恋情か親愛か
瑤姫は、戸の外に気配を感じた。
ここのところ、何を言われても答えずに出て行かなかった為に、誰も訪ねて来なくなっていたのに…。
瑤姫はそう思いながらも、また臣下達にひれ伏されてくどくどと説得されるのは嫌だった。なので、放っておいた。
蒼も、最近はこちらへ来なくなっていた。最初は毎日、朝に夕にと訪ねて来ていたが、あまりに返事をしないため、もう来なくなってしまっていた。
さすがに新年はまずかろうと思ったが、蒼は来ず、来たのは臣下達で、瑤姫は出て行く機を失ってしまった…瑤姫自身、もうどうしたらいいのか分からなくなってしまっていたのだ。
親とも思っていた兄は生まれながらの王で、心底怒っていて自分を受け入れてくれなかった。なので、里へ帰ることも出来ない。兄は、一度決めたら曲げない信念を持っているので、瑤姫はもう、里はないものだと思わなければならなかった。兄は間違ったことはしない、言わない神の王だ。瑤姫の信じる絶対的な存在の兄から見捨てられた…。
瑤姫の心には、それはとても重くのしかかっていた。
神の女として間違っているのはわかっていた。だが、蒼とはそうやってうまくやって来たので、これでいいのだと思っていたのだ。蒼はことさら咎めることもなく、いつも優しく、そんなこともあるさと笑って見逃してくれるような王だった。確かに、甘えていたのかもしれない。なので、華鈴という王族の神の女がやって来て、自分の神の妃としての至らなさがはっきりと見えて来てしまったのだ…それは瑤姫にもわかっていた。だが、今更どうすれば良いのだろう…。
侍女が、入って来て頭を下げた。
「瑤姫様、龍王妃、維月様がお越しでございまする。」
瑤姫は、思ってもいなかったことに驚いて立ち上がった。お母様がここに?
もしかしたら、自分が一番話したかったかたかもしれない。瑤姫は急いで言った。
「…こちらへお通しして。」
侍女は驚いた顔をした。瑤姫が誰かに会うと言ったのは何週間ぶりであろうか。侍女は慌てて頭を下げると、出て行った。
瑤姫は、せめて見苦しくないようにと鏡を見た。化粧もしていない素顔の自分は、髪は乱れていないものの、やつれた感じは否めなかった。それでも、精一杯気力を尽くして向き直ると、侍女について、維月が入って来た。
維月は、何も変わらなかった。大層な難産で、人の世の医者に腹を切り開かれなくてはならなかったと聞いている。なのに、そんな様子は微塵も感じさせず、そこに立って瑤姫を見て微笑んでいた。
「お母様…。」
瑤姫が言うと、維月は手を差し伸べて来た。
「瑤姫」維月はその腕の中に瑤姫を抱き留めた。「ああ、こんなにやつれてしまって。つらかったでしょう…ごめんなさいね、もっと早くに来れたらよかったのに。」
瑤姫は涙を流しながら答えた。
「そのような…年の終わりにお子を生まれたばかりであるとお聞きしておりますのに。私のために、来ていただいて嬉しゅうございまする。」
維月は瑤姫の背を撫でながら、椅子へいざなった。
「さあさあ、私はあなたの話を聞きに来たの。なんでも話してご覧なさい。人の世も神の世も分かる女は、私ぐらいのものだもの…。」
瑤姫は顔を上げた。
「お母様、私は、わかっておるのでございます。私は、蒼様のお優しさに惹かれて共に居ることを決意致しましたのに、気付けばそのお優しさ甘えて、己の責務を忘れておりました。お兄様は間違ったことはおっしゃいませぬ。確かに私は、神の女の特性を無くしてしまっておったのですわ。」瑤姫は維月に縋るように言った。「ですが、人の女としても生きては行けませぬ。私は…とても己で稼いで生活して行くだけの能力はございませぬ。なのにこのように、横柄な考えが身についてしまって、この先どうすれば良いものか…。元の私に戻ることが出来ればよろしいのに…。」
維月は、瑤姫が気の毒でならなかった。きっと、蒼の為に人の世を学んで、そしてこのように人の女のような考えが身についてしまったのだろうに。それを今更責められても、きっとどうしようもないのだろう。
維月は言った。
「どこの世でも、夫婦とはままならぬものなのよ。格言う私でも、元は人であるからこそこれでも維心様に許されているのだと思うわ。あなたの方が余程美しくて立ち居振舞いは完璧なのだから、自信を持って。」と、維月は瑶姫の手を取った。「…一度、女の立場の復権を経験してしまうと、難しいのかも知れないけれど…このまま蒼の妃であるのなら、きっと神の女を完璧に演じなければならないわ。瑶姫、蒼とまだ共に居たい?それとも、一人で暮らせるのなら、ゆっくり一人で居たい?あなたの望みは、いったいどちら?本当の気持ちを聞かせて。」
瑶姫は下を向いた。自分はいったいどうしたいのだろう。華鈴のことは、鬱陶しいとは思っていない。むしろ華鈴にずっと通っていると聞いた時、嫉妬よりも自分の立場が危うくなって、宮に居られなくなるのを真っ先に憂いた…蒼には、家族に対するような暖かな愛情は感じるものの、今は殿方を恋慕うような感情でないのも確かであるようだ。
蒼は、兄のように絶対的な力を感じさせない。いつも優しく暖かく、それが魅力でとても慕わしいものの、段々とそれは、まるで兄弟に対するような気持ちに変わって行ったように思う…。
「お母様…蒼様のことは、確かにお慕い致しておりまする。でも、それは殿方を恋慕うような感情ではなく、まるで兄弟に対するような気持ちでありまする。どうしてこのような気持ちになってしまったのか、私にもわかりませぬが…ですが、王族の婚姻とはこのようなもの。元は何もないのが通例でございますわ。それなのに私は、始めは愛し、そして今は慕う王の妃であるのだから、恵まれておりますの。確かに幸せにしておったのですから。ですが、その…夜のことに関しましては、他の妃のように拒むという概念がないうちならどうにかなりましたものの、今は拒めることを知ってしまいました。ですので、これからずっととなりますと、やはり抵抗がございます…お兄様には叱られるかと存じますが…。」
維月は頷いた。
「そうね、わかるわ。私も神の妃にだって、拒むぐらい許されると思うの。私は維心様をとても愛しているし、いつもたくさんの懸念を抱えていらっしゃるから、少しでも癒してあげたいと思い続けて、ほとんど拒む事はなく来たけれど、嫌なら撥ね付けてたと思うわ。妃の義務なんて、何も知らずにこの50年以上来たのだもの。そうね、では、どうしようかしら…。」
維月は考え込んだ。本当なら、一度実家へ帰るのだけど、維心様のあの様子ではそれは無理だろう。
「瑶姫…妃の義務とかは全て忘れて、あなたの本当の気持ちはどうなの?行く所があるなら、ここを出たい?それとも、蒼の側に居たい?」
瑤姫はハッとした。私の気持ち…。
蒼様は、確かに良いかたで、愛していたし、離れて暮らすことを考えると寂しい気もする…。でも、お兄様のことも、兄として敬愛していて、宮を離れる時はとても寂しかったけれど、でもそれもいつも間にか癒えて、離れていることが当然になった。もしかしたら、蒼様も同じ感覚なのかもしれない。私は、今はただ、穏やかに過ごせればと…。でも…。
「お母様…すぐにはお答えできませぬ。私にもわからないのでございますわ。どうするべきであるのか、本当に…。せめて、明日までお待ちいただけないでしょうか。」
もっともな答えだった。いきなり聞かれて、答えられる質問ではない。しかし、維月にも時間がなかった。維心が、明日の朝までここに留まることを許すだろうか。何しろ、早く宮へ帰りたいと言ったのは自分なのに…。蒼のことが心配だったとはいえ、本当に、なぜにあんなふうに言ってしまったのかしら。
維月は少し考えて、瑤姫に向き直った。
「わかったわ。じゃあ、明日の朝、もう一度聞くわね。」と空を見た。少し日が傾いて来ている。「…もう少しここに居させてくれる?維心様を説得しないと、私はここに明日まで居られないから。」
瑤姫は驚いた顔をした。
「お兄様もいらしているのですか?」
維月は頷いた。
「共にでないと、来させてくれなかったのよ。ここに来るのもそれは大変だったの…維心様は、絶対にダメだと言っていらしたから。それを説得して、なんとか来ることが出来たの。」
瑤姫は感心した。
「あのお兄様が決められたことを覆されるなんて…お母様は、いったいどのようにして、お兄様を解き伏せられたのですか?」
好奇心に満ちたその目に、維月は苦笑した。
「聞かないほうがいいわ。人間不信になってしまうわよ。」
瑤姫はしかし、感心したままだ。
「まあ、本当に、お兄様が他の者の言うことを聞くなど、絶対にありませんでしたものを。お母様は、やはり大変にすごいかただと思いますわ。」
維月はなんだか情けなかった。そんな大したことではないのに。それに、ここに泊るために、また同じようなことをしなければならないなんて、瑤姫には言えないなあ…。
蒼は、維心を前に緊張していた。維心は維月のおかげで機嫌は悪くはなかったが、それでも口調が厳格なのは変わりない。維心は言った。
「つまりの、我は主に王であるのだから王らしく振舞わねばならぬと言うておるのよ。王は絶対でなければならぬ。それがこの神の世の理であるからな。王より強い臣下などおらぬ。なぜなら、強いものは弱い者にかしずかぬからだ。」
蒼は頷いた。そんなことはわかっている。だが、自分は王に据えられただけで、月の力を使えるだけで、元々そんなに強い者ではない。本当は、逃げ出したかった。だが、不死の身を持たされ、月の力を持たされ、こんな責務を負わされてしまった。これが運命なのだと言われたらそれまでだが…確かに維心も、同じように好きで王になったのではないからだ。
蒼がそんなことを思っていると、維心は続けた。
「今は我が居るゆえ、世は危うい位置で安定しておる。この太平の世は、我が力で押さえ付けて実現させたもの。だがな、我が居らぬようになれば、どうなるかわからぬ。幸い将維が、我にそっくりに力を継いで、そして最近では落ち着き始めて王らしく成長し始めている。しかしの、あれが我の代わりを務められるとは思わぬ。我は王として1600年世を生きて来た。それだけの経験と知識も得て来ておる。世を作ったのも我と炎嘉よ。なので、将維がいくら成長したといっても、我のように統治出来るまでは1600年掛かる計算になる…あれなら、月の力も継いでおるゆえもう少し早いかもしれぬがの。いくら我でも、3000年も生きることは敵わぬ。いくら地に許されても、我だって一度ぐらいは死して楽になりたいものよ。蒼、主が育たぬ限り、我は世を去れぬのだ。わかっておろう?今のままでは、我が居なくなれば、また地は乱れる。主はここを守るために戦わねばならぬ。十六夜の守りも、確かに有効であろうが、あれは命を殺せぬ。封じるだけでは、守れぬものもある。神の世は、力社会よ。押さえても押さえても、己が天下を取ろうと攻め入って来る輩は尽きることなく、戦い続けねばならぬ。そうならぬ為には、力のあるところを見せておかねばならぬ…決して逆らう気の起こらぬように、王がどれほどに強く、どれほどに情け容赦なく、統治しておるかをな。今の主では、簡単に攻められようぞ。我が居るから、ここは平穏であるのだ。我の統治に胡坐をかいて居てはならぬ。我はそう長く世に居らぬぞ。それでなくとも、これほどに生きた神は過去に居らなんだのだからな。」
蒼は、うなだれた。確かにそうなのだ。自分は維心様に、十六夜に、頼っているばかりで、少しも神の王らしくない。優しいとは良く言ったもの、ただ神や人を殺めるのが怖いだけなのだ。そして、戦場へ行く勇気すら持っていないのかもしれない…昔、闇と戦った勇気は、いったいどこから出たのだろう。それとも、闇は生きているものだとは思って居なかったから、消せたのだろうか。
「…維心様、確かにおっしゃる通りでございます。オレは、維心様が地を平定し、退屈そうにしていらっしゃる世になってから、神の世へ参りました。なので、その厳しい世を経験しておりません。そのせいで、甘えていたのだと思います…元は人であったのだから、許されるだろうと。しかし、もうその時期は過ぎたのですね。心を殺してでも、強く演じて行かねばならないのですね。」
維心は頷いた。
「その通りよ。蒼、我だって殺したくて殺して来たのではない。そうせねば己が狙われたのであるぞ。それを尽く駆逐して参ったからこそ、今では我に仇成す者などなくなったがな。皇子の頃など、宮でゆっくり寝ても居られなんだわ。しょっちゅう刺客が我を狙っておったからの。宮の軍神は役に立たぬし、己の身は己で守るよりなかったしの。」
そんなことをさらっと言う維心は、やはり1800年生きて来たのだと蒼は思った。それを、たった一人で成し遂げたなんて。きっと長かったのだろう…。
「…1800年は、長かったのでしょうね…。」
蒼が思わずそう言うと、維心は驚いたような顔をしたが、微笑した。
「終わってみれば、そうでもなかったがな。我は、維月に会った。」維心の目は、幸せそうに細められた。「あれに出逢う為に待った1800年であったなら、それが報われた思いでおる。今の我は、維月と共に居たいからこそ、重荷を負っても生きておる。平定した世に維月を迎えられたこと、よかったと思っておるのだ…あんな乱れた世であったなら、危のうて維月を置いておけぬゆえな。我はの、維月のために地を平定したのだと思うて、数々の戦も、今は後悔はしておらぬ。」
蒼は驚いた。維心様は、常々母さんをそれは大切にしていて、べったりと傍を離れないし、母さんも困ったように笑っていることが多かったけれど、それはここまで筋金入りだったのか。それほどまでに愛している、妃…。蒼は、急に維心が羨ましくなった。
「…維心様は、本当に母さんを愛しておられるのですね…。」
維心は、意外な、という顔をした。
「何を今さら。知っておるであろうが。この対も、里帰りのたびに我が追い掛けて来るゆえ、主がわざわざ我の為に作ってくれたものであろうが。」
蒼は思った。確かにそうなんだけど。いつまで経っても、愛情は薄れることは無くて、それどころか増していくなんて…オレには想像もつかない。
「維心様を見ていると、オレは、妃ですらそこまで真剣に愛したことはなかったような気がします。なんでも回りに決められて…それでいいかと思って…愛し方はそれぞれだと思っていたから、維心様や十六夜のような激しい愛情ではなかったけれど、きっとこれも愛情だ、なんて自分に言って聞かせて…」と息を付いた。「瑤姫に失礼ですね。オレは、きっとこんな心持を、暗に気取られていたのかもしれない。」
維心は、気遣わしげに蒼を見た。
「瑤姫は、我が主に勧めたのであるからの。主は最初から愛していた訳ではあるまい。もしかしたら、愛情というよりも愛着であったのかもしれぬな。華鈴も、こちらが勧めて主が妃にしたのであるしの。華鈴のことは、どうであるのだ?我に遠慮は要らぬ。瑤姫はとうに嫁がせた者であるゆえ。」
蒼は、控えめに言った。
「華鈴は…オレがこうして完全に心も成人してから出逢った女であったし、年下であるためか幼くて、最初から余裕を持って接することが出来ました。なので、瑤姫に感じた憧れのような感情ではなく、何か守ってやらねばならないような、それに、ただかわいいので、拗ねていようと機嫌の取り方が分かりやすくてすぐに機嫌を直すし、ただこちらを慕って蒼様蒼様と傍に寄って来るので…一緒に居ると、ホッとするのは確かです。愛情がなんなのかが、オレにはまだわかりませぬが。」
維心は頷いた。
「それが大切ぞ。気を軽くする存在であるのが妃だ。重くするのは妃ではないの。そんなことを許してしまうと、これからもし、もっと妃が増えた時に、宮が乱れて収集が付かなくなってしまう。炎嘉はそれで、かなり大変な思いをしたらしいぞ。本当は25人であった妃が、21人になっておったがなぜか知っておるか?」
蒼はそれは初耳だった。
「25人であったのですか?!…オレにはとても無理ですが…。」
「我にもよ。」維心は言った。「二人は最初からの妃であったので寿命で死んだ。残る2人は、炎嘉が斬ったのよ。」
蒼は仰天した。斬った?
「え…情を掛けていた、妃を?」
維心は頷いた。
「あれだけの人数であれば、毎日通っても一か月近くかかる。それに不満を訴えて炎嘉の政務の邪魔を致した…再三の。政務は大事な宮の業務。邪魔をするなどもっての他よ。あとの妃がそれに続けとばかりに皆同じような事をすれば、どうなったと思うか?」
蒼は黙り込んだ。それにしても、斬るなんて…。
「…見せしめのために、そうするのは王よ。我も炎嘉の立場なら同じことをした。炎嘉は表情一つ変えず、二人を一度に斬り捨てて、そのまままた政務に戻ったのだそうだ。それが後宮に知れ渡り、それ以後そのようなことをする者はおらなんだ。」
蒼は、王という立場が、なんとなくわかったような気がした。自分の感情ではない。全てが統治することに繋がっている…皆が王の行動を見ている。宮の者以外の、外の者までも。維心が炎嘉のそれを知っていたのがいい例だ。つまり、この宮のごたごたも、きっと外の宮では知っているはずだ…このままで放置していては、王のいい恥さらしなのだ。
蒼は顔を上げた。
「…わかりました。維心様、オレも心して、瑤姫のことは早々に対処いたします。王は、笑いものになってはいけないのですね。宮の評判にも関わるから。」
維心は大きく頷いた。
「その通りよ。わかったようだな、蒼よ。」
外では、日が沈もうとしている。蒼は立ち上がった。
「長らくお邪魔してしまった。もう母さんが帰って来ていてもおかしくないのに。そろそろ失礼をしなければなりません。」
維心も立ち上がった。
「ほんにの。維月はどうしたのか…遅いの。」
そう言った時、戸口に気配がした。




