誤解
次の日の朝早く、維心が居間から出て来ると、十六夜がそこに立っていた。維心を見て、片眉を上げる。
「なんだ、維月は?」
維心は十六夜がそれを知らぬのに驚いた。
「まだ寝ておるのではないか?昨夜は次の間で休んでおるからの。」
十六夜はびっくりしたような顔をした。
「なんだって?…今までそんなことはなかったろう。」
維心は不機嫌に横を向いて椅子へ向かった。
「…我とていつなり維月ばかりを求めておるわけではないわ。」
十六夜は怪訝な顔をした。
「他の女か?」
維心はキッと十六夜を見た。
「だから我は女のことばかり考えておるのではないと言うに。昨日は考え事があったのよ。」
十六夜はあまり信じていないようだ。だが、言った。
「そうか。だったら連れて帰るのも気を使わないでいい。いきなり来たから断られるかと思って、いろいろ理由考えてたけどよ…じゃ、起きて来たら連れて帰るからな。」
維心は険しい顔で言った。
「なんだ?急に。」
十六夜はその辺りの椅子へ腰掛けた。
「別に。会いたくなったから来ただけだ。ここのところオレも蒼と忙しくてなかなか来れなかったしな。1、2ヶ月維月とゆっくりしたいと思ったのさ。人の世の温泉にでも旅行へ行くかな。」
十六夜は伸びをしてあくびをした。そして、傍の侍女に言った。
「維月を起こして来てくれないか?あいつの予定もあるだろうしよ。」
侍女はためらいがちに維心を見た。維心は立ち上がった。
「我が行こう。主はここで茶でも飲んで待っておれ。」
維心は、自分の部屋から維月の部屋へ向かった。
部屋に入ると、維月は意に反してもう起きていた。
窓際のテーブルに座って、目を閉じて何かに意識を集中している。…誰かと、念で話している。維心は咄嗟にそう悟った。維月は維心に気付くと、ハッとした顔をして目を上げた。
「…維心様、おはようございます。お早いですわね。」
維月は立ち上がった。維心は言った。
「邪魔をしたか?」と維月に歩み寄った。「…誰かと話しておったのだろう。」
維月は首を振った。
「いいえ、よろしいのです。何か御用でありますか?」
「十六夜が来ておる。」維心は言って、だからこそ、念の相手は十六夜ではないことを知っていて、誰なのか気になったが、聞かなかった。「主を連れて帰ると申して。」
維月は苦笑した。
「まあ、本当に十六夜は…」と維月も歩き出した。「明日は新年の式典でございますのに。本当にお構いなしなのですわね。日を改めてもらいますわ。」
通り過ぎる維月の腕を、維心は掴んだ。
「…昨日は、言い過ぎたと思っておる。」維心は維月と目を合わさずに言った。「我が、悪かった。」
維月はそれを見て少し黙ったが、首を振った。
「よろしいのです。維心様がお悪いのではありませぬ。維心様が神の王であることは、わかっておることなのですから。私の考えが浅かったのです。考え方が違うのは、今に始まったことではありませぬゆえ。」と、やんわりとその腕を維心の手から抜くと、足を戸に向けた。「さあ、十六夜は短気でありまするから。話を致しますわ。」
維心は頷いたが、維月が考えの違いを理解しては居ても、それを許しているのかまでわからなかった。何か壁が出来ているような気がする…。維心は思ったが、自分の心の中も、何かもやもやとして落ち着かなかった。維月が自分を信用していない…。それが、維心にとって、これまで絆を深めて来たと思っていただけに、大きな衝撃だった。我が維月に手を掛けると思っている、他の女を欲することがあるかもしれぬと思っている…。
それだけで、維心の気持ちは暗く沈んだ。これ以上、自分はどうやってこの愛情を表現すれば良いのかわからない。これで駄目なら、諦めるしかないのか…。
維心はそんな考えが浮かんだことに、驚いて首を振った。誰に求められようとも、手放さずに取り返し、守って来た維月なのだ。諦めるとて、離れて暮らすことなど、絶対に出来ない。どんなに拒まれようとも、自分の傍に置いて、離さぬ。
維心は歩いて行くその維月の背中を見ながら、思っていた。
居間へ入ると、十六夜が立ち上がって維月を腕の中に引き込んだ。
「維月」と十六夜は維心にお構いなく維月に口付けた。「念で話すばかりで、長いことこうして会えなかったじゃねぇか。しばらく帰って来い。人の世の温泉に旅行に連れてってやるぞ。」
維月は嬉しそうに微笑んだ。
「まあ十六夜ったら、私が何が好きか知ってるからって。」と首を振った。「でも、すぐには無理よ。明日から新年の式典があるのよ。だから、蒼だって忙しかったんじゃないの?」
十六夜はそうだった、という顔をした。
「…そうか、お前も王妃なんだもんな。そりゃ無理だ。じゃあ、それが済んでからにしよう。節分がどうのと蒼は言ってたしな…」と蒼に持たされているらしい腕時計を見た。「そうだな、二月十日辺りからなら大丈夫だろう。」
維月は頷いた。
「わかったわ。」
十六夜はあっさりと維月を離した。そして窓に向かって歩き出した。維月は慌てた。
「なあに、もう帰るの?」
十六夜は笑った。
「ああ。話しだけならいつでも出来らぁな。」と窓枠に手を掛けた。「観光地を探しといてやるよ。お前、カニが好きだったよな。確か蒼が正月用に大きなタラバガニを北海道から取り寄せてたんだ…北海道でも行くか。」
維月は目を輝かせた。
「人の時一回だけ行ったきりよ。私、十勝岳温泉に行きたい。」
十六夜はふふんと笑った。
「お前は変わらねぇなあ。温泉と食い物が好きでよ。じゃ、蒼にネットで予約入れといてもらう。」と維心を見た。「じゃあな、維心。邪魔したな。」
十六夜は飛び立って行った。維月は子供のように笑いながら、十六夜に手を振っていた。
その姿を眺めながら、維心は思った。十六夜は、維月を赤子の時から見て来て知っている。何を好んで、何を嫌うのか、どう感じるのか、誰よりも知っている…だから、ああも簡単に維月を心から笑わせることが出来るのだ。離れて暮らして、たまにしか会うことはないにも関わらず、十六夜は自分より維月と近い気がする…。そして、維月は、何よりも十六夜を信頼しているのだ。きっと自分を手に掛けるなどと、疑うことはないだろう。
50年も一緒に暮らして来て、維心は自分の無力さを突きつけられているような気がした。そして、張りつめていた気が、抜けるような気がした。
次の日は、新年の式典があった。維心の誕生祝いも同時に行われるため、宮はいつの正月にも増してすごい人だかりであった。
維月はいつものように重い打掛を着せられ、髪にたくさんのかんざしを挿されて、維心の隣に座っていた。
昨夜も、別々の部屋に分かれて休んだ二人であったが、維月はそれをさして気にしている風もなく、機嫌よく微笑んで座っている。維心は出来てしまった壁を打ち崩す気力も今はなく、ただ落ち着いて臣下達や訪問客の挨拶を受けていた。
それが宴席の場に移っても、状況は変わることなく、だからと言って、傍に居るものには全く不仲には見えなかったので、滞りなく進んで行った。ただ、いつも傍にいる将維や洪にはわかったようで、気遣わしげに見ている。それでも、何も言って来ることはなかった。
炎嘉が酒瓶を持って進み出て、維心に言った。
「そら維心、もっと飲め。」
維心は眉を寄せた。
「それは我の酒だと申すに。主は我の臣下であるぞ?」
維心は言いながらも、杯を差し出した。
「いいではないか、今日は祝いであろう。」と、維月を見た。「今日も美しいの。眠そうにしておるのがまた格別よ。」
維月はうとうととしていたのを、ハッと顔を上げて薄っすらと微笑した。維心は何も言わない。炎嘉は不思議そうにしたが、自分も杯を口に持って行った。
維月は、維心と炎嘉が何かを話しながら飲んでいるのは知っていたが、眠くてそれどころではなかった。
身動きとりにくいこの打掛のせいで、じっと座っているので退屈で眠くて仕方がない。すると、将維がそっと何かをカップに入れて持って来た。
「母上、お好きなコーヒーでございますよ。目が覚めると申していたので。」
維月は将維に笑い掛けた。
「ありがとう、将維。私、こういう式の場ではどうしても間がもたなくて…きっと向いていないのね、こういうの。」
将維は微笑んだ。
「母上は昔からそうでございました。我は初めの頃困ったものでございます。まだ10歳の我にもたれて眠っておられた時は、我もどうしようかと思ったものです。」
維月は思い出して恥ずかしそうに言った。
「ほんとに眠かったの。退屈なのに、人の頃から慣れていないから。」と立ち上がった。「少しお庭へ出て来るわ。このままだと、またその頃の二の舞になってしまうから、目を覚まさなきゃ。」
維月は維心に断りを入れ、立ち上がると、南の庭の方へと出て行った。将維は母が心配で、後について歩いて行った。
維心は、歩き去る維月を目で追っていたが、視線を落とした。炎嘉がそれに気付いて、言った。
「維月がおったから聞けなんだが、主、維月とケンカでもしたのか。」
維心は驚いたように顔を上げた。
「何を申す、炎嘉。」
炎嘉は首を振った。
「誤魔化さんでも良い。我にわからぬとでも思ったのか。主らは表面上は夫婦としてならんでおるが、心は全く別の方向を向いておるではないか。前までのように、べったりとくっついておる訳でもないしの。特に維月は、どこか遠くを見ておるな…月か?いや、そんな感じではないの。」
維心はため息をついた。
「主には隠し事は出来ぬの。」と立ち上がった。「庭へ出ようぞ。北のほうへ。」
維心は炎嘉を伴って、北の庭へと歩いて行った。
北の庭は、静かで空気が冷たかった。もう月が上っている。
炎嘉は黙って歩く維心の後について、池のほとりまで歩いた。維心はそこのベンチに腰掛け、炎嘉にも座るように言った。
「…それがな、一昨日のことであるのよ。」維心は唐突に話し始めた。「将維も維月を想うておることがわかっての。母としてでなく女として。それに本人も気づき、決して母以上に想うことはないと言って、妃を早く娶ると言っておったのだが…維月はあくまで将維を子としてしか見ておらぬのがわかっての。我は将維が、特に急いで妃を娶る必要はない、でないと運命の女が見つかった時、もしそれが、維月のように他の妃を許さぬ女なら、将維は全ての妃を殺してしまうだろうからな、と言ったのよ。」
炎嘉は頷いた。それは我だってそうであったと思う。維心は続けた。
「維月が訊くので、我も維月を得るためなら、我も全て殺しただろうことは言った。すると、維月は、我にもし想う女が出来たら、自分を殺すのかと問うて来たのだ。」
炎嘉は両眉を跳ね上げた。
「なんと。我も主と同意見ぞ。維月を得るために、我の前の21人の妃が足かせになるのなら、里に帰らぬ者は殺したろうな。それでなぜに、維月を殺すことになるのよ。」
維心はかぶりを振った。
「わからぬ。おそらく我は信用されていないのであろうな。そもそも、我にはあれ以外に妃など居らなんだというのに。」
炎嘉は考え込むような顔をした。
「…人であったからか…。主も苦労するの。人と神は考え方が違う。それに、主は長く王であったからの…さらにその考え方は違うだろうて。我だって、もしも維月と暮らしておったなら、主のようにすれ違いが起きて大変であっただろうと今思ったわ。美しい花ではあるが、たまに触れるぐらいで、脇で見ておるのが良いの。」
維心は長くため息を付いた。
「…そうなのであろうか。しかしの、我はあれを手放す勇気はないのよ。あれに疎まれようとも、もしも宮の遠くの部屋へ移ってしまおうとも、我は手元から離したくない。なので、怖くて今は手が出せぬ…月の元へ戻ってしまいそうでの…。」
炎嘉は険しい顔をした。
「月は強敵ぞ。今は月に気配がないゆえ聞かれておらぬだろうから申すが、あれの感覚は維月と同じ。つまりは人と同じであるのよ。ゆえに維月の気持ちがわかる。維月が嫌うことは言わぬであろうよ。おまけにヤツは維月と赤子の時からの付き合いであるというではないか。個人的な機微までとらえられるとあっては、主に勝ち目はないよの。早よう仲直りせねば、取り返しのつかぬことになるぞ。まあ、維月を狙ろうておる我が言うのもなんだがな。」
維心は弱弱しく笑った。
「…わかっておるが、我に今そんな気力はない。これ以上何か言ってしもうて、厭われたらと思うと、今、とにかく傍に居ってくれるのだから、これで良いかと思うてしもうて。」
炎嘉は慌てたように言った。
「何を悠長な。これだから主はいかんのよ。心など、日々変わって行くのだぞ。今こうしておる間にだって、もしかしたら、主にそっくりだが維月が育てて維月の心が分かる将維にでも、ふらふらと抱かれておったらどうするつもりぞ。将維だって、維月に縋られれば、絶対に断らぬわ。我から見ても、あの二人はびっくりするほど似合いぞ。年が近いしの。」
維心は肩を落とした。
「確かにあの二人は、親子であって親子ではない。維月から生まれはしたが、あれは我の子よ…維月が月であるからの。遺伝子的にはつながっておらぬ。月の命の力で、少しばかり維月に似てはおるがな。あの身は人であるから。龍は生めぬ。月の命が生んだのだ。」
炎嘉は立ち上がって維心を見た。
「なあ、なぜに主はそんなに諦めておるのよ。我から取り返した時の気概はどうしたのだ。それに、ここへ連れ戻した時の執念は?」と維心の顔を覗き込んだ。「もう月に帰すつもりか?それとも己の息子に取られるのを、指をくわえて見ておるのか?まあ、我はどっちでも良いがな。我は今は離れて眺めておる派よ。そのように苦しむのも疲れるゆえ。」
維心はキッと顔を上げた。
「…諦めてなどおらぬ。あれは我が妃ぞ。月に帰すことも、将維に渡すこともない。」
炎嘉はその目を見て満足げに笑った。
「良い目ぞ。ところで」と視線を左斜め横、南の方へ向けて炎嘉は言った。「闘志が湧いたのなら、南の庭へ急いだ方が良くはないか?」
維心はハッとして顔を上げた。嫌な予感がする…将維の気が上がっているのを感じる。まさか。しかし、有り得ぬことではない。
維心は宮の中なのに、一気に飛んだ。




