来ず、維心は常に維月を気にしていなければならなかった。維月は聞き分けよく見送ってくれるが、寂しそうなので放っておけないのだ。維月は維心に頬を刷り寄せて安堵したような顔をしている。そして、下を向いて言った。
「…私…今回は月の宮に帰らないことに致しました。」
維心は驚いて維月を見た。
「維月…それは我はその方が良いがの、十六夜はどうするのだ。また機嫌を悪くしたら、大変なのではないのか?」
維月は黙って下を向いている。維心はため息をついた。
「維月…聞くのだ。」維心は維月の頭を撫でた。「我は蒼とは違う。考えてみよ。なぜに我が1700年も独身で居れたのか…我は力を持っておるのよ。誰も我に逆らうことは出来ぬ。今ではもっとそうであるぞ。我の意に沿わぬことは、誰も出来ぬのだ。ゆえにあのようなことは起こらぬ。案ずることはない。」
維月は維心を見上げた。
「…維心様…。」
その瞳は、まだ不安げに潤んでいた。維心は困ったように維月の頬を両手で挟んだ。
「我を信じよ、維月。主が共に居らぬからと他の女にうつつをぬかすほど、我は愚かではない。それに、臣下ももうわかっておって誰も連れては来ぬ。そもそも他の女に興味はない。この50年に我は何か怪しい行動をしたのか?ないであろう?」
維月は頷いた。維心もそれを見て微笑んだ。
「ゆえにの、あのように我らの仲がどうにかなることもないし、変わることはない。いつも通りにしておったら良いのよ。月の宮へ帰っても、我はいつも追い掛けて行くゆえ。離れていることは少ないであろう?」と抱き寄せた。「さあ、いつも不安そうにしておる主は気に掛かって仕方がないわ。それが我がためとなればなおのこと。案ずるのはやめるのだ、維月よ。」
維月は頷いたが、うつむいた。あまりに追いかけ回すので、維心に叱られたと思ったらしい。維心は慌てて否定した。
「何も我は主を咎めたのではないぞ。安堵せよと申しておるのだ。」と、またため息をついた。「…まあ、気が済むまでこうしておると良いがの。我も主を探し回らずとも良いので、楽で良いしの。」
維月はホッとしたように微笑むと、維心にしがみついた。維心はその肩を抱きながら、苦笑した。どこへも行く心配などないのに…。




