医者
涼は、自分の仕事部屋でパソコンと向き合っていた。
教師をしているので、今度の生徒がわかりやすいように、神の世のテキストを作り直していたのだ。そこへ、十六夜がいきなり姿を現した。あまりにびっくりしたので、涼は全く反応出来なかった。
「涼!」
「…十六夜。少しは遠慮してよね、驚くじゃないの。」
「それどころじゃねぇ!」十六夜は何から話していいのかわからない様子だ。「維月の子が出ない。とにかく死に掛けてるから、維心が涼に腹を切って今すぐ子を出してくれと言えと。」
涼は目を丸くした。確かに私は外科の医者だったけど。
「私は産婦人科じゃないわ!薬だって持って来てるけどもうかなり前のものよ。帝王切開なんて、いつ見たかしら。二回ほどしか見てないのに。産科は有よ。」
「あいつはもう77歳だろうが。現役退いてるんだよ。」
「私だって現役退いてるわよ!」
「お前、毎日何人も人切ってたんだろうがよ!」
「私を闘神みたいに言わないでよ!」とため息をついた。「とにかく、母さんが危ないんじゃなんとかしなきゃならないわね。十六夜、有を連れて来て。要るもの皆持たせてすぐに龍の宮へ来て。私は李関に連れて行ってもらう。とにかく、急いで!」
十六夜は頷いてすぐに消えた。涼は念を飛ばした。
《李関!私をすぐに龍の宮へ連れて行って!》
涼は持っている医療キットをとにかく手にして、すぐに現れた李関に連れられ、龍の宮へ一気に飛んだ。
宮は大騒ぎだった。
王妃が命の境をさまよっている。出迎えた洪はおどおどとした様子で、涼を見た途端に駆け寄って来た。
「涼様!ああ、お早く!先程から子も動かなくなったと、維心様が大変にお嘆きになっていらして…。」
涼は頷いて、産所へと走った。
維月の回りには、たくさんの龍達が詰め、その中には維心も居て、維月の手を握り、必死で気を補充していた。
維心は振り返った。
「涼!」維心は憔悴しきった顔をしていた。「待っておったぞ!頼む、なんとかしてくれ…維月が、維月の体が滅んでしまう!」
そう、母さんの命は失われない。だが、体が滅んでしまう。命は月に帰って、降りるなら十六夜と同じエネルギー体になる…。形が変わってしまうかもしれない。記憶もどうなるかわからない。維心様は、それを心配しているのだわ。
涼は、皆に言った。
「人の世の産科の医者だった有を十六夜が連れてきます。私は外科だったけれど、産科の手術は立ち合ったことしかないの。指示してもらいながら、やります。」と維月の着物を脱がそうとした。「ああ、皆外へ出て。有が着き次第、すぐに切れるように準備するから。」
皆がためらいがちに一斉に外へ出て行く。維心は言った。
「我も居れぬのか。」
涼は険しい顔をした。
「…妃のお腹が切り開かれるのを、冷静に見ていられますか?維心様には無理だと思いますよ。」
維心は維月を振り返り振り返り、外へ出た。十六夜がいきなり現れた。
「維心!有を連れて来た!」と維心の背後の戸を凝視した。「そこか!入るぞ!」
十六夜は何やら荷物を持って、有を連れて入って行く。維心は自分も入ろうとして、思いとどまった。腹の子の為といえ、維月が切り刻まれるのを見るなど、怖くて出来ないー。
中では、涼が言った。
「十六夜、あなた光を出して照らしてて。見えないと出来ないのよ。」
十六夜は頷いて、立って上から光を出した。まるで太陽の光のような目映い光だ。有が言った。
「腰椎麻酔するわね。でも、母さんに効くのかしら。」
涼が言った。
「そこまではもう終わってるのよ。意識がないから、どの辺まで効いてるのかわからないけど。血圧は低めだけど、大丈夫。維心様が気を補充してたおかげね。」
「じゃあ、ここ縦に行くわよ。どうせ母さん、すぐに治るしね。」
有は手早くスッとメスを入れた。十六夜は目を見張った…そして、涙ぐみながら目を逸らした。
赤子の鳴き声に、維心はハッと顔を上げた。子が生まれた…!維月は?!薄い戸板一枚向こうなのに、維心はただ待った。
戸が開いた。十六夜が憔悴し切った顔で、布にくるまれた赤子を抱いて立っていた。
「…子は無事、維月も無事だ。」と子を維心に手渡した。「もう、こんな思いはさせたくねぇ!オレもあんなもん見たくねぇ!これを最後にしろ!これ以上子は作るな!」
十六夜はそれだけ言うと、また中へ戻って戸を閉めた。
「維月…。」
十六夜が言うと、維月は弱弱しく微笑んだ。
「十六夜…大丈夫よ。帝王切開なんて、人の世じゃ結構頻繁に受けるのよ。まして私、月だから。すぐに傷も治るし…今は半身麻酔が効いてるから、足の感覚ないけど。」
有が言った。
「それもまあ、すぐに切れるわ。母さんの代謝が半端ないから、焦ったわよ…急がなきゃ切っても閉じて来るし、麻酔は切れ始めるしで。縫わなくてもよかったから、便利だけど。」
維月は気ぜわしげに、戸を見た。
「維心様は…?維心様をお呼びして。」
十六夜は首を振った。
「維月…こんな目に合ってるってのによ。」
維月は首を振った。
「維心様のせいじゃないわ。私が気を抜いたからなの…それにとても喜んでくださっていたのに。」維月は、十六夜が呼んでくれそうにないので、念を飛ばした。《維心様、こちらへいらしてください!》
維心は、そっと戸を開けてこちらを伺った。腕にはまだ子を抱いている。
「維月…?」
維月は嬉しそうに微笑んだ。
「維心様!」と手を差し出した。「こちらへいらしてくださいませ。」
維心は急いで入って来ると、その手を取った。
「維月…辛い思いをさせてしもうた…。」
維月は首を振った。
「ご心配には及びませぬ。維心様、人の世ではよくあることです…私は元より月なので、傷だってすぐに塞がりまするし、ご安心くださいませ。人はもっと大変なのでございまするよ。私は大丈夫です。」
維心は頷いた。
「緋月よ。」維心は、腕の子を維月に見せた。「主にそっくりよ。紫月の時と同じ、我の気よりも主の気が多い。元気であるぞ。大義であったな。」
維月は微笑んだ。
「有と涼が居なければ、無事に生むことは出来ませんでした。あの二人のお手柄ですわ。」
維心は二人を見た。
「おお、急に呼び立て申し訳なかったの。大儀であった…祝いの準備が出来ておるので、休んで行くが良い。」
涼は微笑した。
「維心様…母の体は、少し疲れて来ておるようですね。月の力が守っているので、維持出来ておりますが…これ以上子を生むのは止めた方が良いかもです。前回の亮維ぐらいからおかしかったのだと思いますわ。」
維心は何度も頷いた。
「わかっておる。これ以上は生ませるつもりはないゆえに。いくら月とはいえ、体は人であるものな。」と、維月を見た。「我も考えようぞ。もう生まずともよいゆえな。」
有がよっこいしょと立ち上がった。
「この歳になって、母親の出産を手伝うとは思わなかったわよ。十六夜が血相かえて飛び込んで来るんだもの、みんなでコタツ入って年末特番見てたのに。」
有は、77歳にしては若い外見でそう言った。維月は笑った。
「私は今98歳ですものね。人ならあり得ないわ。でも、ありがとう。いくら不死でも、この体が滅んだらどうなるのか見当つかないしね。死にはしないんだけど。」
有はフフと笑った。
「とにかく私は家に帰るわ。家族が待ってるの。孫が来てるから。」
十六夜が頷いた。
「すまねぇな、送るよ。」と維月を見た。「また戻って来るからよ。」
「ありがとう、十六夜。私はもう大丈夫よ。」
十六夜はホッとしたように頷くと、有を抱き上げた。
「じゃ、行くか。」
手を振る有を連れて、十六夜は飛び立って行った。
次の日、乳母に抱かれた緋月が維心の居間へ連れられた来た。
「ああ、私はもう、いつもの出産の後と同じで、すっかりよろしいので、起きますわ。」
起き上がって立ち上がろうとする維月を、維心が気遣わしげに肩を抱く。
「そのような…腹を開いたというのに。」
維月は微笑んだ。
「もう傷跡もありませぬ。いつなり切り傷なども、維心様より早く治りまするでしょう?月は私を守っております。ご心配なさらないで。」
維月はスッと立ち上がった。侍女が慌てて袿を持って来る。維心は維月を気遣いながら、居間へと一緒に出て行った。
乳母が、頭を下げて緋月を維月に差し出した。維月は娘を抱いた。
「まあ…紫月より私に似ておりますこと。」
維心は微笑んで緋月の顔を一緒に覗き込んだ。
「そうであろう?気の色まで主に似ておるのよ…我もあまりに覚えのある心地よい気なので、しばらく手放せなかったわ。」と少し顔をしかめた。「まさかと思うが、炎嘉や義心などが嫁に欲しいなどと言っては来ぬかと心配しておる。」
維月はほほほと笑った。
「まあ維心様ったら、まだ生まれたばかりでありまするのに。」
維心は真剣に言った。
「冗談ではないのだぞ?紫月などまだ30代で嫁に行ってしもうて。成人もしておらなんだのに…まあ幸せにしておるようだしいいのだがな。」
先触れが、居間へ頭を下げて入って来た。
「南の領地の炎嘉様がお越しにございます。」
維心は慌てた顔をした。
「維月、主、奥へ戻るか?」
維月はきょとんとした顔をした。
「なぜにでございまするか?きっと祝いにいらしてくださいましたのでしょう。」
「そうよ」と炎嘉の声が入って来た。「心配せずとも、何もせんわ。娘が生まれたと聞いたので、祝いに来ただけよ。」
維心はふーと長く息を付くと、振り返った。
「炎嘉」と維心は言った。「次の日に急ぎ来るとは忠臣よな。」
炎嘉はその皮肉に気付かぬように、こちらへ歩を進めて来た。
「そうであろうが?我は龍として主にこれほど尽くしておるのに」と維月の手にある緋月を見た。「おーおー主が新しい娘であるのか。なんとのう、維月にそっくりではないか。どれ、抱かせてくれぬか。」
炎嘉は緋月を受け取ると、じっとその顔を見た。緋月はふぁ…とあくびをして、小さな手をばたつかせる。その手は炎嘉の頬にピタと当たった。
「…なんと」炎嘉は打って変わって真面目な顔をして言った。「これほどに維月に似ておるとは…気がそっくりではないか。」
その声に、緋月は目を開けた。見えているのかいないのか、炎嘉をじっと見ている。その目は、維心と同じ深い青色だった。
「だが、目はやはり主か維心よ。」炎嘉はがっかりしたように言った。「その瞳はどこまでも遺伝するのぅ。6人生んで、皆これよ。一人ぐらい維月と同じ瞳がおっても良いであろうが。」
維心はフンと横を向いた。
「そんな所まで狙い定められぬと申したではないか。もうよいであろうが。我に返せ。」
炎嘉は緋月を抱えた。
「もう少し良いではないか。維月は抱かせてくれぬのだから、緋月ぐらいは抱かせてくれても。心地よい気よ。」
維心は炎嘉から緋月を強引に取り返した。
「大事な娘よ。ましてこれを生むのに維月がどれほど大変であったか。」
炎嘉は不機嫌そうに言った。
「我と歳は近いぞ。転生したばかりであるからの。維月が駄目なら、緋月を嫁にくれぬか。」
維心はやはり!と言う目で維月を見た。維月もびっくりしている。
「生まれたばかりで何を言うか、炎嘉。200年は男は近寄らせぬぞ。紫月の二の舞にならぬように育てるゆえ。」と維月に緋月を渡した。「で、祝いに参ったのであろう?」
炎嘉は思い出したかのように膝をついた。
「王、この度は皇女のご誕生、誠におめでとうございまする。」維心がびっくりしていると、立ち上がった。「ま、200年後には我が嫁にもらいに来るがの。」
維心はムッとした顔をした。
「炎嘉、」
「親ばかよのぅ維心。」炎嘉は声を立てて笑った。「ではな。維月と緋月の顔を見に来ただけであるのよ。」
維心は不機嫌に黙って、炎嘉の後ろ姿を見送った。維月はそれを見て、クスクス笑った。
「さあ、維心様、本日はお出かけではありませんか?」
維心はハッとしたように維月を振り返った。
「そうであった。我は月の宮へ参らねばならぬ。」と維月と緋月の頬に口付けた。「急ぎ準備して行って参る。帰るまで待っておれ。」
「はい、維心様。」
維月は答えた。緋月はまたあくびをして維心に答えた。
それを見て微笑んだ維心は、着物を着換えて、月の宮へ向かって行った。




