約束
将維は、左上腕を斬り付けられて、傷は骨にまで達していた。出血が酷く、立ち合いは中止になり、将維は自分の対へ運ばれた。出血は止まったが、もしも父が手加減をしていなければ、この腕は無くなっていただろう。将維は自分の力の無さに、歯ぎしりした。自分も父にほんの僅かばかりの傷を付けたが、手加減などしていなかった。父は何かに気を取られているかのような表情でいたし、おそらく何かの気を読みながら立ち合っていたのだろうが、それでも勝てなかったー。
将維には腕の傷の痛みより、父には敵わないと見せつけられた心の痛みのほうが大きかった。わかっている…自分は一生掛かっても、父を越えることは出来ないだろう。なのに、父の妃を求めるなど、身に過ぎたことなのだ。それでも、心に深く刻まれてしまったあの夜の唇の感覚は、消えそうになかった。だからこそ、たった一度この身でそれを感じられたなら、それで諦めようと思っているのに。他は求めぬが、それが責務だというのなら妃を娶る。だが、初めてこの身を委ねるのなら、あのかたでなければ…。
将維は、気配のない月を見上げて思った。
将維が月を見上げていると、侍女が入って来て頭を下げた。
「王妃様がお越しでございます。」
将維は驚いて身を起こした。まさかここまで来る事を父が許したのか。
維月が心配そうな顔で入って来た。腕の包帯を見て、眉を寄せる。
「将維…傷は酷いの?深手を負わせたと維心様が…。」
将維は首を振った。
「父上は手加減なさっておいででした。腕は残っておりまするし、もう再生し始めております。ご心配には及びません。」
維月はホッとした顔をした。
「よかったこと…。」
将維は維月に問うた。
「それよりよくここへ来られましたね。父上はお許しになられたのですか。」
維月は頷いた。
「ええ…父上は話して来てもよいと。」と、将維に向き直った。「将維、あなたは父上と同じで約束は違えないわ。本当に一度きり、あなたと過ごしたら、また私を母として、何もせずに過ごす事が出来る?もう、触れることも許さないけれど、それを生涯守り抜ける?」
将維は、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。もしかして、父は…。
将維は身を乗り出した。
「はい。我は約したことは絶対に違えない。胸に秘めて、決して誰にも言うことはありませぬ。」
維月は迷うようなそぶりをした。将維は、答えを待った。
「では…ただ一度だけ。私は節分が過ぎれば、月の宮へ帰ります。その時にあなたも忍んで来て、そして、一夜過ごしたらここへ帰って来て。私は十六夜と遠出するので、そのあと戻ります。」
将維は頷いた。ついに、我は望みを叶える事が出来るのか…。
「我は…約束は守りまする。」
維月は頷いて、言った。
「では…月の宮で。」
そして、出て行った。将維はまた、月を見上げた。節分まで、あと14日…。そのあと、おそらく生涯忘れ得ぬ夜がやって来る。最初で最後の夜が…。
その日は、朝から雪だった。
十六夜がやって来て、窓枠から言った。
「維心、雪降らせるなよ!別に気で雪は除けられるが、飛ぶスピードが落ちちまうじゃねぇか。明日は降らせるなよ、オレ達は北海道観光するんだからな。」
維心は不機嫌に横を向いた。
「ふん、我が降らせておる訳ではないわ。これは自然現象よ。」
維月は維心を振り返った。
「では…行って参りますわ。今回は旅行が終わったらすぐに戻りますので。10日ほどのことでございまする。お待ちくださいませ。」
維心は維月を引き寄せた。
「まるで1年にも思われる。早く帰って参れ。戻れば、今度は我が旅行に連れて行ってやるゆえな。」
「維心様…。」
維心は維月を抱き寄せて深く口付けた。今夜何が起こるか知っている。だが、それは言わない方が良い。あれは我の分身…。維心はそう自分に言い聞かせていた。ほとんど同じ色の気を持ち、姿までそっくりな我の分身なのだから。
「おい」十六夜が言った。「別れを惜しむのは分かるが、長い。さっさと済ませろ、いつも一緒に居るくせによ。オレがちょっと連れ出すぐらいで大騒ぎしやがって。どうせ毎晩一緒なんだろうが。」
維心は維月から唇を離して言った。
「我は一分一秒でも傍から離したくないのだ。主のようにふらふらあっちこっち行っている訳ではないゆえの。」と維月を離した。「早く帰せ。」
十六夜はフンと横を向いた。
「こっちが返してもらう立場だってのに、最近お前は態度がデカいぞ。長く一緒に居るから自分のものだって思ってんなら間違いだぜ。こいつはオレの片割れなんだ。」と維月に手を差し出した。「さあ、行くぞ。」
維月はその手を取って、維心を振り返った。
「行って参りまする。」そして念を飛ばした。《何があっても愛しておりますわ、維心様。》
維心は頷いた。
「気を付けて行くのだぞ。早く帰れ。」維心も念を飛ばした。《我もだ、維月。毎日念を送るのだぞ。》
維月は頷いて、十六夜に抱き上げられ、雪の降る空へと舞い上がって行った。
維心はそれを、ずっと見送っていた。
月の宮へ着くと、十六夜が言った。
「維心は思いのほか落ち着いてたじゃねぇか。」
維月は頷いた。
「ええ。将維が約束をしてから全く私に何もして来なくなったから、宮の中も維心様の気持ちと連動して落ち着いた感じになってね。あの子は維心様と同じだから、本当に律義で真面目なのよ…決まったなら、それ以上は求めない。徹底しているのね。それで、維心様もこれが一番なんだと思ったのでないかしら。華鈴のことも、近々正式に妃に迎えるのだそうよ。洪が持って来ていた縁談も、一度会ってみることにしたらしいわ。洪は、王とはえらい違いだと喜んでいたわ…将維は正妃はまだ決めぬと言っていたけれどね。」
十六夜は複雑な顔をした。
「なんかなあ…オレはかわいそうに思うな。約束を守るために、お前との今夜だけのためにそうやってぽこぽこ妃を娶る訳だろう。相手だって気の毒だ。」
維月は考え込むような顔をした。
「ねえ十六夜…神の世の妃ってね、生活のために後宮へ入るのだそうよ。愛情のあるなしではないのですって。だから、いつ暇を出されてもおかしくなくて、要らないと言われて、里に帰れない妃は残って王に殺されるのですって…。だから、妃ってみんな、あんなに王に従順なの。私、知らなかった。神の世がそんなに厳しいなんて…。きっと、将維の妃の候補の子も、生活があるのよ。龍の宮は力があるから、実家も潤うのだそうよ。そんなものを背負って、皆嫁いで来るのよ…私のように、最初から何も背負ってなくて、維心様に強く求められてなんて、恵まれてるんだわ。人の世を引きずっている私は、そんな愛情もない、しかも妃の人権もないような結婚、考えられなかったんだけどね。」
十六夜は険しい顔をした。
「オレにも考えられねぇなあ。人の世しか知らなかったし。だがまあ、維心はあれでいいんじゃねぇか?お前しか目に入ってないし。お前を里に返すなんてこたぁ、まずねぇだろう。ちょっと帰って来てるぐらいで、すぐに追い掛けて来るんだからよ。だから今回は旅行にしてやったのさ。たまには誰にも邪魔されねぇで二人きりもいいだろう。」
維月は笑った。
「まあ、十六夜ったら意地悪ね。でも、いつもなら1か月なのに、今回は十日なんだから、大丈夫だと思うわ。」
十六夜は不機嫌な顔をした。
「九日だろ?本当は明日からじゃねぇか。」と、何かに気付いたように慌てて空を見た。「維心かと思った。将維だ。あいつ、ほんとに気が似て来たな。すぐに分からねぇ時があるぐらいだ。」と維月を促した。「ほら、行ってやんな。どうせこれが最初で最後なんだ。別に一日傍に居てやってもいいんじゃねぇか?オレは明日からでいいよ。」
維月は十六夜に軽く口づけて、将維を迎えに歩いて行った。
「将維。」
維月が呼び掛けると、将維は肩に積もった雪を掃いながら歩いて来た。
「途中、気で払えないほどの雪が降って参りまして」と将維は言った。「少し、失礼して着替えて参ります。」
維月は苦笑した。絶対、この雪は維心様だわ。変な所で抵抗なさるんだから…。
「では、こちらへ。父上の対を今日は使うように言われているのよ。あちらには着物もあるから…そこで着替えましょう。」
将維は頷いて、維月に付いてそちらの対へと向かった。
そこは、龍の宮の対とは違って静かだった。何が静かなのかと言うと、侍女達の気が全くしない。月の宮では、いつも侍女が控えている訳ではないらしい。呼ばないと来ないのだと、維月は言っていた。
慣れた様子で維心の着物を出して来た維月は、将維の着物を脱がして、それに着替えさせた。いつも宮では、皆が維心と間違うので、わざと違う色目の衣装を選んで身に着けさせられていた将維だったが、こうして維心の着物を着せると、びっくりするほど似ていた。十六夜の言う通り、気の色もとても似ているので、慣れた維月でも戸惑うことがある…今も、あまりに似ているので息を飲んでしまった。
将維は苦笑した。
「我は、本当に父上に似ておりますでしょう。」将維は言った。「自分でもそのように。」
維月はためらいがちに頷いた。
「本当に…。こんなに似ているなんて。」
将維は手を差し出した。
「…こちらへ。」
維月は、抵抗なくその手を取った。きっと、全く抵抗がないのは、維心と受ける印象が同じだからだ。将維は微笑すると、維月を腕の中へ抱いた。
「我はあれから母上と呼べずにおりました。ですが、この先はまた、母上とお呼び致しまする。」と言葉を切った。「ですが今日は…名で呼んでもよろしいか?」
維月は微笑んだ。
「ええ、今日だけは。それに、そのように丁寧に話さなくても良いのよ?」
将維は薄っすらと微笑んだ。
「では、維月。我は…しかしまだ日は高いし…。」
維月はクスクスと笑った。
「まあ、維心様と同じことを。」と口を押えた。「それでは、散策でも致しまするか?」
将維は首を振った。
「いや、今ぞ。」と将維は思い切ったように言って、維月を抱き上げた。「我には今日しかないゆえの。」
その声も、維心と同じだった。なので、維心だと思えと言われれば、それも出来た。だが、それでは将維に失礼だと思い、維月は将維として、その身を受けたのだった。
そして知った…将維は、本当に維心と同じなのだと。
夕方近くなり、維月はうとうととしていて目を覚ました。将維の声が頭上から降って来る。
「目覚めたか…?」
維月はハッとした。顔を上げると、将維が自分を腕に抱いてためらいがちにこちらを見ていた。
「ああ…将維。私、うとうとしてしまって…。」
将維は首を振った。
「良い。我はその…慣れないゆえに、無理をさせたのではないかと思うて…。」
気遣わしげな様子に、維月は微笑んだ。
「いいえ、大丈夫よ。それより…私、気付いたことがあるのだけれど…。」
将維は何事かと身を起こした。
「何か問題でもあったのであろうか。」
維月は首を傾げた。
「いえ、私は大丈夫。元より維心様もだからこそ私を妃にと求められたのだし。でも…将維、あなたの気も、きっと普通の神の女性には強過ぎるわ。生まれた時はさほどでもなかったから、あまり気にしていなかったのだけれど、最近の気の強さは十六夜ですら一瞬、あなたを維心様と間違うぐらいだもの。私…その、身をもって分かったのだけど、維心様と同じか、もしくはそれ以上に強い気を発するの…。」
将維は驚いた。あの時の気の拡散は、いくら自分でも押えられない。それは、父と同じように、相手を殺してしまう可能性があるということか…?
「それは、我は…やはり父と同じで、妃はこれを受け止められる者でなければならぬと…?」
維月は頷いた。
「華鈴のことも、一度気を見てみなければならないわね。それにしても、手遅れにならない間に分かってよかったこと…もしも相手を殺してしまったりしたら、それこそあなたは罪悪感を感じるでしょう。」
将維は頷いた。
「やはり、我の選択は誤っていなかった。それにしても厄介な…。妃など適当に置いておけばよいと思っておったのに。これではそれも出来ぬ。」
その眉を寄せる様が、また維心に良く似ていた。維月は苦笑した。
「それで父上は1500年、独身を貫き通したのですものね。まああの場合は、面倒だっただけみたいだけれど。案外受け止められるかたもいらしたみたいよ。父上は全部、気を受け止められないって言って断ったみたいだけど、私は記憶を見たから知ってるの。受け止められそうだけど、ピンと来ないから断っとけって感じだったもの。いい加減でしょ?」
将維は声を立てて笑った。
「なんと父らしいことよ。我も使わせてもらうやもしれぬ。」
維月は困ったように首を傾けた。
「まあ将維…でも父上には全てお見通しよ?ご自分が使っていらした手ですもの。」
「良いのよ。我にも選ぶ権利があろうて…いくら複数娶るといっても、好みでもないのは無理であるな。」
「それはそうでしょうけど。」
将維は、維月に口付けた。
「さあ…やっとこれから夜が来るの。」
維月は慌てて将維の肩を押さえた。
「待って。一度湯殿へ行きましょう。それからきちんと寝る準備をして…。」
将維はフッと笑った。
「今は母ではないのではないか?維月よ。我は我の良いようにする。湯殿は後だ。」
抱き締められて、維月はため息をついて諦めた。本当にどこまでもよく似た親子だこと…。
日は沈み始めていた。




