喪失
朝の光に、維心は目を覚ました。
少し気だるいが、不快な気だるさではない。昨夜は何か、良い夢を見ていたような気がする…しかし、それが何なのか、思い出すことが出来なかった。
こんなに日が高くなるまで寝ていたのは久しぶりだ…。維心はそう思って、起き上がろうとして驚いた。自分は襦袢の帯も締めないまま、ただ羽織った状態で眠っていたようだった。維心は寝相はいい方だったので、これには本当に驚いて、侍女達が来る前に帯を巻こうと横を見て…固まった。
女が一人、襦袢姿で眠っている。向こうは帯は巻いていたが、それが間に合わせで着られたものであることは形の乱れからわかった。
なぜ、我の寝台に女が居るのだ。維心はパニックになりそうになったが、自分の姿と、体の気だるさ、それに女という隠しようもない事実に、覚えは全くないのだが、覚悟した。きっと、昨夜は何かあった。良い夢を見ていたと思ったのはそのためか。
女は、気配に目を覚ました。維心はビクッとした。どんな顔をすればよいのだ。
「…維心様…?お目覚めですの?」
微笑んだ顔に、維心は知らないながら、今まで感じたことのない感情が湧きあがるのを感じた。それに、この「気」…。なんと惹きつけられる気であることか。
維心がその「気」の衝撃に茫然としていると、相手は不思議そうに身を寄せて来た。
「どうかなさいましたの?お顔の色がお悪いですわ。」
維心は驚いて身を退いた。維月はびっくりした。
「維心様?」
維心は、仕方なくその女に言った。
「…我は、昨夜のことを何も覚えておらぬ。だが、主とのことは、我はきちんと妃として遇するゆえ。その…主の、名は…?」
相手は明らかに驚いた顔をした。きっと昨夜、我は何か言ったのだろうな。酒を過ごしたのだろうか。しかし、それすら記憶になかった。
「まあ維心様…まさか、まったく記憶が…。」
維心は頷いた。嘘をついても仕方がないからだ。
「覚えておらぬのよ。酒を過ごしたのであろうか。そんな記憶もないゆえ…。」
相手は、維心を気遣わしげに見た。
「どの辺りからご記憶を無くされているのか、調べねばなりませぬ。私の名は維月。維心様の正妃でありまする。」
維心はびっくりした。正妃?我は婚儀を執り行った記憶もないのに!
「いったいそれは…!」
維心が反論しようとすると、維月は寝室の脇に飾られた写真を指した。自分と、この維月が、同じ色目の衣装を着て並んで座って笑い合っている。維月はそして、侍女を呼んだ。侍女が入って来て、頭を下げた。
「王妃様、お呼びでしょうか。」
「すぐに将維と、洪を居間へ呼んで。」維月は命じた。「それから、維心様の着替えをこれへ。」
「はい。」
維心はただ愕然としていた。侍女は王妃様と言った。間違いなく、この維月という女は我の正妃なのだ。しかし、自分は覚えがない。なぜに我は何も覚えておらぬのだ。何があったというのだ…!
維月は手際よく維心を着替えさせた。そして、居間に気配がするのを感じた…我の気?維心は居間を伺った。
「…何か、我の気が居間からするような気が…」
維月は維心に頷いた。
「維心様、将維でございます。私達の第一子で、只今は副王という地位におりまする。」
維心は顔をしかめた。
「この宮には副王など居らぬはずだが。」
維月は苦笑した。
「はい。維心様の命で、最近作られたのですわ。さあ、居間へ参りましょう。」
居間へと出て行くと、そこには自分の気そっくりな上、姿まで瓜二つな若い龍と、記憶より老けた洪が立っていた。
将維が頭を下げた。
「父上。」そして、母を見た。「母上、急なお呼びに驚きましてございまする。一体、何がございましたか?」
維心はためらった。この将維という龍は我を父上と言った。確かに我の子であるのは、気を見てわかる。おそらく、そうなのだ。では、やはり、我は記憶を無くしておるのか。
「将維、父上がご記憶を無くされておられるの。」洪も将維も目を見開いた。「まず、目覚めて、私のことがわからなかったわ。」
洪が叫んだ。
「なんと!王妃様のことがわからぬとは…!」
将維もあまりのことに口が聞けぬらしい。洪の言葉に頷くしか出来なかった。維心は、言った。
「洪、主のことはわかる。しかし、我の記憶より老けておるぞ。」
洪は頷いた。
「さもありましょう。維月様がわからぬということは、少なくとも維月様に出逢われる前までの記憶しかお持ちでないと言うこと。では、我が王の記憶がどの辺りで無くされておるのか、調べてみましょう。」
維月は、維心を促していつもの定位置に座らせた。そこはいつも座っていたらしく、慣れた様子で腰掛けたが、維月が横に座ろうとすると、真ん中に座るので狭かった。維心はそれに気付いて、慌てて横を空けて維月が座れるようにした。…そうか、維心様は、こんな細かい所から気を使ってくださっていたのね…。維月は今更ながら思った。
維心の目は、居間にも飾られている、婚儀の際の写真に目を止めた。二人が並んで婚儀の衣装を身に着けて、写っている。それが、不思議と心を穏やかにさせた。維心は、本当に自分は維月と望んで結婚していたのだと思った…なぜに覚えておらぬのだろう。
洪は、維心の前に座り、何を覚えていて何を覚えていないのか、一つ一つ節目の出来事などを話して時期を絞って行った。維心は一つ一つを丁寧に考えて答えて行った。
「…わかり申した。」洪はようやく言った。「王は我が父を亡くして代替わりした頃、つまりは400年ほど前までの記憶しかお持ちでありませぬ。維月様を迎えられたのは30年ほど前のこと、覚えておられぬのも道理でありまするな。」
維心は眉を寄せた。
「では、もうその先400年も経っておるのか。」と、将維を見た。「跡継ぎがどうのとうるさかったが、もうそれはないの。」
洪は苦笑した。
「もちろんでございます。王にはもう五人のお子が居られまする…全てこの維月様との間にもうけられたお子。皇子が四人、皇女が一人でありまする。」と洪はため息をついた。「他の女など目もくれず、月から奪うようにようやく正妃になされたのに。何を忘れても、維月様のことだけはお忘れにならないかと思っておりました。他に妃は、当然の事ながら居りませぬ。王は女を決して寄せ付けられないのは、今も変わりませぬ。ただ、維月様を失いたくないとそればかりであられました。」
維心はためらいがちに維月を見た。確かに、初対面でその気に魅せられた。その上、傍に居るのが心地よい。女相手に、このような事は初めてだった。
維月がその視線に、悲しげにうつむいたので、維心は心を痛めた。我は維月を悲しませている…。
「洪、直ちに原因を調べよ。我も早よう思い出したいゆえに。何が我をこのようにしておるのか、早く突き止めねば…」
維月のために。維心はその言葉を飲み込んだ。このような感情は初めてだ。どう表現すれば良いのかわからない。そして、維月にどう接したら良いのかわからない。だが、早く思い出したい。我は維月を愛していたのか…。
洪は頷いた。
「では、御前失礼致しまして、対策を考えまする。」と将維を見た。「将維様、お手伝いいただけまするか?」
将維は頷いて、維心に頭を下げた。
「では、我は父上のご記憶の手掛かりを探しまする。」
二人は出て行った。
残された維心は、維月をどう扱えば良いのかわからなかった。今までになく好意は持っているが、維心にすれば今朝会ったばかりの女なのだ。そして、今までそんな経験もなかったので、好意をどう示せば良いのかも見当もつかなかった。
維心が困っていると、察した維月が立ち上がった。
「…では、私は侍女達と庭へでも散策に参りまする。維心様はこちらで、洪達の報告を待たれるでしょう?」
維心は戸惑いながら、頷いた。維月はまだ悲しげに微笑んで、侍女を呼んで庭へと出て行った。
維心は、庭を侍女達と笑いあいながら歩く維月を目で追った。見ているうちに、自分がいつも維月をこうして目で追っていたような気がした。月から奪うようにと洪は言った…それほどのリスクを負ってまで望んだ妃。維心は何も覚えていないのに、心の奥から何かの感情が湧いて、苦しいほどに心を乱すのを感じた。
そうだ、愛している…。自分は維月を愛している。一目で抗えない感情がわき上がるほど、惹かれているのだ。
だが、維心にはどうすれば良いのかわからなかった。しかし、あれが妃である幸福は、維心の心を満たして行った。
「こんな時に」居間へ突然に入って来た、青銀の髪の相手は言った。「いや、もしかしたらこんな時だからか?将維が知らせて来た。維心、お前、記憶を無くしたんだって?」
維心は驚いた。自分にこんな風に話し掛けて来るのは、炎嘉だけだったからだ。
「…そうだ。ゆえに主の事もわからぬ。」
相手は椅子にそっくり返って座った。
「ふん、まあ維月を忘れるぐらいだ。オレを忘れてもおかしくはないわな。オレは月だ。」と維月を振り返った。「これじゃダメだな。お前、月の宮へ帰って来るか?」
維月は困ったように首をかしげた。
「でも十六夜…維心様をこのまま残して行く訳には…。」
十六夜は言った。
「こいつは何も覚えてないんだ。お前の事だって他の女と同じようにしか、今は見えてねぇんだぞ。前の維心なら、命を掛けてお前を守っただろうが、今は怪しいもんだ。任せられねぇよ。」
維月はうつむいた。維心は洪の話を思い出していた…月から奪うように…。では、月は維月を取り返すつもりでいるのか。維心の心に、言い様のない気持ちがわき上がった。
「その必要はない。我は何があろうと我が妃は守る。主に言われるまでもないわ。」
十六夜は驚いた顔をした。
「…維心、お前、覚えてないのに…」と、ふふんと笑った。「そうか。お前、覚えて無くても維月が好きなんだな?」
維心は戸惑った。何てはっきりと物を言うのか。
「それは…あれほどたくさん子をなしたのだから、そうであろうと思う。」
十六夜はため息をついた。
「そうか。何が起こったのかオレにもわからんが、早く記憶を戻してもらわねば困る。調べてやる。それまで、維月を守れ。」
と十六夜は立ち上がった。
「…ったくよ、いつ何が起こっても不思議でないってのに。」と維心を振り返った。「忘れるな。こいつは炎嘉も狙ってるぞ。とられるなよ。」
維心は目に見えて驚いた顔をした。炎嘉も?!我の妃を…?
その様子に、十六夜は鼻を鳴らした。
「やっぱりな。まあ知らなくて当然か。神世は略奪社会だろう。だから、一人でふらふら散歩なんかさせるんじゃねぇ。前のお前は、風呂にまでついてったぐらい、必死で維月を守ってたんだ。少しは危機感持ちな。じゃあな。」
十六夜は月の上った空へ飛び立って行った。
維月は、居心地悪そうに言った。
「申し訳ございません、維心様。十六夜は維心様の友であったので…ただ、口が悪いんですの。」
維心は頷いた。そんな事より、維月はそんなに…我が風呂にまでついて行くほど、狙われる存在であったのか。まさか炎嘉まで…だが、確かに炎嘉は無類の女好きだ。それがこの維月を見て、無関心でいるはずはない…。
維心が黙って居るので、維月は歩き出しながら言った。
「私は、そろそろ休む支度を致します。失礼致しますわ。」
維心は慌てて言った。
「湯殿へ参るのか?我も共でなくて大丈夫か…」
維心は自分で言っておきながら、ためらった。しかし、我には何の記憶もないゆえ、どうすれば良いものか。
維月は察して首を振った。
「大丈夫ですわ。露天には出ないように致しますので。それでは…。」
維心は維月を見送りながら、思った。わが宮に露天風呂など出来ていたのか。知らなかった。
そして、維心も男風呂の方へと向かったのだった。
寝間着に着替えた維月は、維心に頭を下げた。
「それでは、お休みなさいませ。明日には、良い知らせが参ればよろしいですわね。」
微笑んだ維月は、維心の寝室には入らず、おそらく自分が設えさせたであろう、次の間の維月の部屋へと向かって行った。
「あ…」
維心は声を掛けようとしたが、何も覚えていないのだ。どう言えば良いのかわからない。維月は、維心が戸惑っているうちに、次の間へと消えて行った。
維心は仕方なく、自分の寝室へと入り、寝台に横になった。いつもそうしていた記憶しかないのに、次の間が気になって仕方がない。しかし、自分には女を抱いた記憶がない。なので、維月に対してどうすれば良いのか全くわからなかった。
だいたい、そうしたいと思った事もなかった。なのに、維月は違う。傍に行きたい。
維心は起き上がって、次の間へと向かう戸口の前で悩んだ。二人の寝室はつながっている。それに、我の正妃であるのだ。きっと、共に眠るぐらい許されるだろう。
維心は思いきって、戸口を押して開いた。
閂は掛かっていなかった。維心がそこへ入って行くと、寝台に座って何かを読んでいた維月が目を上げた。
「まあ、維心様。どうされましたか?眠れませぬか?」
維心は維月に歩み寄った。
「維月」維心は言った。「我は何も覚えておらぬ。今の我は、400年前の、女を寄せ付けない頃の我であるのよ。」
維月は頷いた。
「わかっておりますわ。私は維心様と何度も心をつないで、よく存じておりますから。気になさらないで。」
維心は首を振った。
「であるのに、我は主が気になって仕方がないのよ。我は…確かに、主を愛しているのだと思う。しかし、どうすれば良いのか見当もつかなくて…昼間は、悪かったと思っておる。」
維月は驚いた顔をした。
「まあ維心様…。」
維心は、維月に近寄った。
「維月…主は我の妃であるのだな。では…その、共に過ごしても…。」
維月はまだ驚いた顔をしていたが、微笑して頷いた。
「それなら私がそちらへ参りましたのに。維心様がわざわざこちらへ来られなくとも…。」
維心は、ホッとしたような顔をしたが、またすぐに緊張した面持ちになった。そうか。維心様は初めてだという感覚なのだわ。維月は、じっとして待った。
維心は、維月が足に掛けていた上布団を避けると、自分も寝台に入って来た。維月は横に寄って、維心の場所を空けた。並んで座ると、維心は緊張したまま維月に唇を寄せて来た。維月は自分も緊張するのを感じた。もう30年以上、毎日こうして来たのに。
唇が触れると、維心はそのまま維月を寝台に押し倒した。
そして、その肌に触れ、これほどの幸福は初めてだと思った。